1994年7月15日 [ 2 ]

文字数 2,377文字

 本棚に面白そうな本はないかと背表紙を順に眼で追う。どうやら、しっかりとジャンルが分けられているようで、私が見ていたのは伊勢志摩に関する郷土資料が収められた棚のようだった。色褪せた古書は、白っぽく透けた懐かしい感じのする薄い紙に包まれ大事に保管されている。もし、破いたり、装丁が崩れてしまったりしたら大事なので、古そうな本を手に取ることは遠慮しておいた。その並びに比較的新しそうな一冊「真珠 御木本幸吉」という本があった。私は、ばい屋で買うか悩んだあの真珠のイヤリングのことを思い出し、本棚から本を引き抜くと床に腰を下ろし読み始めた。

 小一時間程、読書に没頭していた私は、休憩がてら珈琲を淹れ、ポーチで煙草を吸いながら真珠のことを思い返していた。ここが真珠の有名な生産地ということもピアノに聞かされるまで知らず、ましてや、養殖真珠の生みの親とされる御木本幸吉のことを知る由もなく、自分には、これまで全く係わりのなかったことが、ご当地に居ることで急に眼の前に現れたようだった。偶然に訪れた場所、突然差し出された魅力、こんな一日にしか手に取るようなこともない本。

 本の中程に至ると数点の白黒写真が掲載され、何気なくページを捲った先の予期せぬ一枚の写真に私は驚き、ひどく狼狽した。見開いたままの本を遠ざけるようにテーブルの上へと置いたものの、動悸は激しく、眼を逸らした先に映る芝さえもが写真の残像で上書きされ、焦点はとてもじゃないが定まらない。急に噴き出す汗も夏の暑さのせいではなく、むしろ、それは寒気に近かった。木の椅子の背もたれに身を預け、珈琲をゆっくり一口流し込むと、私は無意識に煙草に火を点けていた。
 根元まで火が迫る頃には気持ちも次第に落ち着きを取り戻し、私は眼の端に映る本の写真をもう一度ちらりと見たが、やはり、そこには置き物の黒い馬があった。

 こんな時、生活感のある行動が、船の錨のように私を現実へ留めてくれるはずだと、私は家の裏手へ、ぼんやりと歩いていった。すっかりと乾いた洗濯物の肌触りには、ある種の幸せや安心があることに気付かされる。それでも、洗濯物を畳みながら意識に入り込む黒い馬はどうすることも出来ず、不思議と繋がってゆく事象の果てを確かめなくてはならないのかと、私はまた、とぼとぼとポーチへと戻った。

 あれ程までに気になっていた黒い馬を直接突き付けられたので私は戸惑っていた。もちろん、本物の黒い馬をこれまでに見たわけでもなく、私の頭の中にだけ現れることは誰のものでもなく、それは確実に私だけのもので、幼い私が創造した聖域に住む守られた存在だった。しかし、永遠に、そこへ閉じ込めておくことが幸せなのだろうか…… そんなことを考えながら、私は覚悟を決めて本の続きを読んだ。
 午年だった幸吉が馬を好んだことや、知人達から贈られた鋳造の馬の置き物のこと、また、日常使っていた湯呑やお気に入りの矢立という道具まで馬のデザインだったことが記されていたが、私が求めていたような、つまり、私の黒い馬のヒントになるようなことは一切なく、ただの偶然と思い過ごしの結果に落胆と安堵が入り混じった。知りたいと思ったり、分かりそうになると焦ったり、これは正に、何がしたいのか自分でも分からない私を象徴していて、結局、何もしないはずの一日は、大きく私の内面をえぐり取るようなことになった。そして、黒い馬と向き合うことは、避けられそうにもなかった。

 手持ち無沙汰のまま、ふわふわとした時間を独り無為に過ごす午後は、時間が経つのも遅く、黒い馬のことばかりを繰り返し考えては、終わりのない幻影に惑わされていた。音の余韻、音の予感、ピアノの演奏、私が黒い馬を見た場面には音という共通点以外に何も見当たらない。見落としていることはないか、気付いていないことはないか、色々と考えてはみるけれど、灰皿の吸殻が増えるだけで、底を突いたマグカップみたいに頭は空っぽだった。どうすればいいのだろうか…… こんな時、都合良くピアノが現れて、全て笑い飛ばしてくれたら気分も良くなるけれど、木立の陰からビートルが勢いよく走り込んでくることもなく、私は行き詰まる。

 無常にも時は過ぎるだけで、何も得ないまま夕刻は迫っていた。一日、いや、数時間で片付くことではないと理解しつつも、私の妙にこだわる癖が答えを、もしくは、きっかけがないかと焦らせる。委縮した思考をいくらひっくり返してみても何も見当たらないのは、他でもない私の想像する世界が、いかに小さいかを露呈するだけだった。
 陽は傾き、芝の上に這う影も形を変える。私は本を抱え家の中へ入ると、本棚へ本を戻した。本に囲まれた静かな部屋は、夕陽へと移り変わろうとしている淡い光で満たされている。国内外の小説、ミュージシャンの伝記、絵本、アートブック、図鑑、古いLIFEやPLAYBOYのバックナンバー、歴史書、灯台に関する本なんてものまであり、その一冊一冊の背後には、携わった膨大な数の人が存在し、到底、私の頭なんかでは処理し切れない程の情報と知識で部屋は溢れていた。それに比べ、私は本当にちっぽけだ。


「だから、あっちの道の方がイイって言ったやん! こんな遅くなって、ミチヨ待ちくたびれてるで」
「いやいや、あっちの道で行ったら、この時間もっと混んでるから、もっと遅くなってるし」
「ああ、全然納得いかへんわ! もういい、ミチヨー、帰ったでー、って暗っ! ミチヨー、どこいんのー」
 ピアノ達の騒がしい声で目覚めると、外も部屋の中も真っ暗だった。
「ミチヨ―、入るでー、あっ、居た! そして、また寝てるんか、ミチヨは」
 ダイニングから射し込むオレンジ色の灯りを背にし、語り掛けるピアノのシルエット。私を呼ぶその声を、私はどれだけ待ち望んでいたのだろう。
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