1994年7月14日 [ 1 ]

文字数 2,661文字

 昨夜、というか、まだ陽も落ち切らない時刻。湯上りだった私は、あてがわれていた本がいっぱいの部屋に入ると、敷かれていた布団のシーツも枕カバーも新しく取り替えられていたことに、また恥ずかしくなった。まだ、お詫びも何も言っていなかったし、申し訳ない気持ちはありつつも、新しいシーツに倒れ込んだ私は余りに気持ち良すぎて、またもや、そのまま眠ってしまった。夏休みのプールの後の午睡のように。

 全く夢を見ることもなく目覚めた私が、また網戸から流れ込んだそよ風に舞う白いレースのカーテンをぼんやりと眺めたのは朝だった。同じような朝を繰り返しているような気分で起き上がると、もちろん着ていた服はしっかりとピアノに借りた黒いTシャツと黒い短パンで、これまでと違う朝は部屋のドアを開けてからも続いていた。
「あっ! 起きたな、ほんとミチヨはよく寝るねー」
「おはよう、ミチヨさん」
「おはよう……」
 目覚めてすぐの姿を晒すなんて気恥ずかしく、久しぶりに実家へ帰った感じを思い出す。いい加減、そろそろ歯を磨きたかった私は、預かってもらっていたパンダの鍵を受け取ると外へと出た。
 今が何時なのかは分からないけれど、暑くなる前の、まだ早い時間の午前の大気が瑞々しくて、木々の影に入った芝も青々としている。
 鍵でパンダのドアを開けると、車内の蒸された甘い匂いが湧き出し、ようやく私は歯磨きセットを手にすることが出来た。私は、そのまま外のポーチに座りながら歯を磨く。黒とターコイズ、二台仲良く並ぶパンダ。志摩というところの、どこかも分からない道の果てにある家の白いペンキの剥げかけたポーチ。シャカシャカと口の中で鳴る音は譜面に起こされることもなく、ちょうど鳴き出した一匹の蝉の鳴き声だけが延々と止むことなく続く。
 五線譜のことは、もうどうでもよかった。慣れ親しんだものとの別れに少しの淋しさはあったけれど、薬を飲めば元通りというわけでもないし、そもそも、必要なものかも分からない。思い返せば、強迫観念から生まれた不必要なイメージなのだろうか…… とりわけ、音に関して現れる黒い雌馬に執着するが故の…… 私の何かが変わったのだろうかと考えてみても、よく分からない。そんなことについて思いを巡らせていると家の光景が浮かび、家が恋しくなった。私は、いつ帰るのか。予定もなければ帰る日にちも決まっていない遠出の終わりって、どうやって決めるのだろう。
 そのまま歯を磨きながら、家の裏手へと回ると、きっと昨日、干してくれたのであろう私とピアノと、おそらくオサムさんの服が、家と木の間に張られた三本の洗濯紐にずらっと吊り下げられていた。もう、何から何までお世話になりっぱなしなのに、洗濯までさせた自分が嫌になる。とにかく、ぶら下がった自分の下着だけはさすがに恥ずかし過ぎるので、外して短パンのポケットに押し込んだ。

 散々、歯を磨いて家の中へと戻った私は、口をゆすいで顔を洗い、そして、ダイニングへ行くと、テーブルには豪勢な刺身が大皿に盛り付けられていた。
「ミチヨ、お腹空いてるやろ?」
 朝から、とんでもない量の刺身を眼の前にして私は驚いたが、もしかして、これは昨晩の為に用意されていたのではないかと思うと、これまた申し訳ない気持ちがよぎる。普段、朝なんてろくに食べない私だったが、二日連続で健康的な朝ご飯を用意され、しかも、しっかりと胃は空っぽだったので、もてなしにも素直に甘えた。

 食後、せめてこれぐらいは、と洗い物を買って出た私は、シンクを前に食器を拭き上げるピアノと並んで立っていた。
「今日な、ミチヨとどっか行けたらよかったんやけど、お昼過ぎにピアノのお稽古入ってて、残念やけど行けへんねんなー」
「お稽古って? まさかピアノが習ってるの?」
「ちょっと、ミチヨ誤解してるやろ! ワタシが習うんじゃなくて、ワタシは教える方なっ!」
 一瞬、本気でピアノが先生に習っているところを想像した私は、面白可笑しくてつい笑ってしまった。
「あっ、ミチヨ今、生徒のワタシを想像したやろ! そんなわけないやん!」
 ピアノがどうやって暮らしているのかに興味はあったけれど、ピアノの先生と聞いて何となく納得した。それでも、霞だけ食べて生きていけそうなピアノも不思議ではなくて、垣間見えた現実というのは少し淋しくもあり、あまり考えたくもない今後の私の迷いや不安が一層募ることとなった。

 ピアノとお茶を飲みながら談笑をしていると、時間はあっという間に過ぎて時間は正午になる。お稽古のお宅へ訪問するピアノは、いつもオサムさんがパンダで送っていくことになっているらしく、それならと、少しでも何かの役に立ちたかった私は送迎を申し出た。ピアノを待っている間、近くを色々見て回れるので私にとっても好都合であり、何より適当な替えの服と下着を買いたかった。
 私もピアノもとくに準備することなんて何もなかったので、いつもより少し早いようだったが、オサムさんに見送られて玄関を出た。つい先日、これでもかという程、長距離を運転したはずなのに、パンダの運転席に座ると、私の相棒は何だか随分久しぶりのようで素っ気ない気がした。今となっては定位置に思えてくる助手席にピアノも乗り込み、いざエンジンを掛けようと鍵を回すと、おかしなことに全く反応が返ってくることもなく、パンダはうんともすんとも言わなかった。

 何度エンジンを掛けようとしても全く変化はなく、電気は通っていたのでバッテリーが原因ではないことぐらいは理解したけれど、それ以上となると、私にはもうお手上げだった。
「壊れた?」
「たぶん……」
 ピアノはシートベルトを外すとパンダから降り、急いで家の中へと入っていった。すると、オサムさんを連れて戻ってきて、ピアノから私はパンダの鍵を手渡された。
「はいっ、注目! まず第一に、ワタシはお稽古に行かなあかんからパンダが必要。第二に、ミチヨのパンダは動かへんし、ここには一台しかないから今は黒パンダを使う。第三に、当然免許ないワタシには運転手が必要やけど、オサムはミチヨのパンダの壊れた原因調べなあかんし、ミチヨが黒パンダ運転してワタシを送る。どう、異議なし?」
「まあ、そうなるよな。ミチヨさんやったらパンダ慣れてて問題ないし、使ってもらってかまわへんで」
「はい、そうと決まればすぐ出発! 先生が遅れるわけにはいかへんよ」
 自分のパンダの心配はよそに私は黒いパンダに乗せられエンジンを掛けると、こちらは快調な唸り声を上げた。
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