1994年7月20日 [ 3 ]

文字数 2,525文字

 胡桃の表面は海水を含んだのか少し色濃く、細かく砂を払ってみてもしっとりとした質感で、本来あるべき乾燥した手触りは失われていた。そして、持っているのかも不安になるぐらいに軽い。手の中で回しながら観察してみると、生々しいその表情にはどこか言葉のような意味がありそうにも思えるが、硬く閉ざされた殻は、そこら中に落ちている開いてバラバラになった二枚貝と異なり、その秘密を簡単には打ち明けてくれそうにもなかった。まさか海辺で胡桃を拾うとは思いもしなかった私は、もっと探してみようと足下に転がる漂流物の成れの果てを辿り始めた。
 一番よく眼に付いたのは、あらゆる物に絡まり干乾びた真っ黒な海藻だった。まるで草書体のようだったが、読めもしない文字は何も意味を与えてはくれない。カラフルなプラスチックのゴミに記された異国の文字も同様だった。形の良い流木を見つけ拾い上げてみても、砂に埋まっていた裏側が朽ちてボロボロになっていたり、暗示めいた嫌なことを連想させる。それらは故郷を離れ、こんな遠いところへまで流されてくるはずではなかったのだと思うと不憫でならなかった。
 そんな物達が転がる間に、一際綺麗なターコイズブルーの小石のような欠片があった。手に取ると硬くて少し重く、それは、角の無い丸みを帯びたガラス片。ビンの破片だろうか。ふと、私はビン玉を思い出す。あれも割れて粉々になると、きっと、この欠片のように原型すら分からなくなるのだろう。私はガラスの欠片をよく観察しようと、空の光の中にかざした。細かな傷の付いた表面、時の中に閉じ込められた気泡、砂の粉を纏った姿は、白砂糖をまぶした飴のようで、幼い頃、口へ含んだ甘い記憶が蘇る…… 小さな世界は愛や優しさで満たされ、弾けるような軽快なリズムを刻みながら、後先や苦労も考えず、少々の恐怖を感じながらも、全ては守られていた…… そこで、私は黒い雌馬に出会い…… 幾年月を経て、ここへとやって来る……

――直に眼に突き刺さった太陽の光。私は慌て恐れ、とっさに眼を閉じる。瞼の裏に焼き付く光の影は夢想をも燃やし、私は生温い潮の香りと、右手の中のガラス片、左手の中の胡桃、波と風の音の中にあった。

 ゆっくりと眼を見開いても、世界は変わらぬまま、全ては私の周りにあった。岬の陰から水平線と平行に近付いて来る小さな漁船のエンジン音が聴こえ、青い海原に白い筋を引いてゆく。頭上の空高くを旋回する大きな鳥の甲高い鳴き声に呼ばれたかのように見上げると、一瞬の陽光が眼をかすめ、私はうなだれるように足下を見つめた。夏の私の影は短く、影もまた、うなだれているようで、実際の私を表しているみたい。さっき見た白百合も、散りゆく短き一生を己の影に感じたのかもしれない。1994年…… いつまでも変わらないと思っていた幼い私は、いつの間にか二十五歳。


 振り返った先のピアノが居る木陰はとても遠く、知らぬ間に私は随分と歩いていた。点のようにしか見えないピアノと私の間にある砂浜の距離が途方もない人生の時間のように思えてきて心細さが押し寄せてくる。私は選択をし、自分の意思で歩くことが出来るけれど、ピアノとの間に転がる無数の漂流物達は、何も選ぶことが出来ず、別れを告げることも出来ず、ここへと流され…… 干乾びるのを待つばかり。例え、優しい風が情けを掛けたところで、同じ浜の上で少し転がる程度だった。私はピアノの下へ、砂に足を取られながら歩き始めた。
 堤防寄りの波打ち際から一番離れた漂流物の打ち上げられた跡は、他よりも時間を経たのか何もかもが干上がっていた。色彩も失い、形も崩れ、砂の上に白っぽい化石のような物が点々としている。適当な長さの流木を拾い上げた私は、歩きながら足下の砂に埋まった物をほじくり返していった。その行為は、生命や瑞々しさ、輝きなんて微塵も感じないものと向き合っているようで、墓を暴いているようでもあった。実際のところ、そう思わせたのは、白骨化した鳥がほぼ原形を留め砂上に横たわっていたからだ。象徴的なものは、それだけではなかった。大きな流木と見間違える動物の骨の一部のようなものが転がっていたり、何かを掴もうとして叶わなかった人の手の骨によく似たサンゴの欠片もあった。貝も主の居ない廃墟のようなもの…… 何もかもが砂の上に転がり、もしくは埋まり、その身は焼き尽くされ、何年、何十年必要かさえも分からない、いつか砂になる日を待っていた。この中には私が生まれた二十五年よりも前から存在しているものもあるだろう。そして、いつか私がこの世から居なくなっても、砂になるその日まで夢を見続けるのだろうか……
 砂に半分埋まった白い突起を引き抜くと、それは干乾びて鉱物のようになったヒトデの死骸だった。五つの突起は中心から均等な間隔で放射状に広がり、まるで太陽に焼かれ地上に落ちた星の残骸だった。ビン玉が割れ生まれたガラスの欠片のように、始まりは終わりを約束されているのが理だとしても、私がここで聴いたのは、生を受けしもの全てが焼き尽くされ塵になるまで終わることのない、この世の交響曲だった。


「何か面白いもん見つかった?」
 私が重い足取りで木陰までやって来ると、くつろいでいたピアノはノートを閉じて砂の上に投げ出し、ゆっくりと上半身を起こした。私は流木と胡桃とガラス片をノートの側の砂の上に並べて置くと、ピアノは一つ一つ拾い上げ、つぶさに観察し始める。そして、私は思考の漂うままに、独り考えていたことをピアノに話した。
「ミチヨは、感じる振れ幅が大きいねんな。ダメなこともイイことも、全部同じだけしっかり考えるし、ミチヨ見てたら、生きるの疲れるんちゃうかな、って思うわ。でも、だからミチヨなんやろけどな」
 ピアノらしい観察眼と、優しい言葉だった。私の頭の中へと押し寄せ積み上がった、とりとめのない考えの数々が、フェードアウトしてゆくように消え去る…… 私は、黙って波を見つめていた。寄せては返し、寄せては返し……
「ねえ、ピアノ…… 波に音がないね……」
「ああ…… それ、よく分かる…… 砂の上に転がってる流木とかゴミって、音符の残骸なんやろな……」
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