1994年7月21日 [ 3 ]

文字数 2,395文字

 普段見ることのない録音の準備作業を見ていて、私は改めてオサムさんのアイディアに感心した。二階にある機材で一階にあるグランドピアノをどう録音するのか、お願いしたのはもちろん私なのだが、面倒なことを頼んでしまった心配すら、いとも簡単にオサムさんは払拭してしまう。二階の機材部屋の窓から長いケーブルを垂らし、真下にあるピアノ部屋の窓から入れると、グランドピアノの周囲に設置した三本のマイクへと繋ぐ。この方法は確かに賢くて、二階の部屋から扉を通り、階段を這わしてから、キッチンを横切り、この部屋へと繋ぐとばかり思っていた私の発想は悲しくなるぐらいに乏し過ぎた。
 グランドピアノの屋根を大きく開けた開口部の側に二本のマイクを並べ、残りの一本は鍵盤の真上の不思議な位置で吊るされるように置かれた。並んだ二本によって弦の響きを録るのは分かるが、演奏の邪魔にもなりかねない鍵盤上の一本の理由。
「ああ、あれな。一般的にはそんなとこに置かんけど、俺もピアノも別々の理由があって、俺は鍵盤自体のアクションというか、まあ、ほぼ聴こえんけど、静かな時に聴こえる指のタッチとか録りたくて、ピアノは自分がダイレクトに聴いてる音、それを残したくて、あのマイクを置いてんねん。最終的に微調整加えてピアノの音として全部まとめるけど、何ていうか、キレイに録るよりも、多少のノイズとかあっても、この空間とか瞬間を切り取りたいねんな」
 何となくだけど、私が歌で行おうとしていることに考えが近いような気がした。この一連の創作こそ、一般的には音楽というカテゴリーであっても、二人が作ろうとしているものはもっと別の…… 私には上手い言葉が見つからなかった。

 オサムさんが準備で忙しなく動いている間、ピアノはそんなこともかまわずグランドピアノの椅子に座り、音を確かめるように鍵盤を操っていた。エッサウィラのライブ以来でピアノの演奏が聴ける…… いや、あの時は、素性も名前すらも分からない、知り合う前のピアノの演奏だったので、私の知っているピアノとしての演奏を聴くのは初めてだった。
「オサム、ヘッドフォンはいらんから、始まりのカウントだけちょうだい」
 ピアノ周りの準備が出来たオサムさんは二階へと上がってゆく。
「ミチヨ、悪いけど録音中は独りにして」
 張り詰めたピアノの声。圧倒された私は無言のまま部屋を出て扉を閉めた。

 キッチンに居ても落ち着かず、扉越しにでも感じるピアノの緊張感に耐えられなかった私は外へ逃げることにした。ポーチのテーブルの上に残されている譜面は、これから起こることを暗示している。
「ピアノー、まずはblack mareから録るぞー」
 オサムさんの大声が裏庭の方から聞こえたが返事は無かった。それが合図なのだろう。少し間を置いてから、オサムさんのカウントが始まった。


 音が生まれる瞬間のこと…… 今も辺りで騒がしくしている蝉の鳴き声だってそうかもしれない。全ての音は、存在を表す。波だって、風だって、物は言うに及ばない。何かがそこにあるから音は生まれ…… その先は…… 自然現象の音のことではない、音の存在はどこへ向かうのか…… そして、どうやって…… 黒い雌馬…… なんだろうな、私の知りたい音は…… そうだ、こうして私は黒い雌馬と戯れる。曲のリズムではない…… 黒い雌馬は、ピアノの意識で駆け抜け、跳ね上がる。私はこれまで、その後ろをずっと見ていた…… けれど今、私も行かなきゃ…… どうしても、行かなきゃいけない……


 ぼんやりとしている間に、二曲の録音は一度の演奏で終わった。ポーチの風は急に冷たさを伴い、木々は葉を揺らし騒めき出す。気付けば遠くの空は灰色の低い雲に覆われ、むせ返るような土や草木の匂いが鼻を突いた。
「おいおい、雨降ってきたぞー」
 階段を勢いよく降りてくるオサムさんの足音、ポーチの庇を打ち始めた雨音、夢見心地な遠雷の音、余韻は果てしなく鳴り響くグランドピアノの音。

 演奏を終えたピアノが無言でポーチへとやって来ると、そのまま柱に寄り掛かり、降り始めた雨を眺めた。次第に雨は激しく打ち始め、芝の細い葉が一斉に跳ね上がる。掛けるべき言葉を探しながら、ただ時間が過ぎてゆくと思われた、その時だった。柱から飛び立つようにピアノはポーチから芝へと下り立つと、大雨の中、両手を天へ掲げたまま歩き、芝生の中央で仰向けに倒れ込む。
「ミチヨ―! ミチヨもおいでー」
 誘われるまま、私は椅子から立ち上がり、ポーチの階段をゆっくりと下り、芝生へと足を踏み出す。同時に激しさを増してゆく雨が、頭や服を一瞬の内に濡らし、重くなってゆく身体は、どうでもよくなっていく感情と相まって気分を爽快にさせ、私も芝に倒れ込んだ。私へと目掛け、迫り来る雨粒を見たのは初めてだった。
 色々なことを想う…… ここへ来るまでの高速道路の嵐や、エッサウィラに突然現れたずぶ濡れのピアノのこと…… そして、この先、こんな雨を見る度に、髪を滴る雫の中にそのことを思い出すのだろうか。
「ピアノー、ピアノと初めて会った時もずぶ濡れだったね」
「そういう時ってだいたい、頭冷やせって、ことなんちゃう?」
「何よ、それ?」
「たまには雨でびしょ濡れになっとかんと、色んなこと分からんなんねん」
「何なのよ、それ! でも、ピアノらしいよ」
 束の間の夕立がどこかへと去り、夏の夕暮れは訪れる。アブラゼミは雨音に追いやられ、いつしか過ぎた時をひぐらしの鳴き声が告げた。
 そして、ずぶ濡れの私達を迎えてくれたのは、ぽかぽかの湯船だった。馬鹿な二人に呆れた、オサムさんの温かい気持ちだ。

 満天の星の下で私は洗濯物を干しながら、借りたウォークマンで出来たばかりのピアノ入り音源を聴いた。澄んだ夜空に月はいつもより近く感じる。
「ミチヨ―、ご飯出来たでー」
「はーい、今、行きまーす」
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