2004年7月26日 「The 24 aspects」の予定進行表 [ 3 ]

文字数 2,993文字

 ガキ共と別れ、ビールを片手に自転車を押しながらぶらぶら歩いていると携帯電話が鳴った。番号を見ると仕事の依頼だったので俺は見なかったことにする。普段なら体内のアルコールを吹っ飛ばすのにちょうどイイ運動になるので受けただろうが、スリルを味わい、興奮が頂点を極めた後では、何もかもがバカバカしく思えた。そう、今見えているこの世界全てがバカげていた。ビルも車も人も、この歩いている俺もだ。でも、本当のところはラッキーのことを思い出したからだろう。現実を真っ直ぐ見るのが辛くなった。ぬるくなったビールを飲み干し、空の瓶をゴミ箱へ投げ捨てる。他に何も入っていなかったのか、ゴミ箱の中からうるさいバカげた音がした。何もかもが空っぽだった。
 少し時間を持て余し、すぐ帰る気にもなれず、だから歩く。目的も行き先も無く、ただ歩くことなんて普段はしない。やりたいことはいっぱいで、それ以外の時間は生活の為に仕事をしなくちゃならない。大勢の人とすれ違うが、いったい誰がこの俺を知っているのか。メッセンジャーとしての俺じゃなくて、この本当の俺のことを。ピーター・パーカーなら秘密にしておかなくちゃならんが、俺は残念ながらスパイダーマンではなかった。
 当てもなく歩いていると辺りにはアジア人が多くなってきた。何もサンフランシスコじゃ珍しくもないが、普段この辺りには来ないので売っている物もアジアの字も少しばかり新鮮で懐かしかった。

 ときどきラッキーは漢字を書いていることがあった。ブラインドから漏れる光が眩しい夏の日の午後、俺達はベッドに並んで横になりながら、ラッキーが紙にペンで同じ漢字を何度も書き直しているのを俺は眺めていた。それは自分のルーツの言葉らしくて、意味を尋ねたがラッキーは教えてくれなかったし、どんな漢字だったかも俺は思い出せない。ただ、死んだラッキーの左腕には、まだ入れたばかりで赤く腫れあがったその漢字のタトゥーがあって、その記憶は鮮明に残っている。でも、その漢字のところだけは、今もモザイクが掛かったようにボヤけていた。

 酒が足りない気がしてきたので、俺は通りにあった商店に入りビールを買う。イイ加減、いつまでもこんな感傷染みた気分に浸るのはよくないと、これを飲み干したら帰ることにして店を出ようとした正にその時だ。なんと、あのラッキーが店へ入ってきた。

「ヘイ! ラッキー! なんで、生きているんだ?」
「は?」
「なあ、ラッキーだろ! ラッキー会いたかったぜ!」
「いったい何なの? あんたなんか知らないよ!」
「ラッキー、俺だよピーターだ! 会いたかった!」
「ちょっと、止めて! 警察呼ぶわよ!」
「冗談はイイから! なあ、ラッキーだろ?」
 冷静に考えればこんなことバカな俺でも分かることだったが、否定する彼女の腕にラッキーが入れていた筈の漢字のタトゥーは無かった。

 意気消沈して俺は店を出ると、フラフラしてその場に座り込んだ。冷たいビールを勢いよく流し込みながら、なんてバカなことをしたんだと後悔する。死んだ筈のラッキーがこの世に居る訳なんてなかった。一瞬でビールは空になり、そして、なんでラッキーのことなんて思い出してしまったのかを考えたりしていると、あのラッキーに似た彼女が店から出てきて俺に声を掛けてきた。
「ねえ、あんた大丈夫? 酔ってるの?」
 こんなビール程度じゃ酔わないことを説明しつつ、俺の間違いと失礼な態度を彼女に詫びた。
「そうなのね、ヤバい奴かと思ってビックリしたんだから。で、そのラッキーについてなんだけど、それって私に似た女の子のこと?」
 ハッとした俺は彼女のことを見上げた。違うって頭じゃ分かっているが、俺の眼に映っているのはやっぱりラッキーだった。
「これで二度目。そのラッキーって子に間違えられるの。余程似てたんだろうね、ラッキーと私」

 俺はラッキーのことを彼女に話した。始めは立って話を聞いていた彼女だったが、やがて俺の隣へ一緒に座り込み、黙って俺の話に耳を傾けてくれた。ラッキーとの出会い、別れ、今日、なんで思い出したか、タトゥーのこと、ラッキーが死んでからラッキーのことをこんなに詳しく人に話したのは初めてだった。
「お気の毒に…… あんたラッキーのこと本当に愛してたんだね」
 一通り話した俺はスッキリしていて、そこで改めて見た彼女の顔は似ているけど、もうラッキーではなかった。何となくだが、ラッキーが俺を死なないように守ってくれたと同時に、たまには私のことも思い出せって言ってたのかと思った。
「そのタトゥーの漢字だけどさ、私に似てるってことはルーツが私と同じ日本だとするとだよ、これの気がするんだよね。私が、もしラッキーなら漢字のタトゥー入れるならこれにするね」
 そう言いながら彼女は鞄からメモ帳を取り出すと、そこへペンで文字を書き始めた。それは、まさに俺が覚えられなかった「幸運」というあのタトゥーの漢字だった。
「これは日本語でラッキーって意味」


 ファインダーから覗く日没寸前の世界は昼と夜が曖昧で、萎んでゆく淡い天然光と商店のネオンや車のヘッドライトといった激しい人工光がフレーム内でいびつながら共存していた。現実と過去を繋ぐ記憶のような領域に映像は存在しているのだろうかと思うことがある。今こうしてカメラを持つ俺も、それを垣間見ることが出来たところで、そこへ足を踏み入れることは出来ない。それは人類の永遠の憧れのようなものかもしれなかった。

 ラッキー似の彼女に俺は頼み込んで撮影を承諾してもらい、交差点の真ん中でポーズを取りながら立ってもらう。掲げた左腕には「幸運」の漢字をペンでタトゥーに似せて書いてもらったが、街全体を捉えた画角に対して彼女は余りに小さ過ぎて、ましてや左腕の字なんて点にも見えなかった。そこは画として重要ではなく、彼女にラッキーとして演じてもらう為に必要だった。
 二本の通りが交差する中央はあらゆる意味が存在し、この世にある出会いと別れを表現している。実際の生活においては、そんなことも気付かないまま、ただ時間だけが過ぎてゆくが、全てが終わった今なら、それは人生においての束の間の接点だったと知る。別々の所からラッキーと俺はやって来て、交差し、俺はラッキーの後ろ姿を見送ったまま、今も交差点に立ち竦んでいた。この映像は、その象徴なのかもしれない。鳴らされる車のクラクション、何事も無くやって来ては立ち去る人々、このサンフランシスコで毎日のように起こる様々な事象、その一つにラッキーと俺は居た。

 ちょうど一分。彼女を危険な交差点に長く立たせる訳にもいかなかったし、イイ画は撮れていた。彼女にお礼を言って別れた後も俺は彼女の姿が見えなくなるまで見送った。彼女は家に帰り、シャワーを浴びながらあのペンで書いた字を消すだろう。そして、ラッキーはまた居なくなる。
 すっかり暗くなった交差点の角で、俺はカメラの小さなモニターで今撮った映像を眺めていた。そこには一秒間に24フレーム、1分にして1440の表情をしたラッキーが居た。このラッキーは、ラッキーが行けなかった未来に存在している。モニターじゃ小さ過ぎてよく分かんなかったが、ツンと澄ましたいつものラッキーの顔を俺は思い出す。
「これも、サンフランシスコの風景の一フレームだな。そうだろラッキー?」
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