1994年7月19日 [ 1 ] 

文字数 2,914文字

 静まり返る朝のキッチンには微かな気配が漂っていた。しかし、誰も居ない。きっと、まだ寝ぼけている頭だから、見ていたけれど忘れてしまった夢の続きとか何かだろうと私は歯ブラシを持ってポーチへと出た。瑞々しい朝の大気は日陰に居ると少し肌寒く、それでも私はぼんやりとした頭のまま歯を磨きながら、見ているのは芝生に射す朝陽のようで、眼に映るのは数日前の芝の上に倒れ込んだ自分の姿の想像。それは遠い日のようで、誰か他人のような姿の自分がよそよそしく思えてくる。昨日の自分でさえも危うく、毎日が新しい自分…… 東京に居たら思いもしなかったことだ。
 玄関にはピアノとオサムさんの履物が残されていたので、二人はきっとまだ寝ているのだろう。静けさを破る洗濯機を回すのは後回しにして、私は珈琲を淹れると、またポーチへと出た。
 煙草の先から立ち上がる煙を眺めていても、思考と同じですぐに立ち消え、何も続かないばかりか、やがて火は根元に迫り、ぼんやりしている内に一本の煙草が無駄になる。これ以上、続けて吸う気にもなれなくて、私は朝の散歩に出掛けることにした。

 海へ向かうか、それともこの家へと続く林の道を歩くか…… 自然と私の足は、木立の方へと踏み出していた。車で幾度通った道でも、歩くのは初めてだった。
 タイヤが作り出した轍の跡に沿って歩いていると、微妙な起伏や、さりげなく生えている草花に気付く。まだ、蝉も大人しく、今日も遠慮がちに数匹が鳴いている程度だった。顔を上げた視界の先では、木漏れ日に誘われた黒い蝶が跳ねるように舞う。あり得ないことだが、私を導き先導しているようだった。
 いつしか蝶とも別れ、木々の拓けたところで、満開の花をつけたシダのような葉を持つ木が眼に留まる。花はピンク色をしたたくさんの細い糸のようなものが房となり、葉の間に無数咲いていた。綺麗なその花をしばらく眺めていたけれど、私はその名を知らなかった。蝶に出会っても、花を見上げても、私の知らない外の世界の存在のようで、都会に居ても、こんな林の中に居ても、私は自分以外の事物にほとんど接点を持ってこなかったことに今更ながら気付かされてばかりいる。唯一の糸だった音も切れた今、道に転がっている小石を蹴ったところで、細かな音がいくつかした後に訪れる途方もない現実の真っ只中に突っ立っているだけだった。今まで音を頼りに、黒い馬の後を歩いてきたけれど、どこへ向かえばよいのか…… 今の自分と同じ、何度も何度も違うシチュエーションで、考えることはまた一緒で、私は諦めたように、また歩き出す。

 何かを思い出してもすぐに浮かんで消え去る薄い思考のまま歩いていた私は、数日前にピアノと夕焼けを見た英虞湾を見渡す展望台へと辿り着いた。見えるもの全てがはっきりとした輪郭を持ち、景色に曖昧さはなく、ただ静かに午前の時の中で存在していた。昨日訪れた横山展望台とは違い、ここに不安は漂っていないけれど、あの夕刻へと紛れるような吸い込まれる感じもなく、ただ何かに拒絶されているような気がした。この差は一体何なのだろうか。時間、天候、色、あれこれと浮かんでくるものは簡単に風がさらってゆく。そこに残されたものを考えていると、ピアノの様々な表情やしぐさ、それらを取り巻く場面ばかりが次々と現れる。これも全てピアノの影響なのだろうか。すると私は、今後どうやって生きていくのか益々分からなくなった。

 何も変わりはしない、何も与えてはくれない景色を見ていても身体は正直で、お腹は空いて胃が痛くなってくる。空きっ腹に入れた珈琲だけではこれが限界だった。随分と歩いてきたけれど、またその分だけ戻らなければならない。身体も距離も、さらに時間まで、進んだ先に何かがあればいいけれど、こうやって何もないことを確かめただけの足取りは重く、オサムさんの家に着くまでの間、何を考えていたのかも私は全く覚えてはいなかった。


「――んんん、やっぱ、あそこは元の方がイイ気がする」
「それやと、後半の展開どうすんねん。もう少し引っ張ってからの方がイイと思うけどな」
 ヘトヘトになりながら戻ると、ポーチでは何やら議論が繰り広げられていた。
「あれ! ミチヨ起きてたんや」
「おはよう、ミチヨさん」
 二人は私にそれだけ言うと、また議論の続きを始めた。私には関係ないばかりか、内容もよく分からなかったので、とにかく気兼ねなく洗濯機を回してから、簡単な食事をすることにした。すると、美味しい香りに誘われたのか、二人は議論の続きをしながら家の中へと入ってきて、食事を作りながら、さらには食べながらも、まだ意見を言い合っていた。
「――じゃあ、いっそのこと、もっと省いたってイイかも」
「ああ…… ん…… 出来んことはないけど、間延びするかもな……」
 パンを食べながら黙って傍で聞いていた私にも少し内容が分かってきて、どうやら二人は音楽のことについて話しているようだった。会話の止まらない二人をよそに洗濯機に呼ばれた私は、いそいそと洗濯物を干しに行った。

 正午に向けて気温が上がる太陽の下、私は気持ちよく洗濯物の皴を伸ばしていると、開け放たれた二階の窓から突然大音量の気怠いドラムの音が流れ出した。そして、ゆったりとしたベース音が続き、ピアノの音も入ってくる。この洗濯日和のうららかな天気とは真逆の暗くて重く淋しい曲。辺りには住んでいる人もいないからか、ライブさながらの音量はさらに大きくなり、ついにはその低音で家全体の軋む音がする程だった。
 洗濯物を干し終えた私は、私の寝泊まりする本の部屋で縁側に腰掛けるようにしていたが、お尻から伝わる低音の震えに落ち着けず、この逃げ場のない大音量から遠ざかるように、今度は海の方へと行くことにした。

 音から遠ざかる歩みの中、また松の葉の甘い香りが沈み込むように辺りを満たしていた。ぬかるみに足を滑らせ尻餅をついた下り坂も今ではすっかりと干上がり、時間の経過を知る。芝に見た光景と同じ、やはり、ほんの数日の間のことが何年も前のことのようで、随分と老けたように感じるのは私が変わってしまったからなのだろうか。ここ数日のことを繰り返し考えながら坂を下っていると、すぐに海へと辿り着いた。それでもまだ、微かに届く音楽。
 今日もまた、何もすることが無いのに海へ来ている。こう何度も海に引き寄せられると、志摩へ来た理由は海なんじゃないかと思わされる。日陰に腰を下ろしながら穏やかな入り江の波の往復を眺めていると、どうしても消えない音楽が気になった。ピアノやオサムさんが決して悪い訳ではないけれど、ただ、今の私は音楽から遠い所へ行きたいと思っていたので、ここで衝動的に思わぬ行動を取ったのは我ながら意外だった。靴や靴下、服を脱ぎ捨て、下着だけになった私は真っ直ぐに浜辺を駆け抜け、一瞬よぎったあの海女さんの光景の恐怖を払いのけると、勢いよく海へ飛び込んだ。
 前回、ここへ来た時も石の熱さに慌てて飛び込んだことを潜りながら考えていた私は、同じことを繰り返している自分は結局何も変わっていないのかもと、音楽の完全に途切れた海の中で思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み