2004年7月19日 [ 3 ]

文字数 2,099文字

 神を信じるとは、どういうことなのか。私はそんなことを考えながら歩いていた。そもそも私は特定の宗教に信仰を持ったこともなければ、興味を持ったこともなかった。家庭において宗教色が強くなかったことも影響はあるが、それよりも幼い頃に見た黒馬の存在が全てを超越してしまった人生において、他に同等、もしくはそれ以上の存在の出現や経験をしていないからに他ならない。では、黒馬が神かと問われれば決してそういう訳ではなく、おそらく他人が強く信じる神やそれらに準ずるものと同じように黒馬や音の行方に関心を抱き、それらが私を導いたのか、それともまた、私がそれらを追い掛けたに過ぎないと思っていた。他人がそれを神と呼ぼうが私にはどうでもよいことで、私は自分の人生の経験上において、遭遇し感じたことだけが私の生きている世界の基準だった。
 94年に訪れた志摩以来、私は黒馬を見てもいなければ、過去から続いた音は志摩の空に浮かぶ月へ吸い込まれていったと今も信じている。だから、きっと、もう私の本当の意味で信じるものは記憶の中だけにしか存在しないのかもしれない……
 何かに呼ばれた気がして振り返ると、空高く昇った異国の夏の太陽は、大きなビルにこれまた大きな影を与え、午後のまだ明るいサンフランシスコを南北に走る通りを暗くしていた。どれ程遠くまで行こうと、私のこれまでの記憶は変わらず、見上げた太陽は同じはずだった。私が眠りに落ちて見る夢が私特有のように、今、見ているこの世界も私だけのものだった。だから、信じる神は不在なのだろう。
 たったの25セントなのか、もしくは25セントの偉大な力なのか、人生においての局面で人に与える効果はそれぞれである。私がどれほど歩いてみても、結局、目当てのお店は見つからず、諦めてクリサリスへ引き返すことにした。

 往路とは異なる道で戻る最中、あわよくば手頃な服ぐらい買えないかと歩いていると、クリサリスの近所に一軒の質屋を見つけた。昔ながらの佇まいのショーウィンドウを扉の両脇に構え、ガラス越しに見える店内は…… いや、ガラス越しに店内は見えない程に商品が天井まで詰め込まれ、異様な物質の圧迫感を通りへと与えていた。一応、扉には「OPEN」の文字が掛かっていたので営業はしているのだろうが、どのような人がこんな店に入るのだろうかと私は考えていた。一人、こんなへんてこな雰囲気が好きな人間を知っていることに思い当たると、見えない手によって背中を押され、鐘の甲高い音が鳴る扉を開け店内へと入っていった。

 奥へと長い店内は扉から真っ直ぐ続く獣道のような狭い通路を残し、両側の壁際は薄暗い照明のぶら下がる天井まで物で溢れていた。これらは、歴史は浅いながらも世界一の大国となったこの国の想い出のようなものなのかもしれない。消費を繰り返しながら日々を前進し、今日に至った物語の忘れられた物達。ただし、死んでいる訳でもなく、夢の中へ落ちたまま、いつ訪れるか誰も分からない目覚めの時を待っている状態。これらにどれ程の価値があるかどうかも分からない私は、ゆっくりとそれらを眺めながら店の奥へと惹かれるように進んでいった。何となく通路から手の届く辺りには真新しい物が積まれているようで、高い所や通路から手の届かない所程、その分だけ時間を遡っているように映る。まるで、私が立つこの唯一の通路だけが現在であり、ここから左右へ離れる程、過去の時間へと層をなして向かっているようだった。では、前後はというと、入口の方が比較的現代や近代の物で溢れ、奥へと向かうにつれ、明らかに古さは増していた。つまり私は、どんどん過去へと進んでみることにした。
 その時だった。奥の方の暗がりから人影が現れ、こちらへと近づいて来る。のそのそと歩くシルエットは手に何かを持っているようだった。私は身構えながら、いざという時は走って店の外へ逃げようと決め、照明の下へ人影が入るのを固唾を呑んで待っていると、照らされたその顔にはどこかで見覚えがあるような気がした。
「おう、あんた、クリサリスの女王じゃないか。こんなとこへ何しに来たんだ? ああ、フレッドに何か騙されたんだろう? 絶対そうだ、きっとあいつならやりかねない、クソ野郎だからな!」
 男は英国風のティーカップを片手に持ちながら、ここに居ないフレッドを口汚く罵った。私を女王なんて呼び、フレッドを知っているこの人は…… 夜のクリサリスに居た人の一人だったと思う。
「どうせあいつが、『ホウ、ティータイムならポーンのところへ行ってみるがイイ!』とか何とか言いやがったんだろ! あのクソ野郎め!」
 私のことはお構いなしで、男は延々とフレッドの悪口を並べた。
「――だから、結局あいつはクソクソクソ野郎ってことだ! ってことは、ここで俺が適当にあんたを追い返すと、益々フレッドの術中に陥ることになる訳か…… ヨシ! あんた、こっちへ来い! 最高のティータイムで持て成してやる!」
 質屋へ何となく足を踏み入れただけなのに、なぜかティータイムが始まるらしい…… 私の買い物は、どんどん遠ざかってゆくようだった。
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