2004年7月18日 ロン・ボーデンの個人日報

文字数 3,038文字

 確か、彼女を最初に見たのは…… ちょうど客足が途絶えて、僕のタクシーが並んでいた空港のタクシー乗り場の車列が全然動かなくなった時だったな。握るハンドルが汗ばむぐらい暑い日だったから冷えたコークでも買いに行こうと僕の前に並んでいた馴染みの運転手に声を掛けて僕は自分のタクシーを離れた。「ロン! 今よりも、もっと太るぞ!」とか言われたけれど仕方ないよ、この日は今年一番特別暑かったんだから。
 早朝からずっと運転し続けていたのもあって、軽く運動がてら離れた自販機まで行くことにした。そうそう、このタイミングだな、彼女突っ立ってたんだ、陽だまりの中で。とくに暑い日だったので、みんな影に入って他にそんなことをしている人はいなかった。右手で眼を覆うようにして彼女眩しかったんだろうな、ちょっと変な人だと思った? そうかもしれないが僕は立ち止まって汗をハンカチで拭いながらじっくりと彼女を見てた。なぜか? 彼女は突っ立ったまま動かない、その姿かなりクールでさ、ショートヘアだったのも彼女にとても似合ってた。

 しばらくすると彼女は辺りを見回してから歩き出した。僕は彼女の行き先を眼で追ってたけど見えなくなる前に僕の足は自然と動き出してた。コークの自販機とは明らかに違う方向だったけどそんなことはおかまいなし、いつもなら絶対にあり得ないことなんだ。でも僕は彼女と少し話してみたいと思ったんだな。
 彼女は喫煙所で立ち止まると、肩から掛けた黒いカバンに手を突っ込みタバコを取り出した。マルボロの緑のやつだ。他に誰もいなかったから僕は意を決して彼女の方へとまっすぐ向かった。
「あなたは火が必要なんじゃないかな?」
 タバコを吸わない僕がこんな方法で声を掛けられたのは財布の中に入れていたマッチのおかげだ。運転手仲間馴染みのダイナーの店名がデザインされたもの、何杯も飲むと頭が痛くなるコーヒーとそこそこ美味しいドーナツを出す店。そこのマッチを財布に入れていたら「財布に火が点くものなんか入れているのか、ロン! 紙幣が燃えるから縁起が悪いぜ!」とか運転手仲間には馬鹿にされたけど、シャーマンだった僕のおばあちゃんが「火のエレメントはエネルギーの源だよ、ロン」ってたき火を囲みながら幼かった僕に言ったのが未だに忘れられなくて何となくいつか役立つことがあるんじゃないかってマッチを持っていたわけだ。つまりだよ、その時がついにやって来たわけだった。おばあちゃん、ありがとう。それに飛行機にはライターやマッチは持ち込めないから、よく火が無くて困っている旅行者を僕は見ていたからな。

 やっぱり彼女は火を持っていなかった。すでに財布から取り出していたマッチを手際良く擦ろうとして不器用な僕は失敗した。手からマッチが落っこちて彼女の足下へ転がっていった。彼女が拾ってくれて彼女から受け取ったマッチを今度こそ擦ろうとしたんだけど今度は全く火が点かないんだ。僕は汗っかきだから尻ポケットに入れていた財布は湿気ってたんだな。『さあてと、ロン、こんな時はどうするんだ?』って心の中で自分に問い掛けたけれど、どうにもこうにもイイ案なんて浮かばない。恐る恐る窺った彼女の顔は、なんか申し訳なさそうな顔をしてて僕は恥ずかしくなってしまった。
 そこへ、ちょうどタバコを吸いにやって来た見知らぬ男が彼女にライターをかざしてタバコに火を点けるのを僕は黙って見ていた。ほんと情けなくてさ、するとその男が持っていたタバコを僕に薦めてきたんだ。見たことない文字が印刷されていてどこの国のものか分からなかったけど、そのイイ奴はロシア人みたいな感じだった。吸わないのにカッコつけて一本受け取った僕は差し出されたライターでタバコに火を点け人生初めてのタバコの煙をよく分からないまま勢いよく吸い込んだ。人生で一番苦しむ程、むせた。それはダサいなんてもんじゃなかった。咳は止まらないし涙は出るわ、何もイイことなんてなかったけど彼女が心配そうに話し掛けてくれて、結局当初の目的は果たせたわけだった。

 彼女に少しぐらいイイところを見せたくて僕はタクシーの運転手だから料金を安く出来るなんて言ったけど彼女は乗り気じゃなかった。これはきっと僕に魅力が無かったからとかじゃなくて、なんだか、かまわないで欲しい感じだった。その言い方とか表情がクールでさ、参ったね、それがカッコイイんだ。惚れ惚れするぐらい彼女に関心していたらこの話を聞いていたロシア人の男が横から口を挟んできて「ダウンタウンまでいくらで走るんだ」と僕に尋ねてきた。お前を乗せたくて言い出したことじゃないって内心思っていたけど相手は不気味な感じもするし何よりもガタイもイイし僕はビビッて25$って言ってしまった。そしたら気付かない内に僕の後ろにはキツイ香水の匂いのする一生懸命金持ちを装っている感じの僕ぐらい太ったおばさんが立っていて「私も乗せていってよ」とか言い出す始末。いやいやお前らを乗せたくて言ったわけじゃないって心の中で思っても何も言い返せなくて僕の了解も得ずに話は勝手にまとまってしまっていた。最悪だと思ったけど、結局彼女も一緒に乗っていくことになったから、半分最悪で半分良かった。

 みんなの目的地を聞きながらロシア人とおばさんの行き先なんて興味はなかった。そんな中で彼女が告げたホテルの名はとんでもないところだったから僕は思わず本気でそこに泊まるのかって彼女に尋ねた。彼女はその意味を理解していなかったから僕はあのホテルのボロさや奇妙な奴らが出入りしていること、もっとマシなホテルを安く紹介してあげるとさえ言ったんだけど彼女は僕の言うことに興味を持たなかったし、そこへ泊まりたいとさえ言った。せっかくの旅行が台無しになるとも言ったけど彼女の考えが変わることはなかった。

 誰も道なんて分からないだろうから、ましてや定額にしてしまったので遠回りだけど先にロシア人とおばさんを降ろして最後に彼女とダウンタウンをドライブ…… した気分に浸っていたのは僕だけだな。だけどそれは不思議な感じがした。あのおばさんの強烈な残り香が薄まって適度な甘い香りが夢見心地な気分と花に包まれたような美しい印象を与えてくれた。とびきり暑かったのもこういう場合には映画のワンシーンのような魅力的な効果がある。あっという間の短い時間だったけど僕は気分が良かった。
 目的地のホテルに着いて彼女が降りようとした時に僕はしつこいかなと思ったけど本当にここに泊まるのかと最後にもう一度だけ尋ねた。彼女は割り勘分の料金と少し多めのチップを僕に渡しながら、これもこの旅行の目的の一つだと言い最高の笑顔で僕のことを見た。その時に思ったよ、彼女の映画の中じゃ僕は脇役の一人にすぎないって。

『若い日本人女性と中年ロシア人?男性と中年のおばさん サンフランシスコ国際空港からダウンタウン ホテル・クリサリス 25$ チップ計20$』

 むせかえる暑さの中で実際タバコの煙でむせたし僕にイイところなんて無かったけど、おばあちゃんの言っていたことは正しかった。マッチがあったから僕の気持ちに火が点いて、いつもと変わらなかった一日が少し違って見えたんだ。今こうして冷たいコークを飲みながら僕は思うよ、今日はクソ暑い日だけど暑いのは気候のせいだけじゃないってね。
 このサンフランシスコという街は、映画みたいなドラマチックなことで満ち溢れているんだ。
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