1994年7月23日 [ 2 ]

文字数 2,235文字

「うん、イイかは私に判断出来ないけど、私にはこれがベストだと思う」
「ワタシもオサムも気負いが無くて、でも、攻めててスリリングな感じはあるよな」
「これ、かなりイイのが録れたんかもな。ちょっと俺、まだ興奮してて、落ち着いてからちゃんと聴き直したいわ」
 ちゃんと録れたことで今さらながら、初めてのレコーディングに対する無謀な挑戦への緊張が込み上げてきた。興奮した身体は少し気怠く軽いようで、手足は細かく震えていた。明確に残る私の欠片、写真のように時間から切り離された私が永遠に私へと語り掛ける録音。もうすでに遠くに感じる。立ち止まってこのことを考えているはずの私は、気付けば刻一刻と時間に背中を押され先へ進んでいた。
「で、どうする? black mare」
「そうだね、ちょっと気晴らしをしてから考えるってのは、どう?」
 落ち掛けた陽光に照らされた世界は、陰影の中に柔らかく暖色の落ち着きを与えていた。今日も暑い日中を乗り越えた一日が、焼けた色彩からようやく本来の色を取り戻したのだろう。
「今日は、夕焼けキレイに出そうやな」
 束の間の夏の夜へ向かう。私とピアノは、近所の展望台へ夕焼けを見に行くことにした。


 力を出し切って、ぽっかりとした感じで訪れた展望台にも誰も居なくて、そよ風が吹いていて気持ちが良かった。今日が駆け抜けて行って、私達の見送る一日の後ろ姿が夕焼けなんだと思う。私の人生で、あと何度、夕焼けを見ることが出来るのだろう…… 大地や海に対して角度の浅い光は、この世の別の側面を晒す。いつもと違う表情、感情の背後、この夜へと移行する時の中で着色された音には沈黙が与えられる。虫も、鳥も、風も、私達だって、過ぎ行く今日を黙って送り出す。穏やかな海面を伝い伸びる光の筋が名残惜し気に煌めき、全てのことには終わりがやって来ることを告げる…… 私もいつか死ぬんだ、と、余りにも綺麗な夕焼けを眺めながら涙が溢れる。怖いとか、そんな感情は無かった。ただ、この夕焼けの包み込む全ての中に私もあることが、そう思えたことが嬉しかったのかもしれない。そして、不思議なもので、私は自然と頭の中に流れ始めたblack mareのメロディに歌詞を口ずさんでいた。さっきまでは暗く悲しい詩だった。けれど今は、少し前へ進む為に歌うべきだと私は理解し始めていた。
「ほら! ミチヨ! 還ってきた!」
 ピアノに呼ばれ、指差す空を見ると、昨日よりも丸い月が浮かんでいた。私は、それが詩のことだと思った。
「詩の中の月面のこと?」
「そうか! 詩にも書いてたの忘れてた! ワタシが考えてたんは、音が還ってきたって…… でも結局、同じことかも」
 西方の彼方に滲む夕焼けが弱まり、紺色のグラデーションを経て、そこからは月が浮かぶ闇のような夜空があった。全て繋がり、途切れることなく、音もずっと鳴っていたということ。私達が幼かったあの日からずっと…… 今日まで、そして、この先もずっと……
「ピアノ、今からblack mare録ろうよ。今しか出来ないこと…… きっと、それだと思うんだ」
「よし! 録ろっ!」
 振り返り、消えゆく夕焼けを最後に見つめ直すと、遠くの雲は光を閉じ込め、風が再び吹き、虫の音もあちらこちらで響いていた。空を横切るツバメの残影と共に。


「ミチヨ、録音する前に話しときたいことがある」
 録音の最終打ち合わせが終わった時、ピアノは話しを始めた。
「多分、もう気付いてると思うけど、ミチヨが小さい時に出会った調律師って…… そうやとワタシも思う。で、イメージの伴う音って、そのイメージに向かうんやろな。この場合、志摩であり、おかあさんであり、それをワタシ達は知らずと黒い雌馬のイメージに見せられてたんやと…… まあ、グランドピアノなんて黒い馬の姿そのままやし…… なんしか、私達の聴いた音って、ずっと記憶の中で途切れることなんかなく鳴り続けてて、時間を掛けてゆっくり今日まで来たんやと思う。おかあさんが昔、話してくれたんやけど、穏やかな英虞湾の海面に映る満月って、大きな真珠なんやって。もしかしたら、御木本幸吉も、それで閃いたんかもな、ここで養殖しよって。それと、詩書いてる時に、雌馬を英語の辞書で調べたら、『月の海』と綴りが一緒やったことが分かって、マジでびっくりした。でも、元々はラテン語の海がmareみたいで、とにかく、なんか全部ワタシの中で一つに繋がった!」
「ピアノの言う音って、人だよね」
「うん、適当に鳴らした音じゃなくて、そこに想いがあれば、ってこと」
「想いか…… ずっと昔の過去に、海に黒い雌馬のイメージを重ねた人がいたのかもね」
「誰かの想い…… なんかもな。この世の全て……」


 夜は涼しく、演奏には適していたけれど、開け放った窓から部屋の灯りへと群がる蛾や虫達が多過ぎて、私達は家中の灯りを消すことにした。闇の中で、音を頼りに、時間を遡ってゆくような、そんな演奏だった。二人のことは分からないが、少なくとも私はそう感じた。本来の暗い夜は記憶の領域なのかもしれない。どこまでも、無限に広がっているような。
 朝を迎えた夜が終わるように、私達の演奏にも一つの区切りはあった。曲の終わり、録音の終わり。driftwoodとは違い、私は小さな擦れるような声で細く歌う。上手いとか、そんなことは私には無いけれど、一番遠くへまで届くように、それだけを考え、この先、この曲を聴く人へ投げ掛けるように歌った。
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