2004年7月18日 [ 7 ]

文字数 1,568文字

 夜気が開け放った窓から流れ込む。私は何度も寒さで目覚めたが、その度に身体を丸め、またいつしか眠っていた。丁寧にベッドメイキングされたカラフルな布の下に潜り込めば、暖かな安眠を得れることは寝ぼけた頭でも理解出来たのだが、そのたった布一枚の距離が私には遠かった。目覚める度に断絶する夢の内容は全く覚えていなかったが、見知らぬ土地で見る夢は現実のようでもあった。暗闇の中で身震いをしながら、より小さく丸まったが、寒さがついに眠気すら吹き飛ばしてしまう。
 関節や筋肉とそれらを司る脳が一致しない借り物のような身体でベッドから起き上がると窓を閉め、メッセンジャーバックの中から機内用にと忍ばせておいた黒いパーカーを取り出し急いで羽織る。椅子に腰掛け、暗い部屋からガラス越しにぼんやりと映る街灯のオレンジ色の淡い光をぼんやり眺めていると、静まり返った部屋に胃の動くキューと鳴る甲高い音が響いた。機内食の果物以来、珈琲しか摂取していない胃の嘆きか。

 洗面所へ行こうと部屋を出ると壁に掛けられたいくつかの電灯が仄かな光を発していたが廊下もまた薄暗かった。ただ、階下へ続く階段からは強烈な光と共に、時折賑やかな声が聞こえてくる。一先ず身支度を整えると、ホテルの支払と食事を調達するべく外出することにし、軋む木製の階段を光の方へゆっくりと下りた。

 明るい二階の廊下を抜け一階へと進むにつれ、人の声の他にモダンジャズが流れていることに気付いた。日本で聴く音との違いがあるようにも感じたが、気候だろうか、それとも昔誰かから聞いた電源の違いだろうか、そんな古い記憶を探りながら一階へ辿り着くと、昼間に見た誰も居ない暗いロビーとは対照的な、そこは煌々と輝く灯りと煙草の煙、そして、グラスを片手に賑やかな声が溢れる別世界だった。
「ホウ! お前ら! 女王様のご登場だ!」
 私の姿を認めたあの白衣の若い男がカウンターの中から言い放つ。一斉にこちらへと向けられた視線の数々に一瞬にしてここへ泊ったことを後悔し、自室へ引き返そうとも考えたが、空きっ腹がそうはさせてくれそうにもなかった。
 私へと集まった注目は何事も無かったかのように引き、そこに居た人達はまたそれぞれの会話へと戻っていった。

「ごめんなさい、疲れて寝てしまって…… ええっと、宿泊の支払をしないといけないわよね。女王様扱いは止めて、ただの旅行者として扱ってくれるなら今夜から一週間泊まりたいのだけど、可能かしら?」
 白衣の若い男に私が声を掛けると、カウンターの椅子に座っていた身なりの良い年老いた男性が私に話し掛けてきた。
「お嬢さんは、どちらからお越しで?」
「日本から」
「それは随分遠くから、旅は素晴らしい」
 老人は、手に持ったグラスの残り少ない赤ワインを飲み干すと笑顔をこちらへと向けてきた。ここに居る人達はかなり騒がしかったが、この老人だけは静かに別の時間に居るような雰囲気があった。そしてよく見渡してみるとロビーに居るのは見た目が男性らしき人ばかりで、おそらく女性は私の他に一人も居なさそうだった。
「ホウ、一週間も泊まるのかい? まあ、ウチはかまわないけど…… ホウ、そうだ、宿帳を書いてもらわないと」
 白衣の男はカウンターの中から一冊の安っぽいノートとペンを差し出し、最後に書いた人の後へ続けて書くように言った。パラパラとノートを捲り、多数の名前と住所が並んだ最後に自分の名前を書き足す。
「ホウ、なんて読むんだ? ミ、チ、ヨ…… ミチヨ! ホウ、クリサリスへ、ようこそ! ミチヨ!」
「ミチヨさん、ジョージだ。私は、ジョージ・ハリス・ジュニアだ」
 握手を求められ握り返したジョージさんの手は驚く程固くて金属のようだった。
「ホウ、俺の名前をまだ言っていなかったな! 俺の名はフレッド、よろしく、ミチヨ!」
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