1994年7月16日 [ 2 ]

文字数 3,267文字

 まさかの発言は、これまで実感なんてなかったはずのピアノまでをも動揺させ、もちろん、私は怖いぐらいだった。あの後、生徒さんに別れを告げ、逃げるように立ち去った私達だったが、とにかく、少し走らせた先の路肩に黒パンダを停めると煙草に火を点けた。
「ちょっと…… 何て言えばよいのか…… 思い掛けない展開……」
「あれは、さすがにビビるな。ミチヨの空想の産物が、こっちまで飛び火してきたから、正直、冷や汗掻いた……」
 影もない場所に停車した車内は窓を開けていても蒸し暑く、私は目と鼻の先にあった自販機で冷たいお茶を買うと、ピアノと回し飲みをした。
「少しは落ち着いたけど…… 何か妙な感じは抜けきらないね」
「そやな…… 真っ直ぐ帰るのもなんやし、ちょっとドライブしてから帰ろ」

 この辺りは英虞湾を取り囲むように半島が伸びており、先志摩半島、奥志摩半島、前志摩半島と人によって呼び名は変わるようで、半島の突き出た先から御座、越賀、和具、布施田、片田、船越、波切と太平洋に沿って集落が点在し、私達はのんびり行き止まりの御座まで行くことにした。今日は、夏の土曜日である。

「あっー、どこも! かしこも! 海水浴客だらけ! 道は混んでる! 人は飛び出してくる! 女二人やとナンパしてくる輩もいる! さっきから、全然進まへんやん!」
「多分、この先、道が狭くなってない? 両方から車が来て、完全に詰まってる気がする」
 動かなくなった車列、黒パンダがオーバーヒートすると困るので、私はエンジンを切った。
「さすがに、冷房無しでは、きっついなー」
 少しでも風に当たろうと、窓から顔を出していたピアノは、突然、車から降りると、少し前の方へと歩き、何やら人家の門の脇で屈み込んだ。もはや、ピアノの突拍子もない行動にも慣れていたので、そのまま見守っていると、立ち上がったピアノが今度は門の中へと入っていく。ピアノの屈んでいた場所には、何やら段ボールが残されていた。

「ミチヨー、車動いたら、こっち入ってきてー」
 それだけ言い残したピアノは、また人の家の中へと消える。何だかよく分からないが、渋滞から抜けれるなら、それはそれで有難かった。しかし、ほんの数メートルが動かないこの状況で、私はいつになれば、そっちへ行けるのだろうか。イライラしても暑さは増すばかりなので、私は椅子に浅く腰を掛け、背もたれを後ろに倒してぼんやりとしていた。遠くで聴こえるクラクションの音でさえ、今は私を通り過ぎてゆく。五線譜もない、もう、どんな音さえも引っ掛かることもなかった。

 十五分程経つと、ギリギリ門の中へ入れそうな隙間が出来たので、パンダの車体の小ささを活かし、ハンドルを慎重に切りながら、何とか敷地の中へと入れることが出来た。それで、どうしたものかと黒パンダから降りた私に、開けっ放しの玄関から出てきた白いランニング姿のおじさんが中へ入れと手招きをした。
 古い日本家屋の佇まい、昭和からの時を閉じ込めたような趣きのある小さな家、知らない人の家の独特の匂い。狭い下駄箱の上には、陽に黄ばんだレースが敷かれ、その上に薄い水色のスイカぐらい大きなガラス玉が置かれている。ガラスの中に浮かぶたくさんの気泡が、あの日の海中の水泡のように思えた。


「おじちゃん! まだ、いらん段ボールってあるー?」
「もう、段ボールはあらへんな。ビニールの紐あるし、それ使い。あんたー、こっちや、こっちの部屋やでー」
「はいっ! 今、行きます!」
「ミチヨー、こっちやでー」
「ああ居た、って、ピアノ! これ一体、何してるの?」
「古本回収やん。表に『ご自由にどうぞ』って、段ボールに本とか食器とか捨ててあったし、おじちゃんに他にもあるか聞いてみたら、この通り、ビンゴ!」
「あんたら、冷たいお茶飲むか?」
「あっ、いっただきまーす!」
 滅多にお目に掛かれへんけど、ごく稀に、こういうことってあるんよな。本棚は小さいの一つだけやけど、まあ、郷土史やら、まさかの英語の本やら、かなり面白いラインナップ。
「もう、何でも持っててかまへんで。眼がワルなってから、字も全然読めへんし、どうせ、処分せなあかんしな」
 結局、ほとんど貰うことにして、段ボールに入らへんのは、適当にまとめて紐で縛っていった。
「ミチヨ、これ全部パンダに積むし、手伝って!」
 ワタシが部屋から玄関まで、そして、ミチヨが玄関からパンダまで運ぶと、あっという間に作業は終わった。
「これ、まだ動かん感じ?」
「おそらく」
 家の前の道は相変わらず混み合い渋滞してて、さて、どうしたもんかと。
「土日は夕方までこんな調子や。駐在さん、どっかで交通整理してるんやろかな」
 門の前まで出て、三人で動かない車列を眺めるも、先も終わりもどこまで続くのか、見えへん。
「暑いし、ウチの中でスクの待ったらええ」


 なりゆきで、見知らぬおじさんの家に上がり込んだ私達は、三人で冷房の効いた居間の畳に座り、冷たいお茶を飲みながら、黙ってテレビの時代劇を観ている。不思議な空間、私だけだと絶対にありえない展開はピアノだからこそだし、自分の生きている世界もすぐ側には様々な人や生活があって、当たり前のことを何も知らないだけだと思わされる。ピアノとの出会いもまた、それと変わらない……
「龍夫さーん、おるかー」
 玄関で声がしたので、おじさんことタツオさんは様子を見に行ったが、なぜか、ピアノも後に続いて見に行く。独り残された居間では、時代劇の終盤にありがちな戦いが威勢よく始まった。

「ミチヨ―、次の依頼入ったでー」
 ピアノに呼ばれ玄関に行くと、隣家のミツさんを紹介され、あれよあれよとお宅へ伺うことになる。そこでも、古本を貰う段取りをつけたピアノは、ミツさんが用意してくれた段ボールに次々と気になる本を詰め込み、あっという間に本でいっぱいになった二箱の段ボールが出来上がった。
「あんたら、そうめん食べていくかー?」
「あっ、いっただきまーす!」
 さっき知り合ったばかりのミツさんとタツオさん、そして、私達の四人で食卓を囲みながらそうめんを食べている光景は、私が何か理由を求めたところで全く意味のないことだった。こんな時は、素直に人の好意とそうめんの美味しさを味わえばよいのかもしれない。構えているだけだと知り得ることもない事柄も、こちらから飛び込まないと分からず、ピアノに誘われ飛び込んだ海の中の景色と一緒だった。

 夕刻を過ぎ、車の往来も途切れ始めた隙を突いて私達は帰路へついた。黒パンダの後部座席には段ボールと入りきらなかった本が山積みになっており、助手席のピアノは腕の中に大きなビン玉を抱えている…… こういう経緯で……


 そうめんを食べ終わった私達は、そのままミツさんの家でゆっくりと過ごし、渋滞が解消されるのを待っていた。そんなミツさんの家にもガラス玉が飾られていて、こちらは少し小振りな物だった。
「ねえ、ピアノ、あのガラス玉、タツオさんのお家にも飾られていたけど、何か特別なものなの?」
「ああ、あれ、ビン玉って言うて、昔、漁師が使ってた『浮き』やで。特別なもんでもないけど、みんなキレイやし飾ってるんちゃう。あんなんやったら、いくらでもあるで、ここらへん。ミツさん! どっか近所で余ってるビン玉ない?」
 ミツさんとタツオさんに連れられて、私達は新たなるお宅へと向かい、そこの方も合流すると、今度は海に近い納屋へと案内された。そこは、漁具の倉庫になっていて、大小様々なビン玉が脇の方に積み上げられていた。
「好きなん、持っていき」
「良かったやんミチヨ! 一番大きいの貰いーや!」
 欲しい、とは一言も言わなかった私だけれど、欲しそうな顔をしていたとすると情けない…… でも、ここは、ピアノを見習い遠慮なく、タツオさんの家にあったのと同じぐらいの大きなビン玉を貰うことにしたのだった……

 夜の志摩を走る道すがら、時折現れる外灯の光を受けたピアノの腕の中のビン玉は、青白い月のような夜のひんやりとした輝きを放っていた。
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