1994年7月22日 [ 3 ]

文字数 4,351文字

 この家から音が去って、今日また音が響いて、何年振りに見たんやろ…… この写真。もし、ずっと終わらせ方が分からへんかった曲の最後を決めたいんやったら、もう今しかないんかもしれん。ミチヨにしか埋められへんかった数年の時間、ここへミチヨが辿り着いたことが偶然なんかじゃなくて、これがミチヨの強い意思やったことを表す進行と、ワタシが与えるべき最後の音か……
 他の人、長い関係のオサムでもない、他の場所、エッサウィラでもない、人生におけるあの日から止まったままの曲の始まりは、ワタシに家族があったことで、三人で、この家で鳴っていた音の続き…… これは、誰かへ向けた曲でもない、特別個人的な、渡されることもない曲。もしかしたら、これまでのワタシの音も全部、ワタシの為のもんで、だから黒い雌馬が寄り添ってたんかもしれへん…… じゃあ、それって……


 煙草を吸い終えたところで、何かが閃く訳でもなく、私はぼんやりと調律のことを思い返していた。調律は音を完成させればそれでおしまいではなく、そのピアノを弾く人が選ぶ音によって、むしろ始まりを迎える。ただ、それも普段の調律であって、あのグランドピアノには、まだ足りない個人的な想いが欠けていた。
 私は長い時間の果てにここへとやって来た。それは、黒い雌馬に導かれたことは確かだった。だけど、それもやがて消えるイメージでしかなくて、もっとこれから先も時間を越えるような強固な気持ちのようなものが…… 波打ち際に打ち上げられていたものは、時間に耐えられず朽ちてゆく。硬い胡桃でさえも、いつかはその身も時間に壊されるだろう。ガラスでさえも割れた欠片は原型の記憶を留めない。ゴミは華やかさを過ぎた以上、もっと無残かもしれない。こんな時、私に強い信念の言葉があればよかったけれど、ピアノのような詩は紡げそうにもない。非力な私には何も出来ないのだろうか…… 灯台のように遠い先へまで届く光、嵐にも負けずそびえる白亜の身体が羨ましい…… 私は、ピアノの白い手が灯台へ触れる瞬間を思い出していた。夏の陽を浴びた灯台は、思考の隅々まで白く焼き尽くし、そこに残されていたのは、光沢を帯びた白い輝きだった。
「あっ! そうか!」
 火の点いていない煙草をくわえたまま、私は急いでギアを一速に入れパンダを動かした。傾き始めた陽が反射したバックミラーの中を白色で満たし、私が走る夏草から遠ざかる道の上には車も人もいなかった。

 落ちてゆく陽を背に、人は家路へと向かう。駅が近付くにつれ片側一車線しかない道は混み始め、ほとんど進まないパンダの運転席で私はやきもきしていた。エッサウィラへ向かう為に家を出た時もこんな感じだったと考えながら、クラクションを鳴らされるような都会の忙しなさがない分、いくらか気分はマシだったが…… 
 道に少し迷いながらも私は記憶を辿り、何とか目的地へ着いた喜びも虚しく、点灯するにはまだ少し早い街灯の下で、お目当てだったばい屋はすでに閉まっていた。店の前に横付けしたパンダから降り、ガラス戸越しに真っ暗な店内を覗いてみても人の気配は無く、さっきまであんなに勢い付いていた私もさすがに途方に暮れながら佇むことしか出来ない。上手く行きそうなことがガラス戸一枚隔てた寸前で叶わないこの状況に、ピアノと出会う前の自分が抱えていた消極的な感情が押し寄せ、滅入りそうになりかけたその時、私の足はばい屋の向かいにあった窓の灯りが点る家へと歩き出していた。

「夜分に、すみません!」
 呼鈴を鳴らすと出てきた白いステテコに白いランニング姿の真っ白なおじいさんに、私はばい屋のことについて尋ねた。
「あーれんま、ねーさんの電話番号は知らんからおせえれへんけんど、家知っとるから地図書こか」
 新聞の折り込みチラシを切って作ったメモ用紙におじいさんが鉛筆で描いた地図は、明らかに地元の人にしか分からない内容で、私には距離も方角も、ましてやそこに記された目印なんて全く分からなかった。困り果てた顔で地図を縦に横に眺めてみたが、それで分かれば苦労もない。
「なんや、のーはよそから来たんか、そんならおいが連れてったるから、行こ行こ」
 突然の、しかも暮れ始めた夜の、さらに見知らぬ私なんかの訪問にも親切に対応してくれて、さらに案内まで買って出てくれたおじいさんの後を私は歩いて付いていった。
 蛙や虫の鳴き声に沸く夜道、蛾や昆虫が戯れる街灯や家々の門灯、お酒の自販機がぼんやりとした光を放ち、通りに面した家の網戸から聴こえるテレビ番組の笑い声が何だか嘘のような現実感のない気持ちにさせ、前を歩くおじいさんのサンダルが鳴らすペタペタした音は私からどんどん遠く離れてゆくような感じがした。そして、私は夜空を見上げた。満月だろうか、少し霞がかった大きな月はやけに近くに見え、ほのかに真珠のような白く淡い輝きを放っていた。

「あら、ピアノちゃんの東京のお友達さん」
 夜分に突然家へ訪問したことをお詫びしてから、どうしても買いたい物があってお店に来たことを説明すると、おばさんは私のお願いを快く受けてくれて、支度をするからと一度家の奥へと戻っていった。気付けば案内してくれたおじいさんはすでにいなくなっていて、暗くなった夜道の先からサンダルの鳴る音だけがペタペタと響いてくる。
「はい、お待たせ。じゃあ、いきましょうか」
 おばさんと二人で歩き出すと、私は急に何だか勝手なことをしている自分に嫌気が差した。何となくピアノの様な振る舞いを無理に真似したようで、慣れない私の行動には芯がないようにも思えた。今さら後悔しても遅いのに、申し訳ない気持ちが溢れ出す。そして、暗い道の中、往きに見た自販機へ段々と近づいてくると、そのぼんやりと放たれる光に何度もその身を打ち付ける一匹の蛾がいた。光に吸い寄せられても透明なプラスチックのカバーに阻まれ、例えその先へと辿り着いたところで、その光を蛾は本当に欲していたのだろうか。その虚しさは私を見ているようであったが、一心不乱な気持ちを私が本当に持ち合わせていたとは思えない。
「あら、どうしたの? 浮かない顔して」
 何を言えば、どう言えばよいのかも分からなくなるぐらいに、私の気持ちは落ちてゆくばかりで、ついに私は立ち止まってしまった。
「すみません…… わがままなことを…… 突然押しかけて……」
「そうね、そうかもしれないけれど、でもね、嫌ならこうして一緒に行かないわよ。理由は分からなくとも、真剣な気持ちは真っ直ぐ相手に届くものなの。だからね、こうして私もおじさんも突き動かされたのじゃないかしら」
 優しい言葉に思わず泣きそうになった私は、下唇を噛みながら堪えた。そして、その私でさえ、こうして我も忘れ駆け回っていることやこれまでの人生の選択こそが、幼い頃に聴いた調律、そう、ピアノのお父さんの気持ちに突き動かされたのかもしれなかった。全ては導かれて……

 おばさんに背中を押された私は再び歩き出そうとして、またすぐにおばさんに引き留められた。
「ちょっと待って、ちょうどいいわ」
 おばさんは手に持ったハンドバックからがま口の小銭入れを取り出すと、自販機に駆け寄りビールを二本買った。
「はい、これ、おじさんへのお礼。店に着いたら、まずはお家へ行って渡してあげて」
「そんな、お代は払います!」
「いいわよ、そんなの。だって、これからウチの店で、お買い物してくれるんでしょ?」
 不甲斐ない心の内をおばさんには見透かされているようでいて、おばさんの嫌味の無い言い方や仕草、タイミングに私はまたも救われていた。自然に込み上げた笑みさえも、おばさんのおかげだった。
「あら、やっと笑顔になった」

 私はお店に着くなり、向かいのおじいさんの家へビールを届けにいった。さっきまでの惨めな心の中のわだかまりがさっぱり消え去ることはなかったけれど、少しぐらい抱えて生きているのが私らしくて納まりもよい。こうして一つ自分を知ることで、素直に次へ踏み出す自分を見守ればいいのだから。

「さて、どの商品をお求めでしょうか、お客様?」
 灯りの点いたばい屋の中は、ようやく眠りに就いたところを叩き起こされたようで、雑多な商品も店内に馴染んでいない感じがした。私はレジ横のガラスのショウケースの前へと進み、中を覗き込みながら目当ての商品を探した。しかし、前回見た時とラインナップは変わらず、いくつかの宝石や真珠の商品と貝の独楽が並んでいるだけだった。
「あの、先日伺った際に見せていただいた真珠のイヤリング…… そう、プラチナのチェーンが付いた、あれはまだありますか?」
 おばさんはにっこりと笑うとカウンター内から淡い海の色をした小箱を取り出し、私によく見えるように箱を開いてくれた。
「これでしょ? そうだと思ったの。あの時、あなたがきっとまた来る、って思ったから出さずに残しておいたのよ」
「えっ、どうしてそんなことが……」
「あら、だって、あの時のあなたの顔、本当、アクセサリーに興味を持ち始めた小さな子供みたいで可愛かったもの。また来た時に無かったら、悲しませるでしょ?」
 急に頭が熱くなって、きっと私は赤面していただろう。ビン玉やポストカードの時と変わらず、欲しそうな顔をしていたのだと思うと、情けない……
 おばさんから受け取った小箱は軽く、本当に自分の手の中にあるのかと疑う程だった。触れると壊れそうな繊細な白い球体は、見つめる角度を変えると輝きが変化する。このまま、いつまでも眺めていたい、そんな気持ちになる。
「ところで、ゆっくりしてていいの? 急いでいるのじゃないかしら?」
 閉店後に押し掛けてくるぐらいだから正にその通りで、おばさんは何でもお見通しだ。
「あの…… これ頂きたいのですが、お幾らになりますか……」
 値段の付いていないイヤリング、装飾品なので安くはないだろうと私は身構えた。
「そうね…… じゃあ、六千円!」
「えっ? そんなに安いんですか?」
「あら、これミキモトのちゃんとしたものだから安くはないわよ。でも、仕入れ値にビール代を足しところから、あとはピアノちゃんのお友達割引ってとこかしら」

 結局、終始おばさんに圧倒されながら私は店を出た。店先で見送りに立ってくれたおばさんがパンダに乗り込もうとしていた私に声を掛ける。
「また、志摩に来たら寄ってちょうだいね―― ところで、お名前伺ってもいいかしら?」
「美千代です…… 杉浦美千代です」
「あら、ミチヨさん、素敵なお名前ね。私は小林久美子。よろしくね」
 パンダのバックミラーに映るクミコさんは、私が道を曲がり見えなくなるまでずっと、ばい屋から漏れる朧げな光の中に佇んでいた。
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