権力者の誇り
文字数 4,875文字
翌朝早く、サキは摂政府を発ってレンカ城に向かった。今回、ニコラは同行していない。サキの説得が身を結ぶと信じて、別の調査をすると言っていた。
馬車は川沿いの道を進む。渓谷の上に、監獄の影が見えた。この短期間で、四度目の訪問だ。
城の崖下でイーゼルを立て、川面をデッサンしている人物に気付き、サキは驚いた。
サキの絵画担当の家庭教師でもあり、カヤの父親――今は養父だと明らかになった―――レシエ準男爵だ。
「いらしてたんですね、先生」
石段を渡り、サキが声をかけると、準男爵は恥いるように肩をすくめた。
年は五十近いはずだが、すらりとした体格と、整った顔立ちのせいで十五は若く見える。しかし今、目元には深い疲労が刻み込まれていた。
「先生、ですか」
準男爵は力無く笑う。
「もはや私に、そう呼んでもらう権利はありません。あなたを戦場に行かせる話を知った上で、教えて差し上げなかった薄情な教師です」
何の話だっけ?サキは本気で考え、ようやく思い出した。評議会がサキを革命軍への釣り餌に仕立て上げた際、宣伝用の肖像画を担当していたという件だ。
もうどうでもいい、過去の話だった。まだ一ヶ月程度しか経っていないのに。
「先生も面会に来られたんですね」
先生呼びをやめないサキに準男爵は苦笑を重ねた。
「あの子が有罪になりたがっているのは承知しています。私なりに説得を重ねてみましたが、決意は固いようです。親子として心を通じ合わせてきたと自負しておりますが、足りないようですね」
画家は項垂れる。
それでも血の繋がった父親ではないからと自嘲しないところに、矜持が感じられた。
「サキ君、いえ、殿下は・・・」
「サキでお願いします。くすぐったいので」
「サキ君は、あの子の兄を知っていましたか?」
なぜ彼の話になるのだろう、とサキは不思議に思った。カヤの義兄である準男爵の長男とは、たまに宴席で言葉を交わす程度の付き合いだ。準男爵家は、工房だけでなく芸術品全般の販売も手がけており、長男は買い付けを任されているため、国外へ出ている場合も多いと聞いている。現在も、まだ王都には帰参していないらしい。
「長男は、この数年、絵を描いていません。自分自身の、画家としての可能性に見切りをつけたんです」
「カヤのせいですか?」
サキが初めて聞く話だった。
「ある意味ではそういうことになりますね」
準男爵はイーゼルに立てかけた画帳に木炭を走らせる。わずか数本の線で、川流が再現された。
「我が家には――画家の一家ならどこも似通っているでしょうが――描写の『型』のようなものが存在します。父から子へ、孫から曾孫へと受け継がれる雛形です。時代に応じた変貌は避けられませんが、基本的に、同世代では同じ形を保っている。つまりきょうだいで筆を執る場合、彼我の優劣が明確になってしまうのです」
「お兄さんは」
サキは準男爵家長男の人となりを浮かべた。わりと脳天気な人物に思われたのだが。
「その継承とやらがカヤに及ばないと悲観して、筆を折ってしまったと?」
「簡単に言うと、そういう説明になってしまいますけどね」
準男爵は困惑を示すように眉を曲げた。
「長男は時期当主ですから、当家を俯瞰で眺めます。自身の才覚を家業を回すための『駒』として見た場合、創作で妹に劣るようならその道を捨てて、審美眼を活かす方向に転換するのも間違った判断ではないんです。ただ・・」
川面に跳ねた小魚に、画家は哀れむような視線を送った。
「皮肉なことですが、カヤには長男ほどの眼力は備わっていなかった。自分と兄の力量は互角、それなのに、兄が絵筆を捨てたのは赤薔薇家の差し金に違いないと、ずいぶん落ち込んでいた時期があったんですよ」
知らなかった。
カヤという人格をどれほど過小評価していたのか、サキは自分の眼力を恥じた。絵さえ描いていれば幸せ、他人のことなんてどうでもいい、そんな女の子だと思いこんでいた。
「君のせいではない、赤薔薇家とは関係ないと言い聞かせたのですが、信じてもらえなかったようですね。自分で自分を追い込んで行くあの子を、私は引き上げてやれなかった。ふがいない父親です」
立派な父親ですよ、とサキは心の中で慰める。すくなくとも、自分の父親より点数は高い。
ただ、近すぎるのかもしれない。同じ絵描きだからこそ、届かない言葉もあるのだろう。
やはり自分だ。無責任な言葉だからこそ、響く場合もある。
「僕もこれからカヤに会ってきます」
サキは家庭教師をまっすぐに視て、言った。
「少し待っていてもらえますか?終わったら、カヤから話したいことがあるかもしれないので」
準男爵は戸惑ったように瞼を動かしたが、すぐに微笑んだ。
「おや、いいですね今の眼。後で描かせてもらえませんか」
「カヤ、君の信念とやらは間違ってるよ」
挨拶もそこそこに、サキは切り出した。
ぬいぐるみの監獄にはサキとカヤ、コレートの三名。席を外してもいい、とコレートは言ったが、援護が期待できるかもしれないので、立ち会ってもらうよう頼んでいた。
「そうかもね」
カヤは微笑んだ。
「青臭い考えだってことは、自分でもわかってる。我慢しろっていうんでしょう?権力から、完全に自由な人間なんてどこにもいない。これは程度の問題だって・・・」
「そんなことは言わない」
サキは否定する。
「ただ、気になっただけだよ。昨日、僕は負傷した少年兵の見舞いに行ったんだ」
不思議そうにカヤは眉根を寄せた。
彼女もあの少年を見ていたはずだが、サキほど印象には残らなかったのかもしれない。
「臨終の床で、彼は、僕に感謝していた」
サキは少年の経歴を手短に説明した。
「いい話だね」
カヤは本気で感動しているようだった。
「世の中には不幸な人生が石ころみたいにたくさん転がっている。それに比べれば、わたしの悩みなんてちっぽけなものだから気にするな、って論法かな?」
「そんなことも言わない」
サキは首を振る。
「ただ、違和感があった。あの子は短い人生の最後に、自分が求めていたものを手に入れた。それをもたらしたのが僕だったという話はどうでもいい。問題は、彼の瞳が輝いていたってところだ。世界とか社会とか関係なく、本当に欲しかったものを獲得したとか信念を貫いて生きることができたなら、ああいう尊さを纏って死ねるんだなって、納得できるような光だった-------」
サキは少女との距離を詰めた。
「今の君は違う。嘘だ。権力から逃れるためだったら死んでもいい?そんなのはカヤの信念じゃない」
「決めつけないで」
カヤの声に硬い響きが加わる。
「私も死ねる。満足して死んでいける」
「うそだ」
追いつめるように距離を詰めながら、サキは手ごたえを感じた。カヤが怒りはじめているのはいい傾向だ。
「気持ちよく死ぬことなんか、君は求めていない。願いは別にある。ただ、それを認めるのが怖いだけだ」
「私は臆病者じゃないっ」
カヤが爆発した。
「あんたに何がわかるのよ。あたしのいいところしか見せてこなかったあんたが、あたしのこと、悩みも嘘もない頭からっぽだって信じてたサキが!」
「どうして絵を描かない!」
サキの言葉に、カヤはびくりと震えた。
傍観者を決め込む風だったコレートも、両目を瞬かせた。
「戦場でもあれだけ筆を走らせていた君が、この監獄に来てから一度も筆を握っていない。怖いからだろう?この状況で、描くのが恐ろしいからだ」
「怖いなんて」
一転して弱々しい声を出すカヤにサキは取り合わず、
「ずっと、ずっと、君は描き続けてきた。絵は君の一部だ。体の一カ所だ。戦わざるを得ないとき、生まれつき額に角が生えている男は角で立ち向かうだろう。それと同じくらい、君には絵画がこびりついている。それなのに今、描いていない。自信がないからだ」
両目に動揺が現れたカヤに、サキは追撃を加える。
「心の底では、戦いたいと思ってる。磨き上げてきた絵画の力で、憎み続けてきた権力をねじふせたいと願っている。でも負けてしまうかもしれない。それが恐ろしいから、最初から戦わないことに決めたんだ。ようするに臆病者だ。敵前逃亡の弱虫だ!」
「ばっかじゃないのっ」
カヤは手近なぬいぐるみを放り投げる。
「私が傑作を仕上げたところで!評議会が感動して、私を無罪にしてくれるとでも言うの」
「絵で領土争いを鎮めたルーベンス、宮廷の頂点に上り詰めたベラスケス、皇帝を跪かせたティッツアーノ。君だって知ってる話だろう?芸術は、ときに国家権力を凌駕する。彼らにできて、君にできないと決めつける根拠はない」
「だったら」
カヤはサキを睨みつけてきた。
「あたしがここで絵を描いて、サキに見せたらやめてくれるわけ?権力をふりかざしてあたしを助けようとすることも、今以上の権勢を手に入れようとすることも!」
「え?」
サキは正直に答えた。
「やめるわけないよ。たかが一枚の絵で、心を入れ替えるはずないだろ」
「言ってること違うじゃない!」
「今のカヤだったら止められない」
さらに距離をつめ、サキはカヤの手を掴んだ。
「準男爵家だって、虐げられるだけの被害者じゃあない。貴族である以上、この国では上の方にいるはずだ。そこで安穏と暮らしておきながら、権力をひとごとみたいに毛嫌いするカヤなんかには、権力を射抜く傑作なんて、不可能に決まってるよ」
「わたし、も」
カヤは掴まれた手をはがし、汚れたものを見るように顔の下に持ってくる。
「もう、染まってるっていうの。わたしが憎んできたものに」
「当たり前だろう?」
もう一度サキは少女を掴む。
「議長の子供に生まれ、先生の家に引き取られて、いい思いをしなかったとは言わせない。一度でも享受したなら、君も権力者だ。棚上げにして、人を動かしたりできるものか」
手を離し、サキは一歩下がる。
「けれども、この先は分からない。認めるなら、自分も真っ黒に染まりながら、それでもその汚さを直視できるのなら!描けるかもしれない。僕も評議会も赤薔薇家も心を入れ替えるほどの名作が!」
喉に力を入れすぎたか、せきこんでしまう。格好悪いが、サキは言葉を止めない。
「そのためには、生き続けないとだめだ。生きて、練り上げて、描いて止めて見せなよ。この僕を」
カヤの表情が「無」そのもののように固まった。
数秒置いて、滂沱の涙がこぼれる。
「う、う、うううう」
しゃがみ込んでしまった。コレートが傍らに座り、肩をさすってあげている。
「・・・・口が上手いなあ、権力者さん」
軽口を叩き、顔を上げたときには笑顔に変わっていた。
「詭弁、でまかせ、誘導!でも、でも、何だか・・・・」
フードをまさぐり、何かを探している。やがて取り出したのは、小枝のような筆だった。
「だまされてしまいたい。口車に乗ってもいい。そんな私がいる。たしかに」
カヤが帰ってきた。
戦場も恐れない。人の苦しみも怒りも、面白い構図だったら躊躇なく描き続ける、画材に手足が生えたような少女が。
嘘だったわけじゃないんだな、とサキは納得する。こちらも本当なんだ。権力を憎み、自分の存在が周りを傷付けはしないかと怯えていた繊細な少女も、重なるように存在しているのだろう。
「気持ちが落ち着いたのなら、早めにお伝えしておきますね」
コレートがいたずらっぽく笑う。
「カヤさん、お父様はまだ城の外にいらっしゃるみたいですよ。お話があるのでは?」
「あ・・・謝らなくちゃお父さんに。手紙で告発したこととか」
「それでは、お呼びして参りますね」
コレートはするりと部屋を出ていった。
後はサキとカヤの二人きり。こんなに緩い警備でいいのだろうか、とサキは心配になる。
「面白かったよ、サキ」
サキの正面で指を十時に組み合わせながら、カヤは言う。
「私を怒るサキも、私を言いくるめるサキも、全然知らない顔だった。また描かせてよね」
そういえば、さっき先生にも頼まれたっけ。サキは親子の繋がりというものに思いを馳せた。血縁を越えて、受け継がれる何かもあるらしい。