試行錯誤と後悔
文字数 8,079文字
「知らない、こんな手紙」
案の上だった。
監獄を訪ね、カヤに手紙を見せたところ、書いた記憶もお話したいこととやらの心辺りもないという。
「というか私、サキに送るならこんな丁寧な書き方しないって」
言われてみればそうだ。手紙は丁寧な文章を使う場合もあるだろうと気にも留めなかったーーーサキは頭を抱える。
コレートから周辺の地図を見せてもらったが、崖上に聳えるこの監獄は、周囲の街道や山道から孤立した位置にある。唯一の出入り口が、向かい岸に通じるあの石段なのだ。
その石段が水没した結果、サキたちは閉じこめられてしまった。
普段なら、とくに焦る必要はない事態だ。レンカ城には備蓄もあるだろうし、豪雨が収まるまで、のんびり厄介になれば問題ない。
しかし今のサキには、一週間の期限が迫っている。本日で二日目。のんびりしていたら証拠を探す時間がなくなってしまうのだ。
「申し訳ありませんが、溜め池の水門を閉ざすことはできかねます」
コレートが頭を下げる。
「溜め池が溢れると、近隣住民の死活問題となりますので。領主としては承認できないのです」
「気にしていただく必要はありません。引っかかった私たちが悪いのです」
ニコラが請け負った。
「ところでこの地図、×印で消してある吊り橋らしき構造物が描いてありますが、こちらも使用できないのですね?」
「その吊り橋は、先だっての戦役の前に壊してしまったんです」
コレートが首を横に振る。
「革命軍がこの城を接収する可能性も危惧されましたので、なるべくこちらへ来られないようにと考えまして」
やはり雨が小降りになるのを待つしかないということか。サキは歯噛みする。渡河に成功して摂政府に帰ったところで、街道のぬかるみが改善していなければデジレにはたどり着けない。二重に足止めを食らっているに等しい状態なのだ。
「それにしても評議会め、こんな姑息な方法で調査を妨害するなんて、見下げ果てた奴らだ」
「評議会の仕業とは限りません」
怒りに震えるサキを姉が窘める。
「彼らのやり口にしては、少々雑なやり方にも思えます」
「その雑なやり方に、僕も姉上もだまされたわけですけど」
「私たちがしてやられたのは事実ですが、完璧な計略とは言い難いのも確かですよ。溜め池が危険水位に近づいているのを見計らって私たちを呼び寄せ、渓谷の増水を利用して閉じこめる。幸運に恵まれたから成功しただけで、間が悪い場合は成り立たない、穴だらけの罠ですよ」
「わたしも評議会の仕業ではないと思います。夫の職場を弁護するつもりはありませんけれど」コレートがこの話題にも加わった。
「赤薔薇家の方で、カヤさんをどうしても有罪にしたいと望んでおられる方がいらっしゃるという話がありますので、その方々の仕業かも」
コレートの発言に、サキは疑念を抱く。その話どこで聞いたのだろう。イオナを通じてか、それとも青杖家当主としての情報網か?
よもや、偽手紙はこの人の仕業か?
自分で頬を叩く。疑心暗鬼は、やめよう。材料の足りないことを思い悩んでも仕方ない。
急に自分を平手打した少年を、カヤたちは不思議そうに眺めていた。
「申し訳ありませんが、向こう岸に戻れるようになるまで、こちらで泊めていただくことは可能でしょうか」
向こう岸に残されていた馬車の御者には、引き返して摂政府と黒繭家に状況を伝えてほしいと大声で伝えてあるので、数日戻らなくても、大事には発展しないだろう。
「それはもう、お好きなだけご滞在下さい。二十日でも三十日でも」
コレートが縁起でもないことを言う。
「どうせならサキもニコラも、私の部屋に泊まらない?」
ニコラが目を輝かせる。
「退屈してたんだ。トランプでもしようよ」
「子供じゃないんだから」
「子供でしょーが、サキはまだ」
ニコラは指先でサキの額をつつく。
「大人の仕事を頑張ってこなしてくれてるんだから、なにもできないときくらい、戻りなよ。子供にさ」
「いいですわね、夜、おしゃべりしながらのトランプ!わたしも加わってよろしいかしら」
コレートまでもが乗り気になっている。
「私も構いませんよ」
姉がにこりともせずに宣言した。
「ただ、私が加わると、常に一位が固定されてしまうことはご了承下さい」
「はー?ぐちゃぐちゃに負かしてやるよっ」
カヤが手のひらをぽきぽきと鳴らす。
機嫌は悪くないようだ。それでもいつもの少女ではない。
本日も、カヤは絵筆を握っていなかった。
翌日も雨は降り続いていた。監獄を出て川の水位が落ちているかを確かめ、失望して戻ってくる。カヤたちとトランプで時間を潰し、しばらくして川を見に行く。この繰り返し。
まだ何の調査もできていないのに、疲労でずっしりと頭が重い。忙しい時間より、無為に終わった時間の方がこたえるものなんだな、とサキは発見した。
向こう岸まで、梯子のようなものを立てかけてはどうだろう。
しかしそんな梯子をどうやって調達するのか。摂政府から持って来させるのか。そもそもこの天候の元でそんな長大な代物を担いでここまでやって来れるものだろうか。
色々思い悩みながら何一つ実行に移せず、期待もせずに川の様子を見に行ったとき、奇跡が起こった。
水位が下がっている。
サキは思わず、声を上げそうになった。落ち着いて、それほど喜ぶ状況でもないと考え直す。
水位は下がっているが、石段より低くはない。水流も激しいままだ。
ただ水流の中に石段の影が見える。水中の石段を歩くようにして、向こう岸まで渡れないか?
(これぐらいの水流で、足をとられたりするだろうか)
滑って転んだら、そのまま下流まで立ち上がれず流されていくかもしれない。途中に滝壺の類があったらおしまいだ。
しかしこのままぐずぐずしていたら、水位が元に戻ってしまうかもしれないのだ。実際、また水かさが増しつつあるような気もする。そもそも初日にデジレヘ向かうのを躊躇したから今困っているのかもしれないわけで・・・
「やってやる!」
叫んで、サキは右足を踏み出した。
水流ごと石段を踏みしめる。やはり流れが激しい!つま先がぶれて、重心が崩れそうになる前に、反対の足を降ろす。反対側にふれる重心。さらに右足、左足、右、左、右、左、右!
繰り返し、九割を渡り終えた。もう少し、もう少し・・・
最後の石段を踏む直前、サキは躊躇した。
水中に揺れるこの石段だけ、色が緑がかっている。ひょっとして苔か?元々こういう色だったか?苔や水草だったら、これまでのように踏みしめたら足を取られてしまうかもしれない。
どうする。
いや、こんな石段ごときを恐れてなるものか。僕は最前線から生還できた強運の持ち主だ。僕は運命の女神に愛されている!たぶん!これは苔じゃあない。石段と同じだ!
右足を踏み出す。
苔だった。
仰向けに、水面へ吸い込まれる。
「あああああああああああば」
流されていく、というより、水面を転がされる、という表現が正しいような感覚。おそらく、立ち上がることは不可能だ。
よく考えたら関係なかった。戦場で弾に当たらないことと、川で足を滑らせないことは。
運命の女神にも、愛されてなんかいなかった。
「ぼっちゃま!」
そのとき伸びてきた腕が、サキの手首をつかみ、そのまま岸へと引っ張り上げた。
「危のうございましたな」
フランケンが息を切らしている。背後には馬車。王都から迎えに来てくれたようだ。
「フランケン、すばらしいなおまえは。すばらしい!」
サキは称賛を繰り返した。
この時間でなかったら、溺死していたかもしれない。
深呼吸をする。運命の女神には、悪友程度に尊重されているようだ。
対岸に声をかけ、出てきた姉に自分は一足先に戻る旨と、無理をしないで水位が充分に下がってから戻るよう伝えてから、サキは馬車を駆り摂政府へ戻った。
夜になっていたから、今からデジレヘ向かうつもりはない。ただ進捗を確認するべき事柄があった。雨と川で濡れた体を乾かしたあと、執務室でサキは訊いた。
「フランケン、父上から知り合いの新聞記者を紹介してもらう件、進んでいるのだろうか」
「はい、頓挫してございます」
フランケンはあっさりと告げた。
「何で?評議会の圧力か」
「いいえ。旦那様が紹介はできかねる、と」
フランケンは冷然と伝えた。
「それらの方々は、旦那様にとって、長年劇場の芝居を評価してくれた他に替えがたい友人であり、今回のような剣呑な話に巻き込むことはできない、とのお話にございます」
「また芝居かよっ」
つくづく尊敬できない父親だ。また母上に縛られたらいい!
そこまで怒って、サキは頭を冷やす。激情に駆られる時間はない。
「ちゃんとしてない記者の方は?ウッドジュニア、ラインシール、ジョン・ドゥと連絡はついたのか?」
「そちらはいずれも応じて下さいました」
フランケンは目じりを緩めた。
「ただし、全員、調査には同行できない、と申し出ております。その、色々なところから恨みをかっている方々のようで、権力者の支配地に行きたくないようです」
「ああ・・それは仕方ない」
元々、そういう連中であると承知で雇おうとしているのだ。
ただ、調査に同行できないとなると、証拠調べの助けとなる「眼」としては使えない。手駒が、用意する前から消えて行く。
明日の調査で頼りにできそうなのは、カヤの父上に頼んだ画工たちだけだ。
「晴れてくれよ。明日こそ」
窓に暴れる雨粒を眺め、サキは祈った。
翌朝も雨は降り続いていた。しかし豪雨という程ではない。これなら、デジレ街道の泥もいくらかましになり、馬車を通せるかもしれない。
それでも、サキの心は晴れない。
頼みの綱だった画工たちが――――約束の時間を過ぎても摂政府に到着しないのだ。現在、午前九時半。九時が集合時間だった。
所在無く執務室をうろつくサキに、フランケンが悲報をもたらした。
「画家たちは、来れないそうにございます」
「どうして――」
「公序良俗委員会に告発が入ったそうにございます。準男爵様の工房で、男女のみだらな行為を描いた作品を密かに販売しているという密告がもたらされたとの話でして、現在、ご当主を含む工房所属の画家全員が聴取されているそうです」
「そうきたかあ・・・」
サキは危うく感心するところだった。王国において、主に男性が愉しむための卑猥な絵画を作り売りさばく行為は大した重罪と見なされているわけではない。売り上げの二倍程度の罰金を科される程度で済む話だった。それでも罪は罪、被告発者は、担当部署である公序良俗委員会の取調べを受け、家宅捜索と事情聴取を受け入れなければならない。
カヤの父親である準男爵は、王国内で名の知れ渡った絵師。工房には大勢の弟子や助手を抱えている。だからこそ、その何人かを借り受けたいと思っていたのだが――――取調べが終わるまで、連れて行くのは難しいだろう。
これも宮廷軍事評議会の差し金か。
サキは歯噛みする。正直言って、相手を信頼しすぎていた。こちらの調査を妨害しない、とはっきり約束させるべきだったろうか。
さて、どうしたらいい?
困ったとき、いつも相談していたニコラは戻らない。雨が止まない以上、増水が収まる見込みもない。
サキは額を拳でつつく。
自分で方針を決め、自分で探し出すしかないのだ。
サキの乗り込んだ馬車は、先日、デジレ行きを断念したのと同じ地点で停止した。
雨は小雨になりつつあるが、数日間水分を吸い込み続けたせいで、沼の様相を呈している状態は前来たときと変わらない。
しかし、本日ですでに四日目。サキに引き返すつもりはない。
「この泥、車を外して、馬だけなら進めないだろうか」
御者に意見を求めたが、返答は芳しいものではなかった。
「厳しいと思いますなあ。馬っちゅうもんはこんな泥の上を走るために鍛えられておりませんから。ここら辺はまだ進めそうですが、途中でもっと酷くなるかもしれませんし」
だったら徒歩で・・・というのは訊かなくてもわかる。論外だ。周囲に誰もいない田舎道の途中で、泥溜まりにはまって動けなくなったら目も当てられない。
立ちすくむサキに、御者がおそるおそるといった体で声をかけてきた。
「あのう、デジレに行かなきゃあ殺されるんですよね、カヤさんが」
黒繭家は来客の送迎や家人の外出用に十数人の御者を雇っている。この男は比較的古株で、カヤとも顔見知りだった。
「もう知ってるのかその話」
「新聞で読んだんでさ。サキ様がカヤさんを助けるために、証拠を探しておられるって」
評議会で取り決めをしてからすでに四日が経過している。大雨が降ったとはいえ、新聞戦車たちはきちんと仕事をしてくれたらしい。
「少々しんどいかもしれませんが、山越えをすればデジレに着けるかもしれません」
御者は田舎道と舗装路の境目となっている丘を指さした。
「あの丘を進むと、街道沿いの岩山に登れます。大した高さの山じゃありませんし、あっしはこの辺りの育ちなんでどの山道を通ればいいかも頭に入ってますから、迷う心配もございません」
「山か」
サキに本格的な登山経験はない。せいぜい野外散策でちょっとした丘陵に遊ぶ程度だ。
「山を歩いて、どれくらいでデジレに着けると思う」
「五、六時間ってところですかねえ」
いばら荘に着いた頃には夕方になってしまうが、泊めてもらえばいいだろう。今、引き返しても、明日状況が改善しているとは限らない。
「よし、行こう。道案内を頼む」
……迷った。
遭難、と表現するほど深刻な事態ではない。上ってきた道をある程度把握しているので、引き返せば危険はないはずだ。
しかし丘を登ってからすでに九時間、夜隠に包まれつつあるのに、まだデジレに到着しない。どうやら方向を間違えて、デジレ方向とは異なる山脈へ入ってしまったらしい。
後日、登山の要点を記した書物を読んだところ、低山であっても油断は禁物と強調されていた。里山は林業や生活物資を獲得する目的で拓かれ続けるため、登山道が錯綜してかえって迷いやすいとのこと。慣れ親しんだ山のつもりでも、年月を経ると新しい山道が通り、過去の土地勘が通用しなくなってしまうのだ。
「申し訳ございやせん!」
這い蹲って謝罪する御者をサキは宥める。
「いや、行くと判断したのは僕だから」
正直なところ腹の底は煮えくり返っていたが、今この男を攻めたところで何の得もしない。へそを曲げられたら帰還も危うくなるとの理由から、サキは叱責を我慢した。
それに、決断したサキに責任があるのも間違いない話だ。
サキは考える。なるべく、全部は無理かもしれないけれど、上手く行かないことを他人のせいにはしたくない。
周囲に責任を押しつけたら、その時点で僕の人生は僕のものでなくなってしまう。
僕は、僕の人生の支配者でいたいのだ。
結局その夜は野宿をして翌朝往路を戻ることに決めた。
外套の上に乾いた落ち葉を乗せ、ランタンで暖めて毛布代わりにする。
「あっしのガキがですね」
木の葉の下、御者が前触れもなく語り始めた。
「カヤさんに絵をかいてもらったんです。死んだおっかあの絵でさ。あの人、すごいですね。一度見た物も人も、全部頭に入ってるって」
「ああ、天才だよな」
「描いて下さったんですよ。金も取らずにね」
御者の言葉は、ほんの僅かだけ嗚咽が混ざっているように聞こえた。
翌朝、サキたちは往路を戻り、出発地点の丘に帰り着いた。
疲労が激しい。一旦、摂政府に戻る。その日は泥のように眠った。
翌日、空は晴れ渡っていた。
ニコラは前日も戻っていなかった。準男爵家への事情聴取も続いており、画工を借りる目処は立っていない。
それでもサキは、デジレヘと急いだ。馬車を駆るのは件の御者。丘の手前で、サキは危うく叫ぶところだった。
泥道が乾いている。普段通りではないものの、この湿り具合なら馬車で踏破できるか、途中の宿場町で馬や車輪を交換すればなんとかなりそうだ。
「いけそうだな、これなら」
「いけそうですなあ」
御者と顔を見合わせて喜んだが、
「・・・・・」
どっと徒労感が押し寄せた。
「意味がなかった。この五日間。何もしないのと一緒だった・・」
「ま、まあ済んだことをくよくよしてもしょうがありやせん。これから本番です。気合いを入れましょうや」
御者が慰める。
あと二日。手に入れた証拠を吟味して、評議会のためにまとめる作業を計算に入れると、調査に集中できるのは今日くらいしか残されていない。
なんとしてでもデジレに到着しなければ。 泥道を走る馬車の中で、時間が止まるように、可能な限り太陽が土を乾かしてくれるよう、サキは祈る。
いばら荘が眼前に現れたとき、サキは叫んでいた。
「いやったぞううううう」
後は証拠を見つけだすだけだ。これでカヤは助かる!
正門で来意を告げる。前回同様、バンドが応対してくれた。
「お疑いかと思われますので、私の立ち位置を説明いたします」
重い声でバンドは告げる。
「当家の重鎮、とくに相続人の方々が、カヤ嬢の有罪を確定させようと様々に暗躍されておりますことは事実です。ですが、この私はその一派に属するものではございません。失礼ながら、そうした方々は宮廷軍事評議会に重きを置き、殿下を軽視されています。私はそうではありません」
赤薔薇家の家宰が主張したい事柄はわかる。調査を妨害したためにカヤが有罪になった場合、サキの怒りをかうことを危惧しているのだろう。
「これは評議員にも保証したことですが、調査を尽くした結果有罪が確定するとしたら、それは受け入れるつもりです」
サキが請け負うと、家宰は満足げに頷き、
「こちらの意を汲んでいただき、恐縮にございます」
美しい角度で一礼した。
「では調査の手始めに、カヤ嬢が使用されていた隠し通路をご案内します」
バンドはサキを正門の外側へ誘う。人手が足りないので、御者にも着いて来てもらった。
正門の左側から城の側面に回り込む。少し歩いた後、城の側面に突き出た尖塔の真下で立ち止まったバンドは、おもむろにいばらを掴んで持ち上げた。その下に、正方形の空洞が開く。階段が地下まで延びていた。
いばらに見えていたのは精緻な彫刻だった。周囲の本物と見事に調和している。
「こちらを進みますと、最上階のすぐ下まで直通となっております」
バンドを先頭にして地下へ降りる。最後尾でサキが空を見上げると、塔から伸びる角上の構造物の穴からこちらを眺めている誰かが目に入った。
隠し通路という割には、いばら荘内の他の通路と大差はない造りだった。幅・高さ共に余裕がある。主であるグリム自身も使用していたのなら、彼の巨体に配慮した設計かもしれない。
通路はゆるい勾配で螺旋状に上昇している。ものの五分ほどで終点にたどりついた。
一見、何もない突き当たりで壁のレンガを動かすと、壁に切れ目が生じる。切れ目周辺を押すと外側に開いた。
そこは最上階へと通じる、螺旋階段の真下にある空間だった。
「これくらいの隠し方なら」サキは壁をさすりながら言った。「使用人や来客が、ふとしたはずみに気づいた可能性も無ではありませんね」
「さようでございます。密かに把握していた者がどれだけいたかは判然としません」
「さて、本番だ。証拠集めだ」
サキは肩を鳴らす。
「本日中に、カヤが無罪に違いないという証しを探し出す。がんばるぞっ」
案の上だった。
監獄を訪ね、カヤに手紙を見せたところ、書いた記憶もお話したいこととやらの心辺りもないという。
「というか私、サキに送るならこんな丁寧な書き方しないって」
言われてみればそうだ。手紙は丁寧な文章を使う場合もあるだろうと気にも留めなかったーーーサキは頭を抱える。
コレートから周辺の地図を見せてもらったが、崖上に聳えるこの監獄は、周囲の街道や山道から孤立した位置にある。唯一の出入り口が、向かい岸に通じるあの石段なのだ。
その石段が水没した結果、サキたちは閉じこめられてしまった。
普段なら、とくに焦る必要はない事態だ。レンカ城には備蓄もあるだろうし、豪雨が収まるまで、のんびり厄介になれば問題ない。
しかし今のサキには、一週間の期限が迫っている。本日で二日目。のんびりしていたら証拠を探す時間がなくなってしまうのだ。
「申し訳ありませんが、溜め池の水門を閉ざすことはできかねます」
コレートが頭を下げる。
「溜め池が溢れると、近隣住民の死活問題となりますので。領主としては承認できないのです」
「気にしていただく必要はありません。引っかかった私たちが悪いのです」
ニコラが請け負った。
「ところでこの地図、×印で消してある吊り橋らしき構造物が描いてありますが、こちらも使用できないのですね?」
「その吊り橋は、先だっての戦役の前に壊してしまったんです」
コレートが首を横に振る。
「革命軍がこの城を接収する可能性も危惧されましたので、なるべくこちらへ来られないようにと考えまして」
やはり雨が小降りになるのを待つしかないということか。サキは歯噛みする。渡河に成功して摂政府に帰ったところで、街道のぬかるみが改善していなければデジレにはたどり着けない。二重に足止めを食らっているに等しい状態なのだ。
「それにしても評議会め、こんな姑息な方法で調査を妨害するなんて、見下げ果てた奴らだ」
「評議会の仕業とは限りません」
怒りに震えるサキを姉が窘める。
「彼らのやり口にしては、少々雑なやり方にも思えます」
「その雑なやり方に、僕も姉上もだまされたわけですけど」
「私たちがしてやられたのは事実ですが、完璧な計略とは言い難いのも確かですよ。溜め池が危険水位に近づいているのを見計らって私たちを呼び寄せ、渓谷の増水を利用して閉じこめる。幸運に恵まれたから成功しただけで、間が悪い場合は成り立たない、穴だらけの罠ですよ」
「わたしも評議会の仕業ではないと思います。夫の職場を弁護するつもりはありませんけれど」コレートがこの話題にも加わった。
「赤薔薇家の方で、カヤさんをどうしても有罪にしたいと望んでおられる方がいらっしゃるという話がありますので、その方々の仕業かも」
コレートの発言に、サキは疑念を抱く。その話どこで聞いたのだろう。イオナを通じてか、それとも青杖家当主としての情報網か?
よもや、偽手紙はこの人の仕業か?
自分で頬を叩く。疑心暗鬼は、やめよう。材料の足りないことを思い悩んでも仕方ない。
急に自分を平手打した少年を、カヤたちは不思議そうに眺めていた。
「申し訳ありませんが、向こう岸に戻れるようになるまで、こちらで泊めていただくことは可能でしょうか」
向こう岸に残されていた馬車の御者には、引き返して摂政府と黒繭家に状況を伝えてほしいと大声で伝えてあるので、数日戻らなくても、大事には発展しないだろう。
「それはもう、お好きなだけご滞在下さい。二十日でも三十日でも」
コレートが縁起でもないことを言う。
「どうせならサキもニコラも、私の部屋に泊まらない?」
ニコラが目を輝かせる。
「退屈してたんだ。トランプでもしようよ」
「子供じゃないんだから」
「子供でしょーが、サキはまだ」
ニコラは指先でサキの額をつつく。
「大人の仕事を頑張ってこなしてくれてるんだから、なにもできないときくらい、戻りなよ。子供にさ」
「いいですわね、夜、おしゃべりしながらのトランプ!わたしも加わってよろしいかしら」
コレートまでもが乗り気になっている。
「私も構いませんよ」
姉がにこりともせずに宣言した。
「ただ、私が加わると、常に一位が固定されてしまうことはご了承下さい」
「はー?ぐちゃぐちゃに負かしてやるよっ」
カヤが手のひらをぽきぽきと鳴らす。
機嫌は悪くないようだ。それでもいつもの少女ではない。
本日も、カヤは絵筆を握っていなかった。
翌日も雨は降り続いていた。監獄を出て川の水位が落ちているかを確かめ、失望して戻ってくる。カヤたちとトランプで時間を潰し、しばらくして川を見に行く。この繰り返し。
まだ何の調査もできていないのに、疲労でずっしりと頭が重い。忙しい時間より、無為に終わった時間の方がこたえるものなんだな、とサキは発見した。
向こう岸まで、梯子のようなものを立てかけてはどうだろう。
しかしそんな梯子をどうやって調達するのか。摂政府から持って来させるのか。そもそもこの天候の元でそんな長大な代物を担いでここまでやって来れるものだろうか。
色々思い悩みながら何一つ実行に移せず、期待もせずに川の様子を見に行ったとき、奇跡が起こった。
水位が下がっている。
サキは思わず、声を上げそうになった。落ち着いて、それほど喜ぶ状況でもないと考え直す。
水位は下がっているが、石段より低くはない。水流も激しいままだ。
ただ水流の中に石段の影が見える。水中の石段を歩くようにして、向こう岸まで渡れないか?
(これぐらいの水流で、足をとられたりするだろうか)
滑って転んだら、そのまま下流まで立ち上がれず流されていくかもしれない。途中に滝壺の類があったらおしまいだ。
しかしこのままぐずぐずしていたら、水位が元に戻ってしまうかもしれないのだ。実際、また水かさが増しつつあるような気もする。そもそも初日にデジレヘ向かうのを躊躇したから今困っているのかもしれないわけで・・・
「やってやる!」
叫んで、サキは右足を踏み出した。
水流ごと石段を踏みしめる。やはり流れが激しい!つま先がぶれて、重心が崩れそうになる前に、反対の足を降ろす。反対側にふれる重心。さらに右足、左足、右、左、右、左、右!
繰り返し、九割を渡り終えた。もう少し、もう少し・・・
最後の石段を踏む直前、サキは躊躇した。
水中に揺れるこの石段だけ、色が緑がかっている。ひょっとして苔か?元々こういう色だったか?苔や水草だったら、これまでのように踏みしめたら足を取られてしまうかもしれない。
どうする。
いや、こんな石段ごときを恐れてなるものか。僕は最前線から生還できた強運の持ち主だ。僕は運命の女神に愛されている!たぶん!これは苔じゃあない。石段と同じだ!
右足を踏み出す。
苔だった。
仰向けに、水面へ吸い込まれる。
「あああああああああああば」
流されていく、というより、水面を転がされる、という表現が正しいような感覚。おそらく、立ち上がることは不可能だ。
よく考えたら関係なかった。戦場で弾に当たらないことと、川で足を滑らせないことは。
運命の女神にも、愛されてなんかいなかった。
「ぼっちゃま!」
そのとき伸びてきた腕が、サキの手首をつかみ、そのまま岸へと引っ張り上げた。
「危のうございましたな」
フランケンが息を切らしている。背後には馬車。王都から迎えに来てくれたようだ。
「フランケン、すばらしいなおまえは。すばらしい!」
サキは称賛を繰り返した。
この時間でなかったら、溺死していたかもしれない。
深呼吸をする。運命の女神には、悪友程度に尊重されているようだ。
対岸に声をかけ、出てきた姉に自分は一足先に戻る旨と、無理をしないで水位が充分に下がってから戻るよう伝えてから、サキは馬車を駆り摂政府へ戻った。
夜になっていたから、今からデジレヘ向かうつもりはない。ただ進捗を確認するべき事柄があった。雨と川で濡れた体を乾かしたあと、執務室でサキは訊いた。
「フランケン、父上から知り合いの新聞記者を紹介してもらう件、進んでいるのだろうか」
「はい、頓挫してございます」
フランケンはあっさりと告げた。
「何で?評議会の圧力か」
「いいえ。旦那様が紹介はできかねる、と」
フランケンは冷然と伝えた。
「それらの方々は、旦那様にとって、長年劇場の芝居を評価してくれた他に替えがたい友人であり、今回のような剣呑な話に巻き込むことはできない、とのお話にございます」
「また芝居かよっ」
つくづく尊敬できない父親だ。また母上に縛られたらいい!
そこまで怒って、サキは頭を冷やす。激情に駆られる時間はない。
「ちゃんとしてない記者の方は?ウッドジュニア、ラインシール、ジョン・ドゥと連絡はついたのか?」
「そちらはいずれも応じて下さいました」
フランケンは目じりを緩めた。
「ただし、全員、調査には同行できない、と申し出ております。その、色々なところから恨みをかっている方々のようで、権力者の支配地に行きたくないようです」
「ああ・・それは仕方ない」
元々、そういう連中であると承知で雇おうとしているのだ。
ただ、調査に同行できないとなると、証拠調べの助けとなる「眼」としては使えない。手駒が、用意する前から消えて行く。
明日の調査で頼りにできそうなのは、カヤの父上に頼んだ画工たちだけだ。
「晴れてくれよ。明日こそ」
窓に暴れる雨粒を眺め、サキは祈った。
翌朝も雨は降り続いていた。しかし豪雨という程ではない。これなら、デジレ街道の泥もいくらかましになり、馬車を通せるかもしれない。
それでも、サキの心は晴れない。
頼みの綱だった画工たちが――――約束の時間を過ぎても摂政府に到着しないのだ。現在、午前九時半。九時が集合時間だった。
所在無く執務室をうろつくサキに、フランケンが悲報をもたらした。
「画家たちは、来れないそうにございます」
「どうして――」
「公序良俗委員会に告発が入ったそうにございます。準男爵様の工房で、男女のみだらな行為を描いた作品を密かに販売しているという密告がもたらされたとの話でして、現在、ご当主を含む工房所属の画家全員が聴取されているそうです」
「そうきたかあ・・・」
サキは危うく感心するところだった。王国において、主に男性が愉しむための卑猥な絵画を作り売りさばく行為は大した重罪と見なされているわけではない。売り上げの二倍程度の罰金を科される程度で済む話だった。それでも罪は罪、被告発者は、担当部署である公序良俗委員会の取調べを受け、家宅捜索と事情聴取を受け入れなければならない。
カヤの父親である準男爵は、王国内で名の知れ渡った絵師。工房には大勢の弟子や助手を抱えている。だからこそ、その何人かを借り受けたいと思っていたのだが――――取調べが終わるまで、連れて行くのは難しいだろう。
これも宮廷軍事評議会の差し金か。
サキは歯噛みする。正直言って、相手を信頼しすぎていた。こちらの調査を妨害しない、とはっきり約束させるべきだったろうか。
さて、どうしたらいい?
困ったとき、いつも相談していたニコラは戻らない。雨が止まない以上、増水が収まる見込みもない。
サキは額を拳でつつく。
自分で方針を決め、自分で探し出すしかないのだ。
サキの乗り込んだ馬車は、先日、デジレ行きを断念したのと同じ地点で停止した。
雨は小雨になりつつあるが、数日間水分を吸い込み続けたせいで、沼の様相を呈している状態は前来たときと変わらない。
しかし、本日ですでに四日目。サキに引き返すつもりはない。
「この泥、車を外して、馬だけなら進めないだろうか」
御者に意見を求めたが、返答は芳しいものではなかった。
「厳しいと思いますなあ。馬っちゅうもんはこんな泥の上を走るために鍛えられておりませんから。ここら辺はまだ進めそうですが、途中でもっと酷くなるかもしれませんし」
だったら徒歩で・・・というのは訊かなくてもわかる。論外だ。周囲に誰もいない田舎道の途中で、泥溜まりにはまって動けなくなったら目も当てられない。
立ちすくむサキに、御者がおそるおそるといった体で声をかけてきた。
「あのう、デジレに行かなきゃあ殺されるんですよね、カヤさんが」
黒繭家は来客の送迎や家人の外出用に十数人の御者を雇っている。この男は比較的古株で、カヤとも顔見知りだった。
「もう知ってるのかその話」
「新聞で読んだんでさ。サキ様がカヤさんを助けるために、証拠を探しておられるって」
評議会で取り決めをしてからすでに四日が経過している。大雨が降ったとはいえ、新聞戦車たちはきちんと仕事をしてくれたらしい。
「少々しんどいかもしれませんが、山越えをすればデジレに着けるかもしれません」
御者は田舎道と舗装路の境目となっている丘を指さした。
「あの丘を進むと、街道沿いの岩山に登れます。大した高さの山じゃありませんし、あっしはこの辺りの育ちなんでどの山道を通ればいいかも頭に入ってますから、迷う心配もございません」
「山か」
サキに本格的な登山経験はない。せいぜい野外散策でちょっとした丘陵に遊ぶ程度だ。
「山を歩いて、どれくらいでデジレに着けると思う」
「五、六時間ってところですかねえ」
いばら荘に着いた頃には夕方になってしまうが、泊めてもらえばいいだろう。今、引き返しても、明日状況が改善しているとは限らない。
「よし、行こう。道案内を頼む」
……迷った。
遭難、と表現するほど深刻な事態ではない。上ってきた道をある程度把握しているので、引き返せば危険はないはずだ。
しかし丘を登ってからすでに九時間、夜隠に包まれつつあるのに、まだデジレに到着しない。どうやら方向を間違えて、デジレ方向とは異なる山脈へ入ってしまったらしい。
後日、登山の要点を記した書物を読んだところ、低山であっても油断は禁物と強調されていた。里山は林業や生活物資を獲得する目的で拓かれ続けるため、登山道が錯綜してかえって迷いやすいとのこと。慣れ親しんだ山のつもりでも、年月を経ると新しい山道が通り、過去の土地勘が通用しなくなってしまうのだ。
「申し訳ございやせん!」
這い蹲って謝罪する御者をサキは宥める。
「いや、行くと判断したのは僕だから」
正直なところ腹の底は煮えくり返っていたが、今この男を攻めたところで何の得もしない。へそを曲げられたら帰還も危うくなるとの理由から、サキは叱責を我慢した。
それに、決断したサキに責任があるのも間違いない話だ。
サキは考える。なるべく、全部は無理かもしれないけれど、上手く行かないことを他人のせいにはしたくない。
周囲に責任を押しつけたら、その時点で僕の人生は僕のものでなくなってしまう。
僕は、僕の人生の支配者でいたいのだ。
結局その夜は野宿をして翌朝往路を戻ることに決めた。
外套の上に乾いた落ち葉を乗せ、ランタンで暖めて毛布代わりにする。
「あっしのガキがですね」
木の葉の下、御者が前触れもなく語り始めた。
「カヤさんに絵をかいてもらったんです。死んだおっかあの絵でさ。あの人、すごいですね。一度見た物も人も、全部頭に入ってるって」
「ああ、天才だよな」
「描いて下さったんですよ。金も取らずにね」
御者の言葉は、ほんの僅かだけ嗚咽が混ざっているように聞こえた。
翌朝、サキたちは往路を戻り、出発地点の丘に帰り着いた。
疲労が激しい。一旦、摂政府に戻る。その日は泥のように眠った。
翌日、空は晴れ渡っていた。
ニコラは前日も戻っていなかった。準男爵家への事情聴取も続いており、画工を借りる目処は立っていない。
それでもサキは、デジレヘと急いだ。馬車を駆るのは件の御者。丘の手前で、サキは危うく叫ぶところだった。
泥道が乾いている。普段通りではないものの、この湿り具合なら馬車で踏破できるか、途中の宿場町で馬や車輪を交換すればなんとかなりそうだ。
「いけそうだな、これなら」
「いけそうですなあ」
御者と顔を見合わせて喜んだが、
「・・・・・」
どっと徒労感が押し寄せた。
「意味がなかった。この五日間。何もしないのと一緒だった・・」
「ま、まあ済んだことをくよくよしてもしょうがありやせん。これから本番です。気合いを入れましょうや」
御者が慰める。
あと二日。手に入れた証拠を吟味して、評議会のためにまとめる作業を計算に入れると、調査に集中できるのは今日くらいしか残されていない。
なんとしてでもデジレに到着しなければ。 泥道を走る馬車の中で、時間が止まるように、可能な限り太陽が土を乾かしてくれるよう、サキは祈る。
いばら荘が眼前に現れたとき、サキは叫んでいた。
「いやったぞううううう」
後は証拠を見つけだすだけだ。これでカヤは助かる!
正門で来意を告げる。前回同様、バンドが応対してくれた。
「お疑いかと思われますので、私の立ち位置を説明いたします」
重い声でバンドは告げる。
「当家の重鎮、とくに相続人の方々が、カヤ嬢の有罪を確定させようと様々に暗躍されておりますことは事実です。ですが、この私はその一派に属するものではございません。失礼ながら、そうした方々は宮廷軍事評議会に重きを置き、殿下を軽視されています。私はそうではありません」
赤薔薇家の家宰が主張したい事柄はわかる。調査を妨害したためにカヤが有罪になった場合、サキの怒りをかうことを危惧しているのだろう。
「これは評議員にも保証したことですが、調査を尽くした結果有罪が確定するとしたら、それは受け入れるつもりです」
サキが請け負うと、家宰は満足げに頷き、
「こちらの意を汲んでいただき、恐縮にございます」
美しい角度で一礼した。
「では調査の手始めに、カヤ嬢が使用されていた隠し通路をご案内します」
バンドはサキを正門の外側へ誘う。人手が足りないので、御者にも着いて来てもらった。
正門の左側から城の側面に回り込む。少し歩いた後、城の側面に突き出た尖塔の真下で立ち止まったバンドは、おもむろにいばらを掴んで持ち上げた。その下に、正方形の空洞が開く。階段が地下まで延びていた。
いばらに見えていたのは精緻な彫刻だった。周囲の本物と見事に調和している。
「こちらを進みますと、最上階のすぐ下まで直通となっております」
バンドを先頭にして地下へ降りる。最後尾でサキが空を見上げると、塔から伸びる角上の構造物の穴からこちらを眺めている誰かが目に入った。
隠し通路という割には、いばら荘内の他の通路と大差はない造りだった。幅・高さ共に余裕がある。主であるグリム自身も使用していたのなら、彼の巨体に配慮した設計かもしれない。
通路はゆるい勾配で螺旋状に上昇している。ものの五分ほどで終点にたどりついた。
一見、何もない突き当たりで壁のレンガを動かすと、壁に切れ目が生じる。切れ目周辺を押すと外側に開いた。
そこは最上階へと通じる、螺旋階段の真下にある空間だった。
「これくらいの隠し方なら」サキは壁をさすりながら言った。「使用人や来客が、ふとしたはずみに気づいた可能性も無ではありませんね」
「さようでございます。密かに把握していた者がどれだけいたかは判然としません」
「さて、本番だ。証拠集めだ」
サキは肩を鳴らす。
「本日中に、カヤが無罪に違いないという証しを探し出す。がんばるぞっ」