トランプと信頼
文字数 4,813文字
「アーカベルグ週報」 十二月 四日号六面
若き摂政 動かぬ証拠を突きつける
若干十四歳の摂政殿下が、その有能さを早くも証明された。
宮廷軍事評議会議長が何者かに殺害された事件に関して、かねてより評議会が有罪を主張していた女流画家の無罪を決定づける論証を提出されたのだ。
以下にそのまとめを記す。一読された読者諸兄は、若年とは信じがたい知性の煌めきに感嘆をこぼさずにはいられないだろう。
文責:ピーター・ウッドジュニア
「蠅叩き新聞」 十二月 四日号 三面
無能揃いの宮廷軍事評議会、醜態を晒す
他に成り手がいないというだけで、国政の中枢に居座り、国家運営の真似事を楽しんでいた宮廷軍事評議会評議員たちの愚物ぶりが明らかとなった。
体積も、品質もお粗末な脳味噌でバカの一つ覚えのように繰り返し主張していた女流画家に対する有罪の論証が、若干十四歳の少年によってあっけなく瓦解したのである。
以下に、そのあらましを記す。読了の後、読者は評議員たちのお粗末なおつむに唾を吐きかけたいという衝動に襲われることだろう。しかし堪えていただきたい。彼らの頭上に人間様の唾液など高級品すぎる。野良犬の吐瀉物でもお釣りが要るくらいだ。
執筆者:ジョン・ドゥ
罪と罰、価値判断の相対性に関して
「月刊政治理論」 十二月号 六十頁
前掲文は、宮廷軍事評議会にて有罪判決が下る寸前であった女流画家の処遇に対して、摂政殿下が提出された無罪の論証である。
そもそも「罪」とは何であるか。「罪」とはアダムとイヴの原罪から始まるが、原罪を罪の大元として、プロティノスが主張するところの「一者」に位置づけるとすれば、それ以降の罪は流出後の世界そのものと解釈できる。ならば原罪を赦したもうた神の代わりに現世の罪を赦す役割を担うのは、国家元首たる摂政殿下ご自身ということになる。すなわち殿下の論証は神の恩寵そのものであり、その判断は……(以下略)
論者:ジャン・バティスト・ベルナール・フォン・ラインシール
―――――やることがない。
執務室のソファーに横たわり、サキは退屈に耐えていた。
評議会より二日経った摂政府。五日後には次の評議会が開かれる予定だが、その間、なにもすることがない。
前回の評議会では、サキから無罪の論拠を提出する必要があったため、レンカにデジレと毎日忙しかった。(半分は妨害とサキの対応力の欠如が原因だが)
しかし今回は、カザルスたちが提出する有罪の証拠を待ちかまえる立場。内容がわからないうちは、対策のとりようもない。
考えてみたら、こんなに暇な時間が続くのは初めてだ。
玉座に誘われるまでの毎日は、それなりに忙しいものだった。七時に起床。昼食や間食を挟んで、九時から五時まで家庭教師の授業。立会人の役目がある日は、途中で闘技場にも顔を出す。決闘を行う時間帯は当事者の都合に合わせるため、日によっては深夜に赴く場合もあった。
今は何もしていない。授業も立ち会いも摂政の身に許されないわけではないのだが、不測の事態が生じた場合に即座に対応するための用心だ。評議会が何を仕掛けてくるか、予想もつかないのだから。
結果、生まれて初めてと言っても過言ではないほどの無為な時間を、サキは過ごしているのだった。
摂政府の図書室は、法律書や地図と言った実用書の類こそ充実しているが、暇をつぶすための娯楽本は乏しい。書店に注文するほど前向きに本を読む心境でもなかったサキは、結果、ソファーでだらだらと時間を潰しているのだった。
「暇ですか。サキ」
姉が執務室に入ってきた。手に小振りな箱を抱えている。
「暇というか、暇に困っているというか」
サキはソファーから起きあがる。
「居心地が悪いです。何かしなきゃって思うのに、何もできないから行き詰まるというか」
「名実共に国家の長になったら、そういう時間ばかりになりますよ」
ニコラは言う。「今のうちに慣れておきなさい」
たしかに最高権力者たるもの、自身で動くより、誰かに命じて結果を待つ場面の方がはるかに多いだろう。一種の予行練習と考えるべきかもしれない。
「トランプでもしましょうか」
姉は箱の中から二組のキングを取り出した。トランプでも、というより、それがやりたくて持ってきたのだろう。
「・・・・いいですけど」
サキに異存はない。自分で言い出したら「こんなときに遊んでいる場合か」と良心が咎めるけれども、誘われたのなら仕方がない。
「何で勝負しましょう。バッセ以外なら何でもどうぞ」
「バッセがいいです」
「・・・・・」
勝率が悪いので気乗りしない遊び方だった。
「姉上、そんなにトランプ好きでしたっけ」
この前、レンカ城でカヤやコレートと遊んだばかりだ。家族とトランプなど、年に一度機会があれば多い方だろう。
「もしかして」
机にカードを並べる姉を見下ろしながら、
「レンカ城で、思ったより勝てなかったのが悔しかったとか」
姉の動きが止まる。
「全勝確実とか言ってましたもんね。でも一位だったから、気にしなくてもいいじゃないですか」
「はじめますよ、サキ」
「案外かわいいところがあるんですね、姉上も」
「サキ」
姉が目を眇める。
「うるさい」
「はーい」
「あいかわらず、引きが強いですねサキ」
姉の賞賛に、サキはしかめ面で応じた。
「引きだけは強いんですよ」
昔からそうだ。この手のゲームで遊ぶ折、サキは配札にほとんど困らない。にもかかわらず勝率はそれほどでもないのは(レンカ城でも最下位だった)その後の振る舞いで最初の有利を台無しにしてしまうからだ。
あるいは、人生も同じかもしれない。
十四年しか生きていない分際で決めつけるのは早計かもしれないが、様々な局面でサキが獲得したカードは決して悪い条件のものではなかったはずだ。それなのに物事はサキの思い通りに運ばない。慢心だろうか。不注意のせいだろうか。
「サキ」
両手に持ったトランプの上から、ニコラの瞳がサキを見据えている。
「サキ、わたしが怖いですか」
心理戦だろうか。
「姉上は、ずっと怖いですよ」
「そういう意味ではなく」
ほんの少し、肩が揺れた。
「わたしは『少女帝王学教室』に参加していたのですよ」
勝負に集中していたため、姉の言葉を理解するのに時間が必要だった。
今思い返すと、小国とはいえ君主の地位を得るための選抜会兼教室に姉が通っていたというのは、確かに意外な話だ。
匿名で学会誌に論文を送りつけ、入会の誘いを受けても賞賛されても取り合わない姉は、支配欲どころか巧妙心も持ち合わせていない性格だと思いこんでいた。ところが、持っていたのだ。一国の王になりたいという願望を。
「僕、無神経でしたか」
サキは姉の視線から逸らすためにトランプを見る。姉上は君主の地位を得るために努力していた。でも届かなかった。同じ宝物を、自分は何の苦労もなく手に入れた。酷い不公平だ。
「私を警戒しないのか、という話です」
ニコラは手札からクイーンをサキの前に置いた。
「これまで私は、いろいろな局面であなたに助言めいた言葉を押しつけて来ました。思いませんか。そこに悪意が含まれてはいないかと。いつかあなたを破滅に導きはしないかと」
今言い出す話ですか?サキは抗議しかけたが、今こそ必要な話なのだと思い返す。
たしかにサキは、様々な場面でニコラの助言に頼ってきた。摂政の地位に就くまでも、それからも。
親族の助言というやつには反発しがちなものだが、サキと姉の場合、異性、三歳差という隔たりが、かえって気安さに繋がっていたのかもしれない。実際、姉の忠告は的を得たものだった。従わなかった場合は痛い目に遭った。
だが歴史書をひもとけば、国王や皇帝が特定の身内だけを盲目的に信頼したあげく、利用され尽くして破滅するという事例は枚挙にいとまがない。
「サキは私を信頼してくれていますね」
気恥ずかしい言葉を、姉は真顔で口にする。
「教えてくれますか。その理由を」
割合早く回答は浮かんだ。
しかし姉を怒らせるかもしれないと考え、別の答えを口にする。
「それはもちろん、大切な家族だからですよ」
「・・・・そうですか」
姉は暗い顔立ちになって黙り込んでしまった。お気に召さなかったらしい。
「うそです。適当を言いました」
サキは最初に浮かんだ回答に切り替える。
「仮に姉上が、僕をだまして権力を得ようともくろんでいるとしますよね。たとえば僕の信頼を得た後で、死んだら後継者を姉上にするよう遺言を書かせるとか」
「はい」
「だとしても、今の段階で僕を不利益に誘導したり、殺したりする選択を採らないはずです。まだ僕は国王に即位してさえいないし、国内を掌握していない。つまり現段階では僕を裏切る旨味はない」
木陰から日差しへ出るときのように、ニコラはまぶしそうな眼つきに変わった。
「だから今の時点で、姉上の言葉に悪意はないはずです。カヤを助けるために知恵を貸してくれるはずだ。権力を握ってからの話は、握ってから考えたらいいんです。そういう留保付きで、姉上を信頼しています」
「なるほど」
眼を細め、ニコラは微笑んだ。
「すばらしいと思います。貴族の子弟にふさわしい、信頼の示し方です」
よくわからない誉め言葉だった。
勝負はサキの全敗で終わった。
冬宮。獅子の扉の奥で、マリオンが報告書に眼を通している。時折漏れる唸り声が羽根飾りを揺らすので、カザルスは笑いをこらえるのに必死だった。隣には「帰りたい」と明記されている顔面のギディングス。
「こんな裏があったとは」
マリオンは興奮のあまり報告書を札束のようにばしゃばしゃとめくり続ける。
「このような秘中の秘、よく嗅ぎつけたものだ・・・」
「ギディングス中佐が調べてくれました。まずまずの手際です」
カザルスは配下を誉める。今誉めてやらなければ機会がない。
「一週間足らずでか?」
驚きを反映してか、マリオンの声がしわがれる。現在、評議会の二日前だ。
「いえ、一ヶ月以上前からとりかかってました」
髪をいじりながらギディングスが言う。
「この二・三日で裏づけをとっただけです」
「一ヶ月以上前だと?」
報告書をめくる手が止まった。
「開戦前からか。どうしてそんなに早くから・・・・」
「黒繭家から摂政を連れてくるって話は教えてもらってたので」
青年将校は、覇気の感じられない瞳を瞬いた。
「腐っても君主に据えるお方ですし、変なのが周りにいたら困ると思って、調べたんですよ、殿下の知り合いをね。そしたら意外な事実が転がってきたんです」
マリオンの見開かれた両眼の奥で、ギディングスの評価が急上昇していることが見て取れた。
「大したものだ。しかしこれ程の重大ごと、なぜすぐに教えなかった」
「すぐに戦争が始まったじゃないですか」
ギディングスが眼をこすりながら言う。
「本来の任務が忙しくなったもので、面倒くさくなって報告しなかったんです」
「・・・・・・」
評価は急下降したようだ。
「こいつの怠慢ぶりはともかくとしてです」
カザルスは書類の一枚をマリオンの手元から抜き取った。
「この情報を元にして有罪の論拠を組み上げるつもりなのですが、そうすると、赤薔薇家の秘事が明るみに出てしまいます。それでよろしいですか?」
「構わん。圧力をかけてくる連中が知らないはずはない。黙っていて欲しいようなら、予め要求してくるはずだ」
マリオンは書類をまとめて机に置いた。
「ともあれ、これであの娘を有罪にしたがっている別の理由も判明したわけだ」
若き摂政 動かぬ証拠を突きつける
若干十四歳の摂政殿下が、その有能さを早くも証明された。
宮廷軍事評議会議長が何者かに殺害された事件に関して、かねてより評議会が有罪を主張していた女流画家の無罪を決定づける論証を提出されたのだ。
以下にそのまとめを記す。一読された読者諸兄は、若年とは信じがたい知性の煌めきに感嘆をこぼさずにはいられないだろう。
文責:ピーター・ウッドジュニア
「蠅叩き新聞」 十二月 四日号 三面
無能揃いの宮廷軍事評議会、醜態を晒す
他に成り手がいないというだけで、国政の中枢に居座り、国家運営の真似事を楽しんでいた宮廷軍事評議会評議員たちの愚物ぶりが明らかとなった。
体積も、品質もお粗末な脳味噌でバカの一つ覚えのように繰り返し主張していた女流画家に対する有罪の論証が、若干十四歳の少年によってあっけなく瓦解したのである。
以下に、そのあらましを記す。読了の後、読者は評議員たちのお粗末なおつむに唾を吐きかけたいという衝動に襲われることだろう。しかし堪えていただきたい。彼らの頭上に人間様の唾液など高級品すぎる。野良犬の吐瀉物でもお釣りが要るくらいだ。
執筆者:ジョン・ドゥ
罪と罰、価値判断の相対性に関して
「月刊政治理論」 十二月号 六十頁
前掲文は、宮廷軍事評議会にて有罪判決が下る寸前であった女流画家の処遇に対して、摂政殿下が提出された無罪の論証である。
そもそも「罪」とは何であるか。「罪」とはアダムとイヴの原罪から始まるが、原罪を罪の大元として、プロティノスが主張するところの「一者」に位置づけるとすれば、それ以降の罪は流出後の世界そのものと解釈できる。ならば原罪を赦したもうた神の代わりに現世の罪を赦す役割を担うのは、国家元首たる摂政殿下ご自身ということになる。すなわち殿下の論証は神の恩寵そのものであり、その判断は……(以下略)
論者:ジャン・バティスト・ベルナール・フォン・ラインシール
―――――やることがない。
執務室のソファーに横たわり、サキは退屈に耐えていた。
評議会より二日経った摂政府。五日後には次の評議会が開かれる予定だが、その間、なにもすることがない。
前回の評議会では、サキから無罪の論拠を提出する必要があったため、レンカにデジレと毎日忙しかった。(半分は妨害とサキの対応力の欠如が原因だが)
しかし今回は、カザルスたちが提出する有罪の証拠を待ちかまえる立場。内容がわからないうちは、対策のとりようもない。
考えてみたら、こんなに暇な時間が続くのは初めてだ。
玉座に誘われるまでの毎日は、それなりに忙しいものだった。七時に起床。昼食や間食を挟んで、九時から五時まで家庭教師の授業。立会人の役目がある日は、途中で闘技場にも顔を出す。決闘を行う時間帯は当事者の都合に合わせるため、日によっては深夜に赴く場合もあった。
今は何もしていない。授業も立ち会いも摂政の身に許されないわけではないのだが、不測の事態が生じた場合に即座に対応するための用心だ。評議会が何を仕掛けてくるか、予想もつかないのだから。
結果、生まれて初めてと言っても過言ではないほどの無為な時間を、サキは過ごしているのだった。
摂政府の図書室は、法律書や地図と言った実用書の類こそ充実しているが、暇をつぶすための娯楽本は乏しい。書店に注文するほど前向きに本を読む心境でもなかったサキは、結果、ソファーでだらだらと時間を潰しているのだった。
「暇ですか。サキ」
姉が執務室に入ってきた。手に小振りな箱を抱えている。
「暇というか、暇に困っているというか」
サキはソファーから起きあがる。
「居心地が悪いです。何かしなきゃって思うのに、何もできないから行き詰まるというか」
「名実共に国家の長になったら、そういう時間ばかりになりますよ」
ニコラは言う。「今のうちに慣れておきなさい」
たしかに最高権力者たるもの、自身で動くより、誰かに命じて結果を待つ場面の方がはるかに多いだろう。一種の予行練習と考えるべきかもしれない。
「トランプでもしましょうか」
姉は箱の中から二組のキングを取り出した。トランプでも、というより、それがやりたくて持ってきたのだろう。
「・・・・いいですけど」
サキに異存はない。自分で言い出したら「こんなときに遊んでいる場合か」と良心が咎めるけれども、誘われたのなら仕方がない。
「何で勝負しましょう。バッセ以外なら何でもどうぞ」
「バッセがいいです」
「・・・・・」
勝率が悪いので気乗りしない遊び方だった。
「姉上、そんなにトランプ好きでしたっけ」
この前、レンカ城でカヤやコレートと遊んだばかりだ。家族とトランプなど、年に一度機会があれば多い方だろう。
「もしかして」
机にカードを並べる姉を見下ろしながら、
「レンカ城で、思ったより勝てなかったのが悔しかったとか」
姉の動きが止まる。
「全勝確実とか言ってましたもんね。でも一位だったから、気にしなくてもいいじゃないですか」
「はじめますよ、サキ」
「案外かわいいところがあるんですね、姉上も」
「サキ」
姉が目を眇める。
「うるさい」
「はーい」
「あいかわらず、引きが強いですねサキ」
姉の賞賛に、サキはしかめ面で応じた。
「引きだけは強いんですよ」
昔からそうだ。この手のゲームで遊ぶ折、サキは配札にほとんど困らない。にもかかわらず勝率はそれほどでもないのは(レンカ城でも最下位だった)その後の振る舞いで最初の有利を台無しにしてしまうからだ。
あるいは、人生も同じかもしれない。
十四年しか生きていない分際で決めつけるのは早計かもしれないが、様々な局面でサキが獲得したカードは決して悪い条件のものではなかったはずだ。それなのに物事はサキの思い通りに運ばない。慢心だろうか。不注意のせいだろうか。
「サキ」
両手に持ったトランプの上から、ニコラの瞳がサキを見据えている。
「サキ、わたしが怖いですか」
心理戦だろうか。
「姉上は、ずっと怖いですよ」
「そういう意味ではなく」
ほんの少し、肩が揺れた。
「わたしは『少女帝王学教室』に参加していたのですよ」
勝負に集中していたため、姉の言葉を理解するのに時間が必要だった。
今思い返すと、小国とはいえ君主の地位を得るための選抜会兼教室に姉が通っていたというのは、確かに意外な話だ。
匿名で学会誌に論文を送りつけ、入会の誘いを受けても賞賛されても取り合わない姉は、支配欲どころか巧妙心も持ち合わせていない性格だと思いこんでいた。ところが、持っていたのだ。一国の王になりたいという願望を。
「僕、無神経でしたか」
サキは姉の視線から逸らすためにトランプを見る。姉上は君主の地位を得るために努力していた。でも届かなかった。同じ宝物を、自分は何の苦労もなく手に入れた。酷い不公平だ。
「私を警戒しないのか、という話です」
ニコラは手札からクイーンをサキの前に置いた。
「これまで私は、いろいろな局面であなたに助言めいた言葉を押しつけて来ました。思いませんか。そこに悪意が含まれてはいないかと。いつかあなたを破滅に導きはしないかと」
今言い出す話ですか?サキは抗議しかけたが、今こそ必要な話なのだと思い返す。
たしかにサキは、様々な場面でニコラの助言に頼ってきた。摂政の地位に就くまでも、それからも。
親族の助言というやつには反発しがちなものだが、サキと姉の場合、異性、三歳差という隔たりが、かえって気安さに繋がっていたのかもしれない。実際、姉の忠告は的を得たものだった。従わなかった場合は痛い目に遭った。
だが歴史書をひもとけば、国王や皇帝が特定の身内だけを盲目的に信頼したあげく、利用され尽くして破滅するという事例は枚挙にいとまがない。
「サキは私を信頼してくれていますね」
気恥ずかしい言葉を、姉は真顔で口にする。
「教えてくれますか。その理由を」
割合早く回答は浮かんだ。
しかし姉を怒らせるかもしれないと考え、別の答えを口にする。
「それはもちろん、大切な家族だからですよ」
「・・・・そうですか」
姉は暗い顔立ちになって黙り込んでしまった。お気に召さなかったらしい。
「うそです。適当を言いました」
サキは最初に浮かんだ回答に切り替える。
「仮に姉上が、僕をだまして権力を得ようともくろんでいるとしますよね。たとえば僕の信頼を得た後で、死んだら後継者を姉上にするよう遺言を書かせるとか」
「はい」
「だとしても、今の段階で僕を不利益に誘導したり、殺したりする選択を採らないはずです。まだ僕は国王に即位してさえいないし、国内を掌握していない。つまり現段階では僕を裏切る旨味はない」
木陰から日差しへ出るときのように、ニコラはまぶしそうな眼つきに変わった。
「だから今の時点で、姉上の言葉に悪意はないはずです。カヤを助けるために知恵を貸してくれるはずだ。権力を握ってからの話は、握ってから考えたらいいんです。そういう留保付きで、姉上を信頼しています」
「なるほど」
眼を細め、ニコラは微笑んだ。
「すばらしいと思います。貴族の子弟にふさわしい、信頼の示し方です」
よくわからない誉め言葉だった。
勝負はサキの全敗で終わった。
冬宮。獅子の扉の奥で、マリオンが報告書に眼を通している。時折漏れる唸り声が羽根飾りを揺らすので、カザルスは笑いをこらえるのに必死だった。隣には「帰りたい」と明記されている顔面のギディングス。
「こんな裏があったとは」
マリオンは興奮のあまり報告書を札束のようにばしゃばしゃとめくり続ける。
「このような秘中の秘、よく嗅ぎつけたものだ・・・」
「ギディングス中佐が調べてくれました。まずまずの手際です」
カザルスは配下を誉める。今誉めてやらなければ機会がない。
「一週間足らずでか?」
驚きを反映してか、マリオンの声がしわがれる。現在、評議会の二日前だ。
「いえ、一ヶ月以上前からとりかかってました」
髪をいじりながらギディングスが言う。
「この二・三日で裏づけをとっただけです」
「一ヶ月以上前だと?」
報告書をめくる手が止まった。
「開戦前からか。どうしてそんなに早くから・・・・」
「黒繭家から摂政を連れてくるって話は教えてもらってたので」
青年将校は、覇気の感じられない瞳を瞬いた。
「腐っても君主に据えるお方ですし、変なのが周りにいたら困ると思って、調べたんですよ、殿下の知り合いをね。そしたら意外な事実が転がってきたんです」
マリオンの見開かれた両眼の奥で、ギディングスの評価が急上昇していることが見て取れた。
「大したものだ。しかしこれ程の重大ごと、なぜすぐに教えなかった」
「すぐに戦争が始まったじゃないですか」
ギディングスが眼をこすりながら言う。
「本来の任務が忙しくなったもので、面倒くさくなって報告しなかったんです」
「・・・・・・」
評価は急下降したようだ。
「こいつの怠慢ぶりはともかくとしてです」
カザルスは書類の一枚をマリオンの手元から抜き取った。
「この情報を元にして有罪の論拠を組み上げるつもりなのですが、そうすると、赤薔薇家の秘事が明るみに出てしまいます。それでよろしいですか?」
「構わん。圧力をかけてくる連中が知らないはずはない。黙っていて欲しいようなら、予め要求してくるはずだ」
マリオンは書類をまとめて机に置いた。
「ともあれ、これであの娘を有罪にしたがっている別の理由も判明したわけだ」