少女帝王学教室
文字数 3,132文字
監獄を出て、馬車に乗り込んだ後も、しばらく無言だった。車内には姉と二人きり。鉄の沈黙が続いている。
「何があったんですか?少女帝王学教室で」
重圧を払い、サキは訊いた。
「そうですね。それを説明するべきでしょうね」
ニコラは車窓を眺めたまま。遠くで羽ばたいていた鳥の影が、掠れ、大気に紛れた。
「あの集まりの顛末ですが、結局だれ一人として君主には選ばれなかったという話になっています」
「取りやめになったんですよね。先方の事情で」
「正確には、違うのです。女王候補はいました。教室にいた全員が、彼女にかなわない、と認めざるを得ないほどの才媛でした」
「姉上もですか?」サ
キは驚いた。すくなくとも頭脳面において、姉をしのぐ女性に会った覚えがない。
「私が解けなかった数式を、彼女は簡単に片づけて見せました。数学だけではありません。彼女の筆さばきからは、カヤが舌を巻くくらい伸びやかな描線が生み出されました。文学も、政治学の成績も・・・・誰も彼女には及ばなかった。冠を抱く前から、彼女は誰もが認める女王でした」
「それはすごい」
感心しながら、暗い予感もよぎる。
「けどそんな天才でも、なれなかったんですよね?君主には」
「亡くなったのです」
渇いた発声でニコラは言った。
「血を吐いて倒れました。教室で、それまで学友と談笑していたのに、突然の出来事でした」
「知らなかった」
教室の存在自体は、うっすら記憶していたのに。
「箝口令が敷かれましたからね」
ニコラは変わらず車窓を眺めている。
「程なくして、女王選出の話自体が立ち消えとなりました。実社会に疎い子供でも、何が起こったのかは明白でした」
「暗殺、ですか」
「まちがいないでしょう。彼女個人を狙ったものか、他国から後継者を募る試み自体を潰したかったのかは不明ですが」
窓から顔を逸らし、ニコラはサキの方を向く。
「そのとき、彼女と私の距離は、今の私とあなたの位置と同じくらいでした」
手を伸ばし、ニコラはサキの肩に触れた。
「だから見えたのです。死と言うものが、はっきりと。口から、鼻から、瞳の下から、子供の体に不釣り合いなほど大量の血が流れ出していました。最後は血液とは違う、黄色い液体が糸のように垂れ下がり、赤の上で揺れ動いていました」
サキの頬に触れ、すぐに離した。
「しばらく経って、私は学友たちと意見を交わしました。ほんの少し、権力に触れようとしただけで死が降って来た。けれどもあれは、特別な出来事ではなかったのでは?と。私たちをとりまく世界、状況、それらの縮図に過ぎないのではないかと」
「わたしたち貴族の子女は、権力の網の中で生活しています。プロイセンの田舎貴族の娘にすぎなかったエカテリーナがロシアの女帝へ登りつめたように、いついかなるとき絶大な権力が転がり込んでくるか、反対に権力に押し潰される憂き目に合うか、予想できるものではありません。ならば相応の覚悟を持っておくべき、という結論に至ったのです」
「覚悟、とは?」
「私たちは個人であると同時に、一個の国家にも等しい存在」
右手を胸に当て、ニコラは言う。
「法律や慣習を盲信するのではなく、自分一人のための正義を磨き上げ、それを貫いて生きる」
立派すぎる。
「できたらその話、もっと早くに教えてもらいたかった」
「究極的には、あの教室にいた者しか共感できない理屈ですから」
ニコラは目元をやわらげる。
「押しつけるわけには行きません。ましてサキは、現実の権威を得ています。考え方も異なるでしょう」
なんだか疎外感も感じるが、納得もさせられた。
ニコラ、カヤ、コレート。全く違うようで、どこか似た空気が漂っていた彼女たちは、そんな思想を共有していたわけか。
「その正義に則って、カヤはこのまま死なせてほしいと言っている」
サキは両掌を握り合わせる。
「納得できますか?姉上は」
「清廉にすぎる、とは思います。けれどもその潔癖さを称えたい気持ちもあるのです。たぶん、コレート様も」
だから手を貸したということか。
「これから僕は、どうすればいいんです」
「証拠探しを頑張る振りだけ続けて、実際には論拠は提出しない。カヤの意向を尊重するのであれば、そうするべきでしょう。民衆の眼がありますので、調査を今すぐ打ち切るのは得策ではありませんから」
そうだ。民衆の手前もある。サキは思い出した。すでに民衆を巻き込んだ以上、サキとしては引き下がりたくはない。山で迷ったり、川で溺れかけたり、苦労もしたわけだし・・・
ふとサキは、迷子になっていたある感情に気付いた。
「姉上、僕、怒ってもいいんじゃないですかね」
サキの質問に、姉は両目を瞬いた。
「むしろ、あなたが怒らなかったのが不思議なくらいですけれど?」
「あ――っ、やっぱり怒るところだったんだ!」サキは両膝をばんばんと叩く。
「そうだよ!ひどいよ!ふざけんなよ!僕がどれだけ心配して、苦労してきたと思ってるんだ!」
膝が痛くなったので馬車の壁を叩こうかと思ったが、傷を付けると悪いので止めにする。
「それを、よけいなお世話だったって?ふっざっけんなよおおおお。カヤのやつ、ちょっと可愛らしいからって調子にのりやがってっ」
別に、調子に乗ってはいないだろう。
内なる声に反論されて、サキの怒りは半分くらいに落ちた。
「決めた。カヤが死にたがっていようが、立派な志があろうが関係ない」
少し赤くなった掌をすり合わせる。
「これまでと方針は変わらない。証拠を集めて、カヤの無罪を勝ち取る!構いませんよね。それで」
「いけないはずがありません」
首を傾げて、姉は微笑した。
「わたしも、カヤに死んでもらいたいと思っているわけではありませんからね。ただし」
人差し指を立てて、警告する。
「ここまで信念が固まっている以上、あなたの権力で命を拾ったとしても、カヤは自裁を選ぶかもしれませんよ」
「面倒くさい女・・・」
「それは女性にたいして一番言ってはいけない台詞ですよ」
姉は再び指を立てて警告する。
「すみません。けど、助けてからずっと監視するわけにもいかないでしょう。心変わりさせる方法はないでしょうか」
「権力に身を染めるくらいなら死を選ぶというカヤの信念は、それなりに強固なものです。だから撤回させたいのであれば、あなたも同種のものをぶつけるしかありません」
「僕の信念ですか?」
サキは即座に答えた。
「そんなもの、僕は持っていません!」
「持っています」
姉の否定も瞬時だった。
「少なくとも、この前の戦場で手に入れているはずです」
サキは戸惑う。どうして戦場の話が出てくるのだろう。
「戦場の話を聞いたとき、私は驚いたのです。サキ、あなた、自分の意志で最前線に出て、兵士を鼓舞したそうですね。私の知っていた私の弟は、我慢して戦場に赴くことはあっても、最前線に経つほどの意気の持ち主ではありませんでした」
貶されつつ、ほめられているみたいだ。確かにまあ、自分でもあの振る舞いは奇跡だったと思う。
「何か掴んだのでしょう?戦場で」
姉の瞳が、思索の色合いを帯びる。
「その何かを思い出してください。それがあなたの信念の源です。そこから湧き上がるものを、カヤにぶつければいいのです」
あいつだ。
サキは思い浮かべる。あいつしか考えられない。
ただ、あいつから何を手に入れたのか、さっぱり分析できない。
まだ評議会の当日。油断は禁物かもしれないが、時間的に余裕はある。
サキは決めた。会いに行こう。あの少年兵に。
「何があったんですか?少女帝王学教室で」
重圧を払い、サキは訊いた。
「そうですね。それを説明するべきでしょうね」
ニコラは車窓を眺めたまま。遠くで羽ばたいていた鳥の影が、掠れ、大気に紛れた。
「あの集まりの顛末ですが、結局だれ一人として君主には選ばれなかったという話になっています」
「取りやめになったんですよね。先方の事情で」
「正確には、違うのです。女王候補はいました。教室にいた全員が、彼女にかなわない、と認めざるを得ないほどの才媛でした」
「姉上もですか?」サ
キは驚いた。すくなくとも頭脳面において、姉をしのぐ女性に会った覚えがない。
「私が解けなかった数式を、彼女は簡単に片づけて見せました。数学だけではありません。彼女の筆さばきからは、カヤが舌を巻くくらい伸びやかな描線が生み出されました。文学も、政治学の成績も・・・・誰も彼女には及ばなかった。冠を抱く前から、彼女は誰もが認める女王でした」
「それはすごい」
感心しながら、暗い予感もよぎる。
「けどそんな天才でも、なれなかったんですよね?君主には」
「亡くなったのです」
渇いた発声でニコラは言った。
「血を吐いて倒れました。教室で、それまで学友と談笑していたのに、突然の出来事でした」
「知らなかった」
教室の存在自体は、うっすら記憶していたのに。
「箝口令が敷かれましたからね」
ニコラは変わらず車窓を眺めている。
「程なくして、女王選出の話自体が立ち消えとなりました。実社会に疎い子供でも、何が起こったのかは明白でした」
「暗殺、ですか」
「まちがいないでしょう。彼女個人を狙ったものか、他国から後継者を募る試み自体を潰したかったのかは不明ですが」
窓から顔を逸らし、ニコラはサキの方を向く。
「そのとき、彼女と私の距離は、今の私とあなたの位置と同じくらいでした」
手を伸ばし、ニコラはサキの肩に触れた。
「だから見えたのです。死と言うものが、はっきりと。口から、鼻から、瞳の下から、子供の体に不釣り合いなほど大量の血が流れ出していました。最後は血液とは違う、黄色い液体が糸のように垂れ下がり、赤の上で揺れ動いていました」
サキの頬に触れ、すぐに離した。
「しばらく経って、私は学友たちと意見を交わしました。ほんの少し、権力に触れようとしただけで死が降って来た。けれどもあれは、特別な出来事ではなかったのでは?と。私たちをとりまく世界、状況、それらの縮図に過ぎないのではないかと」
「わたしたち貴族の子女は、権力の網の中で生活しています。プロイセンの田舎貴族の娘にすぎなかったエカテリーナがロシアの女帝へ登りつめたように、いついかなるとき絶大な権力が転がり込んでくるか、反対に権力に押し潰される憂き目に合うか、予想できるものではありません。ならば相応の覚悟を持っておくべき、という結論に至ったのです」
「覚悟、とは?」
「私たちは個人であると同時に、一個の国家にも等しい存在」
右手を胸に当て、ニコラは言う。
「法律や慣習を盲信するのではなく、自分一人のための正義を磨き上げ、それを貫いて生きる」
立派すぎる。
「できたらその話、もっと早くに教えてもらいたかった」
「究極的には、あの教室にいた者しか共感できない理屈ですから」
ニコラは目元をやわらげる。
「押しつけるわけには行きません。ましてサキは、現実の権威を得ています。考え方も異なるでしょう」
なんだか疎外感も感じるが、納得もさせられた。
ニコラ、カヤ、コレート。全く違うようで、どこか似た空気が漂っていた彼女たちは、そんな思想を共有していたわけか。
「その正義に則って、カヤはこのまま死なせてほしいと言っている」
サキは両掌を握り合わせる。
「納得できますか?姉上は」
「清廉にすぎる、とは思います。けれどもその潔癖さを称えたい気持ちもあるのです。たぶん、コレート様も」
だから手を貸したということか。
「これから僕は、どうすればいいんです」
「証拠探しを頑張る振りだけ続けて、実際には論拠は提出しない。カヤの意向を尊重するのであれば、そうするべきでしょう。民衆の眼がありますので、調査を今すぐ打ち切るのは得策ではありませんから」
そうだ。民衆の手前もある。サキは思い出した。すでに民衆を巻き込んだ以上、サキとしては引き下がりたくはない。山で迷ったり、川で溺れかけたり、苦労もしたわけだし・・・
ふとサキは、迷子になっていたある感情に気付いた。
「姉上、僕、怒ってもいいんじゃないですかね」
サキの質問に、姉は両目を瞬いた。
「むしろ、あなたが怒らなかったのが不思議なくらいですけれど?」
「あ――っ、やっぱり怒るところだったんだ!」サキは両膝をばんばんと叩く。
「そうだよ!ひどいよ!ふざけんなよ!僕がどれだけ心配して、苦労してきたと思ってるんだ!」
膝が痛くなったので馬車の壁を叩こうかと思ったが、傷を付けると悪いので止めにする。
「それを、よけいなお世話だったって?ふっざっけんなよおおおお。カヤのやつ、ちょっと可愛らしいからって調子にのりやがってっ」
別に、調子に乗ってはいないだろう。
内なる声に反論されて、サキの怒りは半分くらいに落ちた。
「決めた。カヤが死にたがっていようが、立派な志があろうが関係ない」
少し赤くなった掌をすり合わせる。
「これまでと方針は変わらない。証拠を集めて、カヤの無罪を勝ち取る!構いませんよね。それで」
「いけないはずがありません」
首を傾げて、姉は微笑した。
「わたしも、カヤに死んでもらいたいと思っているわけではありませんからね。ただし」
人差し指を立てて、警告する。
「ここまで信念が固まっている以上、あなたの権力で命を拾ったとしても、カヤは自裁を選ぶかもしれませんよ」
「面倒くさい女・・・」
「それは女性にたいして一番言ってはいけない台詞ですよ」
姉は再び指を立てて警告する。
「すみません。けど、助けてからずっと監視するわけにもいかないでしょう。心変わりさせる方法はないでしょうか」
「権力に身を染めるくらいなら死を選ぶというカヤの信念は、それなりに強固なものです。だから撤回させたいのであれば、あなたも同種のものをぶつけるしかありません」
「僕の信念ですか?」
サキは即座に答えた。
「そんなもの、僕は持っていません!」
「持っています」
姉の否定も瞬時だった。
「少なくとも、この前の戦場で手に入れているはずです」
サキは戸惑う。どうして戦場の話が出てくるのだろう。
「戦場の話を聞いたとき、私は驚いたのです。サキ、あなた、自分の意志で最前線に出て、兵士を鼓舞したそうですね。私の知っていた私の弟は、我慢して戦場に赴くことはあっても、最前線に経つほどの意気の持ち主ではありませんでした」
貶されつつ、ほめられているみたいだ。確かにまあ、自分でもあの振る舞いは奇跡だったと思う。
「何か掴んだのでしょう?戦場で」
姉の瞳が、思索の色合いを帯びる。
「その何かを思い出してください。それがあなたの信念の源です。そこから湧き上がるものを、カヤにぶつければいいのです」
あいつだ。
サキは思い浮かべる。あいつしか考えられない。
ただ、あいつから何を手に入れたのか、さっぱり分析できない。
まだ評議会の当日。油断は禁物かもしれないが、時間的に余裕はある。
サキは決めた。会いに行こう。あの少年兵に。