決着
文字数 7,749文字
ハイユは王国北方の重要拠点であると同時に、一大保養地としても知られている。
冬は適度に寒く、夏は適度に暑い。いずれの季節も程良く湿気を含んだそよ風が喉や肌を優しく潤してくれるため、字義通りの保養地としても、若者が羽目を外す土地としても人気の高い場所だ。
王国内の有力貴族であれば大抵はこの地に別荘を構えており、それは赤薔薇家も例外ではなかった。
青杖家当主であり、宮廷軍事評議会評議員イオナの妻でもあるコレートがこの地を訪れたのは、カヤの評決を論じる三度目の評議会が開催される当日のことだった。コレート自身はこの地に別荘を所有してはいないものの、他家に招かれて何度か水遊びを愉しんでいる。
到着後に彼女が行ったのは、それら旧知の挨拶周りをすることだった。当主のいない間、このような別荘は大抵の場合親族の女性が取り仕切っている。王都は活気を取り戻しているか、治安は悪化していないか、摂政殿下のお人柄は―――前日まで王都近郊にいたコレートは、噂好きのご婦人方が好む話題に事欠かなかった。
今回計画された赤薔薇家所領の一斉封鎖が実行される前に、勘の良さそうな人々にそれとなく情報を流して欲しい。それが評議会から青杖家当主への依頼だった。
世間話を装い、あくまでさりげなく、間もなく赤薔薇家の別荘で何事かが発生するという示唆を行う。助力は請わない。傍観、もしくは赤薔薇家への援助を控えてもらえたら、それでいい。
その後のことは、評議会の指示を受けた精鋭たちへ任せる他にない。彼らの人数、進入経路など、コレートは全く知らされていなかった。旅行者に紛れて町中で待機しているのか、あるいは堂々と水路を進軍してくるのかもしれない。
(それもこれも、殿下のお仕事次第ですけれど)
青杖家当主は、彼女の監獄に収容されている女流画家と、その幼なじみである国家元首の顔を思い浮かべた。彼女達にはこの一ヶ月足らずで、好感に似た感情を抱き始めている。どうにかこの危難を乗り越えて、末永くお付き合いしたいものだ。
「この外套を適切な形に折り畳んで床に置いたところ、欠落している血痕と一致しました」
同日の宮廷軍事評議会。サキは先日入手した外套を評議員たちに広げて見せている。すでにゲラクが目撃したカヤと密偵風の男の出入りについて、外套の隠し場所を発見した経緯については説明済みだった。
「血痕の形状については、画工が描き記した全体図もありますが、現場を見ていただいた方がよいかもしれません。なおこの外套ですが、赤薔薇家の管理下で製造された品物であると確認がとれています」
少し堅すぎる表現だったかな、とサキは悔やむ。心中を見抜いたように、カザルスが口を挿んだ。
「売りさばくために議長が作らせた内の一着だった、という意味ですね」
「その通り。縫製を担当していたデジレ在住の職人に見せたところ、間違いなくいばら荘に納入した品だという話だった。同じ軍服でも、仕立て屋によって針の通し方とかが違うらしい」
外套を畳み、代わりにサキは書類を示した。
「これは、いばら荘で保管されていた外套の在庫数を記した記録です。議長が殺害された三日前に使用人が数えたもので、計四百五十着。その後は販売店に払い下げる機会もなかったのに、一昨日数えなおしたところ、四百四十九着に減っていました。議長が一着抜き取って、運び屋に渡したのでしょう。その外套が、デジレ近郊の隠し倉庫より発見されたのです」
サキは言葉に力を込める。前回や前々回ほど緊張はしていない。
「外套の血痕が床の飛沫と一致している事実から確実に言えるのは、議長が射殺された際、この外套が近くに畳んであったということです。仮にカヤ嬢が犯人だったとすれば、彼女が外套を外へ持ち出したことになる。しかし見張り役の目撃証言によると、カヤ嬢は同日午後に通路からいばら荘へ入って以降、一度も外へ出ていない……」
「カヤ嬢には持ち出せなくても、使用人にはできるのでは?」
ゼマンコヴァがゆっくりと疑念を挿む。本気で反論しているというより、事務的な喋り方だった。
「確かに可能かもしれません。彼女の味方をしてくれる使用人がいたならば」
サキは動揺しない。
「けれどもカヤ嬢を助ける方法にしては不合理に思われます。隠しても、彼女には全く特にならないからです。議長がどうやって殺害されたかについて、そちらでは肖像画を描く際に殺された、と主張されていましたが」
サキはカザルスを少しだけ睨む。
「血染めの外套が残されていたとしても、『ああ、議長の肖像画を描く小道具の一つなんだな』と思うより、『ああ、犯人が畳んで置いた外套だな、軍人が犯人ということか』と解釈する方が自然です。残しておいた方が、彼女にとって有利に働いたはずだ」
「それも、そうですな」
ゼマンコヴァはあっさり納得してくれた。サキは水を一口含む。
「外套と犯人の関わりについて、別の方向からも論じてみましょう。そもそも議長は、何のために外套を調達したのか。この外套を調べてみましたが、血痕が残っている以外は何の変哲もない軍用の外套です。職人に見てもらいましたが、裏地に穴を開けて何かを隠した痕跡もありません。だとすれば単純に、『着てもらう』ために用意したとしか考えられません。軍の外套を纏っていれば、他の軍服勢に紛れて行動できます。デジレ街道を通過する際も、隠し通路を使っていばら荘に入る際も、比較的印象に残りにくい。ようするに議長は、この日訪ねてくる人物の素性を隠すために、外套を調達したのです。実際に外套を纏った人物が出入りするところが目撃されており、その後、血染めの外套が発見されている。ならばその人物が犯人である、と見て間違いないでしょう」
この辺りの論証は、ゲラクから外套の男について聞いた折に組み立てたものだ。
「その人物が、カヤ嬢でないとは限らないのでは?」
イオナが手を挙げた。
「当日、見張り役は隠し通路が使用されるのを三度、目撃していると聞きました。外套を身に纏った人物の出入りで二回。カヤ嬢が入ったのが一回。ですが、外套の男とカヤ嬢が同一人物だとしたら?カヤ嬢は議長を殺害した後一度、外に出て、外套を隠した後、普段の格好でもう一度中へ入り、自分と議長を殺した外套の『男』とは別人だと偽装したのかもしれません」
外套を見つけたのが一昨日でよかった、とサキは思う。昨日一日を、丸々反論の想定に充てられたからだ。この反論もすでに対策済みだった。
「カヤ嬢が一人二役を演じたのであれば、数が合わなくなりますよね。カヤ嬢の偽装ではない、本物の訪問者がもう一名存在したはずです。それなのに、ゲラクが目撃した隠し通路の出入りは、これまでに述べた三回だけでした。ゲラクは議長が死んだことを知らずに夜まで見張りを続けていたのに、もう一人は最後まで現れなかった」
サキの再反論にイオナは首をひねっていたが、間もなく口を開いた。
「最初から、もう一人の訪問者などいなかった。そう考えられませんか」
「訪問者の予定が一人だけだったら、議長が見張りを命じる必要はありません」
「ああ……」
サキの返答に、イオナは指先で眉間を叩いた。
「そういえばそうでしたな。そもそも議長が見張りを立てておられたのは、カヤ嬢と密使が鉢合わせするのを避けるためだった。当日、訪問者がカヤ嬢だけであれば、鉢合わせは起こりようもない」
「ですから、訪問者は間違いなく二人いたんです。一人がカヤ嬢。もう一人が、外套を持ち込み、血染めになったそれを持ち去った人物。カヤ嬢にはこの外套を隠す機会も意味もなかった―――結論。カヤ嬢は犯人ではなく、もう一人の訪問者が犯人だった」
ふうっ、と息を漏らしたのはマリオンだった。
サキは控え目な音量で告げる。
「議長殺害の犯人がカヤ嬢ではない、という論証は、これで終わりです」
マリオンが視線を他の評議員に移す。全員と目を合わせ、何らかの意志疎通が完了したのだろう。マリオンは大きく息を吸った。
「では、これで評決を―――」
「待ってください」
サキは手を伸ばして発言を制した。
「まだ論証が残っています。ここまでお話ししたのは、犯人がカヤ嬢ではないという論証だけです」
「それで終わりではないのか」
マリオンが、不快そうに鋭い声を上げたので、サキは愉快になった。これからもっと愉快になるかもしれない。
「これからお伝えするのは、議長が決闘によって命を落としたという証明です」
マリオン、ゼマンコヴァ、イオナの表情筋が強ばった。他の三名は、それほど衝撃を受けてはいないようだ。意外な展開を見せた芝居を面白がるように身を乗り出すカザルスと、迷惑そうに眉をひそめるフェルミと、まだ帰れないのか、とつまらなそうなギディングス。
持参した麻の袋を、サキは円卓に乗せた。
「外套を発見した際、同じ隠し倉庫で発見したものです」評議員たちをじらすように、少しずつ袋を開いて行く。
「ばらばらに切り刻まれた状態で放り込んでありました。最初は外套を確認するのに夢中で、気にしていなかったのですが、調査に参加した画工の一人が興味を持って、膠 で繋ぎあわせてくれたんです」
取り出したそれは、木製の長靴だった。右足しか入っていない。
「重たいですな。木でつくってあるようだから当然か」
ゼマンコヴァが持ち上げようとする。
「実用的とも思えません。これが何だというのです」
「腿の側を見てください」
サキはつま先を持って木靴を回転させる。腿の部分から突起物が生えており、先でTの字に枝分かれしている。分かれた末端に、ネジ穴が開いていた。
「その場にいた画工に履かせて見ましたが、割と余裕のある大きさなので、相当足が大きくても入ります。議長はさすがに難しいでしょうけど」
サキはネジ穴を評議員たちに近づけて見せた。
「この穴と、対応する間隔のネジ穴が、いばら荘最上階の椅子にも開いていたんです」
「はっはっは」
興味深そうに、カザルスは瞳を揺らめかせる。
「どの椅子です。まさか、決闘に使用された椅子ですか」
「うん。高台の中央にあった二脚のうち、小振りな方の椅子だ」
サキは感心した。マリオンの顔色が青くなっている。この説明だけで、意味を理解したらしい。
「ネジ穴は、腰掛けた場合、右足の裏側が当たる部分の脚にありました。つまりこの木靴を履き、ネジを通した場合どうなるかというと、靴がネジで固定されて動かなくなってしまいます。木製の靴だから柔軟性に欠けるため、足が細くても、すぐには引き抜けないでしょう。つまり」
虐めても仕方ないので、サキは結論を述べる。
「向かい合わせの席にいる議長と、同じような状態になるわけです」
「決闘のためか」
マリオンが声を震わせる。
「そうとしか考えられませんよね。右足を失っている議長と可能な限り公平な形で戦うために、椅子に座って撃ち合う方式を選んだ。それでも生死の狭間では、体が動いて右足を使ってしまうかもしれない。そのための細工でしょう。僕の考えでは、なんとなく、議長の発案ではないような気がしますけど」
「あー、そんな気がします」
ギディングスが同意した。
「あの人なら、その程度の劣勢は受け入れそうですもんね。その木靴、そんなに手間がかかる細工でも無さそうだし、自分で作ってたりして」
人ごとのように話すギディングス。カザルスは人の悪い笑みを浮かべ、フェルミは眉間に皺を増やす。この三名に比べて、最初から評議員だった残り三名の様子は深刻だった。硬直している。議長の死が決闘によるものであるという、完璧に近い証拠が提出されたのだ。それは議長を撃った犯人が、この三名の内にいる可能性が高いという構図を示している。
この木靴が、隠し倉庫から見つかったという部分も重要だ。
たとえばカヤが犯人で、議長の死を決闘によるものと誤認させるためにこの木靴を用意したという場合、見つけてもらえるかも定かでない隠し倉庫なんかに持って行かせるはずがない。議長の隣にでも転がしておいた方が効果的だ。バラバラにする意味もない。評議員達は
「これで、私からの論証は終了です」
サキは咳払い一つした後に、
「その上で、今回提出した二つの論証について、後のほうは公表しないと、宣言いたします」
マリオンの冷凍が溶けた。眼球が微細な揺れを繰り返している。たった今の発言について忙しく頭脳を回転させているのだろう。
「議長が決闘で亡くなったという論証を、記事にはしない、と仰っているのかな」
「そういう意味です」
「なぜ、そのような判断を?」
わかってはいるが手続きとして聞いている、と言いたげなマリオンの瞳だった。
「譲歩です。目的を達成するための。僕が望んでいるのは、カヤ嬢を無罪にすることだけで、その他の問題は二の次です。それらに関しては、評議会の権限を尊重します」
このさじ加減でいいだろうか、とサキは不安になる。小僧に情けをかけられたと、マリオンは屈辱に思いはしないだろうか。
マリオンは深いため息をついた。襟の羽根飾りが感情を反映するように揺れた。
「了承いただけるのですな?青杖家を通じて依頼しました件は」
「もちろんです」
間髪入れずにサキは答える。赤薔薇家の領土を封鎖する際にお墨付きが欲しいという件だろう。議長の親族が握っているという機密情報とやらがどういうものなのかは知らないが、サキにとっては、カヤの無罪を勝ち取る方がはるかに重要だ。
「ただ、お墨付きを与えるといっても、何でも正当化できるわけではないでしょう。どういう口実で兵を送り込むつもりなんですか」
「理由は、今回の事件に絡めるつもりです」
サキの懸念にイオナが答える。
「評決の材料を集めている途中で、赤薔薇家に関して不穏な情報を入手した。赤薔薇家の使用人の中に革命思想への賛同者が紛れ込んでおり、共和国軍兵士を密かに匿っているらしいーーそういう筋書きを使います。口実が共和国軍とはいえ、貴族の所領に軍隊を送り込むのは差し障りがありますが、継承順位一位のカヤ嬢と、殿下が支持して下されば不平を抑えることはできるで
しょう」
さすがに口実くらいは考えていたか。サキにはもう一点、懸念材料があった。
「当然、いばら荘も調査の対象になりますよね。あそこの人々は僕の調査に役立ってくれました。兵を送り込む際は、なるべく穏便にお願いしたいんですけど」
「だいじょうぶです」
ゼマンコヴァが請け負ってくれた。
「我々の狙いは議長の叔父と義弟で、両者ともに故人とは良好な関係でなかったと聞いております。その二人が、本邸のいばら荘に機密情報を隠すとは考えにくいですからな」
「それでは、こちらに異存はありません。カヤ嬢も承諾しています」
サキの言葉を聞いたマリオンは円卓の評議員たちを見回した。
「それでは、三週間に渡って討議を重ねたカヤ嬢の評決に関して、最終判断を行わせていただく」
威厳を取り戻すように、マリオンは平素より太い声で言った。
「カヤ嬢を有罪と見なすか否か、各評議員はいずれかに票を投じるように」
「無罪です」
フェルミが大儀そうに言った。
「無罪で問題ないかと」
カザルスがにやにやと笑いながら言う。
「「無罪」」
ゼマンコヴァとイオナが同時に言葉を発し、気まずそうに俯いた。
「ええと、じゃあ俺も同じ、無罪っす」
ギディングスも同調した。
「これで、六人中五人が無罪に票を投じた。評議会では、意見を重ねた結果、結論を出すという規定になっており、多数決の原理は採用されていないのだが」
マリオンは大げさに肩をすくめた。
「私としても、あくまで有罪を主張する必要性は感じない。よって、カヤ嬢は無罪。これにて、この件に関する評議会は閉会とする」
宮殿の門前で待機していた準男爵に、サキは朗報を伝える。準男爵の喜び様は、彼が実の娘同様にニコラを愛していた事実を如実に証明するものだった。
「弟子たちにもすぐに教えてあげよう。皆、気を揉んでいるはずです」
目元に光るものを拭いながら準男爵は言う。あの画工たちなら、わがことのように喜んでくれるに違いない。
「サキ君、あなたには本当にお世話をおかけしました」
準男爵の両手が、サキの手を強く握りしめる。
「君がいなかったら、あの子は今頃断頭台だったかもしれません」
「いえ、僕一人の手柄じゃありません」
謙遜ではなく、サキは本気でそう思っていた。
「たしかに僕は、カヤを救うために全力を尽くしたと思っています。けど、工房の人たちや先生の知識がなかったら外套は見つけられなかったでしょう。そういう意味で、これはカヤの力です。工房だけじゃない、重要な情報を提供してくれた御者の一人は、前に、カヤが絵を描いてくれたことを感謝してました。あれ程周囲の人々に慕われていなかったら、証拠は集まらなかったかもしれない。カヤの行いが、カヤを助けたんですよ。カヤは助かるべくして助かったんです」
「そう言ってもらえると、救われた気分になりますね」
準男爵は空を見上げた。今、自分が口にした内容は、以前に準男爵が話していたものと似通っていたことにサキは気付く。
今回の一件でサキが学んだのは、人と人との繋がりは尊い、ということだ。
言葉に直すと陳腐に響くかもしれないが、サキは本気でそう考えていた。家族愛、忠誠心、そういった長きに渡る結びつきばかりではない。ほんのひととき、一瞬、交わった人間から重要な何事かを得られる場合もある。ゲラクやピエロの証言から外套を見つけだしたように。
思い返してみると、自分は権力者になりたかったのだ。
権力者とは、人を束ねる者だ。そんな立場にいるものが、人の心を考えずに権勢を保てるわけがない。
座右の銘にしようか、とサキは半分ふざけて考える。
「権力者は、人心を活用するものである」
なんだかありきたりだ。
「人の心は、権力者にとって至上の刃である」
少しキザったらしい。
「人の心は、権力者の冠である」
よくわからない……
ま、言葉にしなくてもいい。サキの心には焼き付いている。
それにしても疲れた。正門外に待ち受けていた新聞戦車たちに無罪評決の顛末を語りながら、サキは雪崩のように押し寄せる疲労と戦っていた。今度はたぶん、按摩してもらってもだめだ。帰ったら、ゆっくり眠りたい。
この二ヶ月足らずで、これまでの人生では経験しなかった生命の危機に見舞われ、最大限に頭脳を働かせもした。どちらもしばらくは御免だ。いや、一生やりたくない。
サキは決意する。僕は国家元首なんだ。今後は危難に身を投じたりしない。難問に頭を悩ませたりもしない。
面倒事は、全部他人に任せて安全圏でのんびり過ごすのだ。
無理だった。
冬は適度に寒く、夏は適度に暑い。いずれの季節も程良く湿気を含んだそよ風が喉や肌を優しく潤してくれるため、字義通りの保養地としても、若者が羽目を外す土地としても人気の高い場所だ。
王国内の有力貴族であれば大抵はこの地に別荘を構えており、それは赤薔薇家も例外ではなかった。
青杖家当主であり、宮廷軍事評議会評議員イオナの妻でもあるコレートがこの地を訪れたのは、カヤの評決を論じる三度目の評議会が開催される当日のことだった。コレート自身はこの地に別荘を所有してはいないものの、他家に招かれて何度か水遊びを愉しんでいる。
到着後に彼女が行ったのは、それら旧知の挨拶周りをすることだった。当主のいない間、このような別荘は大抵の場合親族の女性が取り仕切っている。王都は活気を取り戻しているか、治安は悪化していないか、摂政殿下のお人柄は―――前日まで王都近郊にいたコレートは、噂好きのご婦人方が好む話題に事欠かなかった。
今回計画された赤薔薇家所領の一斉封鎖が実行される前に、勘の良さそうな人々にそれとなく情報を流して欲しい。それが評議会から青杖家当主への依頼だった。
世間話を装い、あくまでさりげなく、間もなく赤薔薇家の別荘で何事かが発生するという示唆を行う。助力は請わない。傍観、もしくは赤薔薇家への援助を控えてもらえたら、それでいい。
その後のことは、評議会の指示を受けた精鋭たちへ任せる他にない。彼らの人数、進入経路など、コレートは全く知らされていなかった。旅行者に紛れて町中で待機しているのか、あるいは堂々と水路を進軍してくるのかもしれない。
(それもこれも、殿下のお仕事次第ですけれど)
青杖家当主は、彼女の監獄に収容されている女流画家と、その幼なじみである国家元首の顔を思い浮かべた。彼女達にはこの一ヶ月足らずで、好感に似た感情を抱き始めている。どうにかこの危難を乗り越えて、末永くお付き合いしたいものだ。
「この外套を適切な形に折り畳んで床に置いたところ、欠落している血痕と一致しました」
同日の宮廷軍事評議会。サキは先日入手した外套を評議員たちに広げて見せている。すでにゲラクが目撃したカヤと密偵風の男の出入りについて、外套の隠し場所を発見した経緯については説明済みだった。
「血痕の形状については、画工が描き記した全体図もありますが、現場を見ていただいた方がよいかもしれません。なおこの外套ですが、赤薔薇家の管理下で製造された品物であると確認がとれています」
少し堅すぎる表現だったかな、とサキは悔やむ。心中を見抜いたように、カザルスが口を挿んだ。
「売りさばくために議長が作らせた内の一着だった、という意味ですね」
「その通り。縫製を担当していたデジレ在住の職人に見せたところ、間違いなくいばら荘に納入した品だという話だった。同じ軍服でも、仕立て屋によって針の通し方とかが違うらしい」
外套を畳み、代わりにサキは書類を示した。
「これは、いばら荘で保管されていた外套の在庫数を記した記録です。議長が殺害された三日前に使用人が数えたもので、計四百五十着。その後は販売店に払い下げる機会もなかったのに、一昨日数えなおしたところ、四百四十九着に減っていました。議長が一着抜き取って、運び屋に渡したのでしょう。その外套が、デジレ近郊の隠し倉庫より発見されたのです」
サキは言葉に力を込める。前回や前々回ほど緊張はしていない。
「外套の血痕が床の飛沫と一致している事実から確実に言えるのは、議長が射殺された際、この外套が近くに畳んであったということです。仮にカヤ嬢が犯人だったとすれば、彼女が外套を外へ持ち出したことになる。しかし見張り役の目撃証言によると、カヤ嬢は同日午後に通路からいばら荘へ入って以降、一度も外へ出ていない……」
「カヤ嬢には持ち出せなくても、使用人にはできるのでは?」
ゼマンコヴァがゆっくりと疑念を挿む。本気で反論しているというより、事務的な喋り方だった。
「確かに可能かもしれません。彼女の味方をしてくれる使用人がいたならば」
サキは動揺しない。
「けれどもカヤ嬢を助ける方法にしては不合理に思われます。隠しても、彼女には全く特にならないからです。議長がどうやって殺害されたかについて、そちらでは肖像画を描く際に殺された、と主張されていましたが」
サキはカザルスを少しだけ睨む。
「血染めの外套が残されていたとしても、『ああ、議長の肖像画を描く小道具の一つなんだな』と思うより、『ああ、犯人が畳んで置いた外套だな、軍人が犯人ということか』と解釈する方が自然です。残しておいた方が、彼女にとって有利に働いたはずだ」
「それも、そうですな」
ゼマンコヴァはあっさり納得してくれた。サキは水を一口含む。
「外套と犯人の関わりについて、別の方向からも論じてみましょう。そもそも議長は、何のために外套を調達したのか。この外套を調べてみましたが、血痕が残っている以外は何の変哲もない軍用の外套です。職人に見てもらいましたが、裏地に穴を開けて何かを隠した痕跡もありません。だとすれば単純に、『着てもらう』ために用意したとしか考えられません。軍の外套を纏っていれば、他の軍服勢に紛れて行動できます。デジレ街道を通過する際も、隠し通路を使っていばら荘に入る際も、比較的印象に残りにくい。ようするに議長は、この日訪ねてくる人物の素性を隠すために、外套を調達したのです。実際に外套を纏った人物が出入りするところが目撃されており、その後、血染めの外套が発見されている。ならばその人物が犯人である、と見て間違いないでしょう」
この辺りの論証は、ゲラクから外套の男について聞いた折に組み立てたものだ。
「その人物が、カヤ嬢でないとは限らないのでは?」
イオナが手を挙げた。
「当日、見張り役は隠し通路が使用されるのを三度、目撃していると聞きました。外套を身に纏った人物の出入りで二回。カヤ嬢が入ったのが一回。ですが、外套の男とカヤ嬢が同一人物だとしたら?カヤ嬢は議長を殺害した後一度、外に出て、外套を隠した後、普段の格好でもう一度中へ入り、自分と議長を殺した外套の『男』とは別人だと偽装したのかもしれません」
外套を見つけたのが一昨日でよかった、とサキは思う。昨日一日を、丸々反論の想定に充てられたからだ。この反論もすでに対策済みだった。
「カヤ嬢が一人二役を演じたのであれば、数が合わなくなりますよね。カヤ嬢の偽装ではない、本物の訪問者がもう一名存在したはずです。それなのに、ゲラクが目撃した隠し通路の出入りは、これまでに述べた三回だけでした。ゲラクは議長が死んだことを知らずに夜まで見張りを続けていたのに、もう一人は最後まで現れなかった」
サキの再反論にイオナは首をひねっていたが、間もなく口を開いた。
「最初から、もう一人の訪問者などいなかった。そう考えられませんか」
「訪問者の予定が一人だけだったら、議長が見張りを命じる必要はありません」
「ああ……」
サキの返答に、イオナは指先で眉間を叩いた。
「そういえばそうでしたな。そもそも議長が見張りを立てておられたのは、カヤ嬢と密使が鉢合わせするのを避けるためだった。当日、訪問者がカヤ嬢だけであれば、鉢合わせは起こりようもない」
「ですから、訪問者は間違いなく二人いたんです。一人がカヤ嬢。もう一人が、外套を持ち込み、血染めになったそれを持ち去った人物。カヤ嬢にはこの外套を隠す機会も意味もなかった―――結論。カヤ嬢は犯人ではなく、もう一人の訪問者が犯人だった」
ふうっ、と息を漏らしたのはマリオンだった。
サキは控え目な音量で告げる。
「議長殺害の犯人がカヤ嬢ではない、という論証は、これで終わりです」
マリオンが視線を他の評議員に移す。全員と目を合わせ、何らかの意志疎通が完了したのだろう。マリオンは大きく息を吸った。
「では、これで評決を―――」
「待ってください」
サキは手を伸ばして発言を制した。
「まだ論証が残っています。ここまでお話ししたのは、犯人がカヤ嬢ではないという論証だけです」
「それで終わりではないのか」
マリオンが、不快そうに鋭い声を上げたので、サキは愉快になった。これからもっと愉快になるかもしれない。
「これからお伝えするのは、議長が決闘によって命を落としたという証明です」
マリオン、ゼマンコヴァ、イオナの表情筋が強ばった。他の三名は、それほど衝撃を受けてはいないようだ。意外な展開を見せた芝居を面白がるように身を乗り出すカザルスと、迷惑そうに眉をひそめるフェルミと、まだ帰れないのか、とつまらなそうなギディングス。
持参した麻の袋を、サキは円卓に乗せた。
「外套を発見した際、同じ隠し倉庫で発見したものです」評議員たちをじらすように、少しずつ袋を開いて行く。
「ばらばらに切り刻まれた状態で放り込んでありました。最初は外套を確認するのに夢中で、気にしていなかったのですが、調査に参加した画工の一人が興味を持って、
取り出したそれは、木製の長靴だった。右足しか入っていない。
「重たいですな。木でつくってあるようだから当然か」
ゼマンコヴァが持ち上げようとする。
「実用的とも思えません。これが何だというのです」
「腿の側を見てください」
サキはつま先を持って木靴を回転させる。腿の部分から突起物が生えており、先でTの字に枝分かれしている。分かれた末端に、ネジ穴が開いていた。
「その場にいた画工に履かせて見ましたが、割と余裕のある大きさなので、相当足が大きくても入ります。議長はさすがに難しいでしょうけど」
サキはネジ穴を評議員たちに近づけて見せた。
「この穴と、対応する間隔のネジ穴が、いばら荘最上階の椅子にも開いていたんです」
「はっはっは」
興味深そうに、カザルスは瞳を揺らめかせる。
「どの椅子です。まさか、決闘に使用された椅子ですか」
「うん。高台の中央にあった二脚のうち、小振りな方の椅子だ」
サキは感心した。マリオンの顔色が青くなっている。この説明だけで、意味を理解したらしい。
「ネジ穴は、腰掛けた場合、右足の裏側が当たる部分の脚にありました。つまりこの木靴を履き、ネジを通した場合どうなるかというと、靴がネジで固定されて動かなくなってしまいます。木製の靴だから柔軟性に欠けるため、足が細くても、すぐには引き抜けないでしょう。つまり」
虐めても仕方ないので、サキは結論を述べる。
「向かい合わせの席にいる議長と、同じような状態になるわけです」
「決闘のためか」
マリオンが声を震わせる。
「そうとしか考えられませんよね。右足を失っている議長と可能な限り公平な形で戦うために、椅子に座って撃ち合う方式を選んだ。それでも生死の狭間では、体が動いて右足を使ってしまうかもしれない。そのための細工でしょう。僕の考えでは、なんとなく、議長の発案ではないような気がしますけど」
「あー、そんな気がします」
ギディングスが同意した。
「あの人なら、その程度の劣勢は受け入れそうですもんね。その木靴、そんなに手間がかかる細工でも無さそうだし、自分で作ってたりして」
人ごとのように話すギディングス。カザルスは人の悪い笑みを浮かべ、フェルミは眉間に皺を増やす。この三名に比べて、最初から評議員だった残り三名の様子は深刻だった。硬直している。議長の死が決闘によるものであるという、完璧に近い証拠が提出されたのだ。それは議長を撃った犯人が、この三名の内にいる可能性が高いという構図を示している。
この木靴が、隠し倉庫から見つかったという部分も重要だ。
たとえばカヤが犯人で、議長の死を決闘によるものと誤認させるためにこの木靴を用意したという場合、見つけてもらえるかも定かでない隠し倉庫なんかに持って行かせるはずがない。議長の隣にでも転がしておいた方が効果的だ。バラバラにする意味もない。評議員達は
逃げ場を失っているのだ。
「これで、私からの論証は終了です」
サキは咳払い一つした後に、
「その上で、今回提出した二つの論証について、後のほうは公表しないと、宣言いたします」
マリオンの冷凍が溶けた。眼球が微細な揺れを繰り返している。たった今の発言について忙しく頭脳を回転させているのだろう。
「議長が決闘で亡くなったという論証を、記事にはしない、と仰っているのかな」
「そういう意味です」
「なぜ、そのような判断を?」
わかってはいるが手続きとして聞いている、と言いたげなマリオンの瞳だった。
「譲歩です。目的を達成するための。僕が望んでいるのは、カヤ嬢を無罪にすることだけで、その他の問題は二の次です。それらに関しては、評議会の権限を尊重します」
このさじ加減でいいだろうか、とサキは不安になる。小僧に情けをかけられたと、マリオンは屈辱に思いはしないだろうか。
マリオンは深いため息をついた。襟の羽根飾りが感情を反映するように揺れた。
「了承いただけるのですな?青杖家を通じて依頼しました件は」
「もちろんです」
間髪入れずにサキは答える。赤薔薇家の領土を封鎖する際にお墨付きが欲しいという件だろう。議長の親族が握っているという機密情報とやらがどういうものなのかは知らないが、サキにとっては、カヤの無罪を勝ち取る方がはるかに重要だ。
「ただ、お墨付きを与えるといっても、何でも正当化できるわけではないでしょう。どういう口実で兵を送り込むつもりなんですか」
「理由は、今回の事件に絡めるつもりです」
サキの懸念にイオナが答える。
「評決の材料を集めている途中で、赤薔薇家に関して不穏な情報を入手した。赤薔薇家の使用人の中に革命思想への賛同者が紛れ込んでおり、共和国軍兵士を密かに匿っているらしいーーそういう筋書きを使います。口実が共和国軍とはいえ、貴族の所領に軍隊を送り込むのは差し障りがありますが、継承順位一位のカヤ嬢と、殿下が支持して下されば不平を抑えることはできるで
しょう」
さすがに口実くらいは考えていたか。サキにはもう一点、懸念材料があった。
「当然、いばら荘も調査の対象になりますよね。あそこの人々は僕の調査に役立ってくれました。兵を送り込む際は、なるべく穏便にお願いしたいんですけど」
「だいじょうぶです」
ゼマンコヴァが請け負ってくれた。
「我々の狙いは議長の叔父と義弟で、両者ともに故人とは良好な関係でなかったと聞いております。その二人が、本邸のいばら荘に機密情報を隠すとは考えにくいですからな」
「それでは、こちらに異存はありません。カヤ嬢も承諾しています」
サキの言葉を聞いたマリオンは円卓の評議員たちを見回した。
「それでは、三週間に渡って討議を重ねたカヤ嬢の評決に関して、最終判断を行わせていただく」
威厳を取り戻すように、マリオンは平素より太い声で言った。
「カヤ嬢を有罪と見なすか否か、各評議員はいずれかに票を投じるように」
「無罪です」
フェルミが大儀そうに言った。
「無罪で問題ないかと」
カザルスがにやにやと笑いながら言う。
「「無罪」」
ゼマンコヴァとイオナが同時に言葉を発し、気まずそうに俯いた。
「ええと、じゃあ俺も同じ、無罪っす」
ギディングスも同調した。
「これで、六人中五人が無罪に票を投じた。評議会では、意見を重ねた結果、結論を出すという規定になっており、多数決の原理は採用されていないのだが」
マリオンは大げさに肩をすくめた。
「私としても、あくまで有罪を主張する必要性は感じない。よって、カヤ嬢は無罪。これにて、この件に関する評議会は閉会とする」
宮殿の門前で待機していた準男爵に、サキは朗報を伝える。準男爵の喜び様は、彼が実の娘同様にニコラを愛していた事実を如実に証明するものだった。
「弟子たちにもすぐに教えてあげよう。皆、気を揉んでいるはずです」
目元に光るものを拭いながら準男爵は言う。あの画工たちなら、わがことのように喜んでくれるに違いない。
「サキ君、あなたには本当にお世話をおかけしました」
準男爵の両手が、サキの手を強く握りしめる。
「君がいなかったら、あの子は今頃断頭台だったかもしれません」
「いえ、僕一人の手柄じゃありません」
謙遜ではなく、サキは本気でそう思っていた。
「たしかに僕は、カヤを救うために全力を尽くしたと思っています。けど、工房の人たちや先生の知識がなかったら外套は見つけられなかったでしょう。そういう意味で、これはカヤの力です。工房だけじゃない、重要な情報を提供してくれた御者の一人は、前に、カヤが絵を描いてくれたことを感謝してました。あれ程周囲の人々に慕われていなかったら、証拠は集まらなかったかもしれない。カヤの行いが、カヤを助けたんですよ。カヤは助かるべくして助かったんです」
「そう言ってもらえると、救われた気分になりますね」
準男爵は空を見上げた。今、自分が口にした内容は、以前に準男爵が話していたものと似通っていたことにサキは気付く。
今回の一件でサキが学んだのは、人と人との繋がりは尊い、ということだ。
言葉に直すと陳腐に響くかもしれないが、サキは本気でそう考えていた。家族愛、忠誠心、そういった長きに渡る結びつきばかりではない。ほんのひととき、一瞬、交わった人間から重要な何事かを得られる場合もある。ゲラクやピエロの証言から外套を見つけだしたように。
思い返してみると、自分は権力者になりたかったのだ。
権力者とは、人を束ねる者だ。そんな立場にいるものが、人の心を考えずに権勢を保てるわけがない。
座右の銘にしようか、とサキは半分ふざけて考える。
「権力者は、人心を活用するものである」
なんだかありきたりだ。
「人の心は、権力者にとって至上の刃である」
少しキザったらしい。
「人の心は、権力者の冠である」
よくわからない……
ま、言葉にしなくてもいい。サキの心には焼き付いている。
それにしても疲れた。正門外に待ち受けていた新聞戦車たちに無罪評決の顛末を語りながら、サキは雪崩のように押し寄せる疲労と戦っていた。今度はたぶん、按摩してもらってもだめだ。帰ったら、ゆっくり眠りたい。
この二ヶ月足らずで、これまでの人生では経験しなかった生命の危機に見舞われ、最大限に頭脳を働かせもした。どちらもしばらくは御免だ。いや、一生やりたくない。
サキは決意する。僕は国家元首なんだ。今後は危難に身を投じたりしない。難問に頭を悩ませたりもしない。
面倒事は、全部他人に任せて安全圏でのんびり過ごすのだ。
無理だった。