摂政府
文字数 3,417文字
二週間が過ぎた。
朝、大通りを駆ける馬車の小窓から、ニコラは外の景色を眺めた。窓際で羽を休めていた冬鳥が飛び立つ。空から
ぱらぱら
と、あられの走る音。カザルスを迎えた翌日、サキは侯爵邸を出て摂政府に移った。
摂政府は国王の不在時、だしぬけに即位されるには角が立ちそうな人物にあてがわれることになっている建物だ。ここの主として迎え入れられた時点で、その人物は「摂政殿下」と呼ばれるようになる。数年、この場所で政務をとり、ほとぼりが冷めた後で、国王として正式に即位するのだ。
馬車を正門に待たせ、ニコラは摂政府の小路を歩く。
この日、ニコラに従者は一人もいない。
じつは正門で彼女を迎えた警備兵も、今、案内してくれている下男も、本来は侯爵邸の雇用人だ。突然開かれた摂政府には最小限の管理役しか雇われていなかったため、侯爵邸から人員を割く成り行きとなったのだ。
だからニコラも、別邸の感覚でやって来ている。大きな口を叩きながら、弟は早速、実家の世話になっているのだった。
にもかかわらず、あれからサキは侯爵邸へ帰ってこない。そのためニコラが様子を見に訪れたのだった。
幸い摂政府は、侯爵邸から五分の近さ。面倒と思うほどの用事ではない。
正門から膝丈の灌木が左右に並び、ニコラを摂政府本館へ導いてくれる。小高い丘を越えると、一対のアーチに支えられた石造りの塔が現れた。この塔が、摂政府の中枢だ。数百年前、この地に初めて移住した人々が拵えた塔を現王家が接収、補強のためにアーチを継ぎ足す改造を行い、現在に至っている。年代の異なる建築様式が混ざったキメラのような建造物だが、質素な石塔と対照的に瀟洒な彫刻の施されたアーチが取り合わせの妙を醸し出している。
たとえるなら、美しい翼をまとった無骨な巨人、という趣だろうか。
アーチの影が灌木につくる複雑な影を見て、ニコラはカヤのことを考えた。彼女なら、影が燃えているみたい、などと言ってスケッチに勤しみそうだ。
「いいね、そこの樹のところ!影が燃えてるみたい!」
いた。
見落としたのは、ベールの色汚れが樹木に似ていたせいだ。ニコラのすぐ後ろの灌木から上半身だけ覗かせ、何かの紙切れに墨を塗りたくっている。この少女の「画欲」とでも呼ぶべき衝動は、時、所を選ばない。
「ちょっとそのまま固まって。ニコラの輪郭と影、いい感じに溶けてるから」
しばらく言われるままにした後、ニコラは訊いた。
「サキはどうしていますか?」
「ああしてるみたい」
カヤは墨石で塔の裏側を示した。メイドが数人、こちらへ向かって走って来る。全員、ニコラの知らない顔だ。きゃははとふざけながら、誰かに追われているようだ。
「待て待てえ」
続いて、サキが目隠し姿で現れた。こっちこっち、とメイドが手をたたく。おぼつかない足取りながらサキは位置を読み取り、最後尾のメイドに抱きついた。
「つかまえたー」
「きゃっ、つかまっちゃいました」
メイドは身をよじる。双方、不安定な姿勢のため足がもつれ、ごろごろと草地に転がった。摂政殿下は草まみれになったが、女の子の下敷きになって嬉しそうだ。いち早く立ち上がったメイドは、笑って走り去った。
頭部の草を払い、目隠しも取って、サキは深呼吸をする。
「ああ、楽しかった」
ニコラは弟に平手打ちを食らわせた。
「オベェ――ッ」
サキの口から、安物の革袋が裂けるような音。
「お!いい構図」カヤが感心して、スケッチの対象を変える。
「あああ、姉上、いらしてたんですか」
ニコラは塔の裏側を流れる小川を指差した。
「サキ、川へ流れなさい」
「姉上、待ってください姉上」
「前てません。川に流れなさい。あるいは土に還りなさい」
「誤解です。今の人たちは評議会の指金ではありません。僕が自分で雇いました」
「……より悪いように思われますが」
「違うんです。僕は自分の欲望を再確認していたのです」
サキは真剣そのものの表情を向けてくる。
「メイドと追いかけっこ。たしかにすばらしい。絵に描いたような放蕩貴族の快楽です。けれどもこの地位を得た結果味わうことのできる愉しみに比べたら、全然大したことがありません。付いてきてください!」
熱に浮かされたように言葉を連ねる弟に連れられて、ニコラは本館の執務室にやってきた。そこは室内の調度が判別できない程、書類の山で埋め尽くされた部屋だった。
「評議会は案外、話のわかる連中です。僕に女の子をあてがうのではなく、ちゃんとした権限を与えてくれました」
書類の一枚を、サキは取り上げる。
「これは、聖リナルド協会の庭園内にカルーナの木を増やす許可を求めた申請書です。これにサインすることで、来週から百本の植樹が開始されます」
「それが?」
ニコラの問いかけに、弟は姉の反応が信じられないという面持ちになった。
「姉上、百本の植樹に職人が何人必要かわかりますか?百五十人だそうです。加えて日がな作業を行うのですから、彼らの昼食も欠かせません。昼食担当の炊事婦がさらに五十人!」
サキはまるで重要な条約を記した文書であるように、申請書を頭の上にかざした。
「僕がこの文書にサインするだけで!ほんの数ミリペンを動かすだけで!二百人を動かすことになる……これぞ、権・力!」
「はあ……」
「こっちなんか、もっとすごいですよ!」
別の紙切れをサキは拾い上げる。それは一見、公文書の山に場違いな代物だった。
縦長の紙に、数十の横線が等間隔に引かれ、各所に様々な高さで黒い正方形が打たれている。ニコラは回教徒のモスクで似たような模様を目にした覚えがあったが、こちらは細部の造形が単純だ。
「これは軍の情報将校が発案した新しい暗号です」
熱に浮かされた瞳でサキは言う。
「それなりの機密であるため詳細はお伝えできませんが、定められた規則に従って縦線を引くと、分割された範囲ごとに模様が生まれ、それを元に暗号文を作成する仕組みになっています。この暗号を採用するかどうかも僕のサインが必要なんです」
興奮気味に動く指が次に示したのは、窓のカーテンを開け閉めする様子が図示された書類だった。
「こっちは、近距離通信の説明図です。建物の中から外にいる兵士へ命令を送る際、カーテンを規則的に動かして、手旗信号のように命令を伝えます。この方式を実施するのにも、僕のサインが求められているんです!」
「はあ」
「僕がほんの少し手を動かすためで、サインをしたためるだけで、我が国の兵士の振る舞いが変化するんです。数万人の行動がですよ?なんて素晴らしい!」
何がそんなに嬉しいのだろう、とニコラは訝る。暗号や通信方についていくつかの案があり、サキがそれを選ぶというのなら大きな影響力があるといえるだろうが、今、説明を聞いた限りでは、すでに固まった案を追認するだけだ。責任がないとは言えないが、大喜びするくらいの裁量権があるとは思えない。
だがこれ以上口をはさむのをためらうほど、サキの様子がおかしい。平素からある程度はおかしなところがある弟だけど、今は頗るおかしい。
「ウ……」
サキの唇が震える。
「ウ?」
「ウヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!」
人間が「ウヒヒヒヒ」と笑うのを、ニコラは初めて聴いた。
「権・力!これぞ権・力!僕の決定、僕のペン先、僕の書面が他者に糸を張り、紡ぎだす力――これが権力なのです!」
「あの……」
「ここに権力!あそこに権力!それ権力、やれ権力、ウヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!」
人間が「ウヒヒヒヒ」と笑うのを、ニコラは二度聴いた。
散らばった書類を指さし、サキは権力、権力、とわめき続けている。
弟を放置し、ニコラは塔を出た。
「サキ、どんな感じだった?おかしくなかった?まあ、前々からおかしかったけど」
先程とは別の装飾をスケッチしながら、カヤが訊いてくる。
「……」
「やだ、ニコラどしたの」
言われて、ようやく気付く。頬に熱いものが流れていた。
「どしたの、サキにひどいこと言われた?」
「いいえ、酷いのは私たちです」
涙を拭おうともせず、ニコラは言う。
「自分で評価するのも滑稽ですが、私は知性に恵まれました。兄上もそうでした。でもそれは、サキの取り分を奪いすぎていただけのようです」
はずれくじを引いた弟を想い、ニコラはさらに哀しくなった。
「かわいそうサキ。頭が悪くてかわいそう。おろかでかわいそう……」
「涙、絵になるねニコラ。描いていい?」