春の宮殿へ
文字数 3,119文字
羽飾りが揺れている。それまで余り発言しなかったマリオンが、突然、書類を手に持って説明を始めたのだ。紫の羽飾りは唇のすぐ下にあるため、吐息に合わせて震える。鈍重な毛虫のようで、不快だ。
「民衆、と申しましても、ずぶの素人ではございません。我が国では近年、バイエルンやファルツの例に倣い、『選抜民兵』という軍制を導入しております。これは良民より適性のあるものを選出、週一回の軍事教練を施し、危急の折に主に防衛用の戦力として動員するというもので、まだ試験段階ではありますが、各々自宅に軍装一式を保管させています。これに王都に残っていた将官たちを割り当てれば、練度は怪しいながら、軍隊の形は出来上がります」
はっきりした発音だが、サキは上手く聴き取ることができない。頭蓋骨と脳みその間に重たい海綿状の何かが滑り込み、ずるずる蠢いている錯覚があるからだ。それでも早鐘を打つ心臓だけが、これは現実であると教えてくれる。悪夢のような現実だ。
「殿下には、この選抜民兵を率いていただきます。王都の市民、加えて王都近郊のカシュやアーランドといった農村からかき集めて四千余名。これらに先ほど議長より説明のあった、王都の騎兵五百騎、歩兵五百名を加えて五千弱の兵力となります。短期間であれば、兵糧は王都の備蓄でまかなえるはずです」
その短期間、というのは全滅するまでの期間だろうか、とサキは考える。
五千。対する共和国軍はすくなく見積もっても一万五千……
三倍の兵力差。しかも相手はグロチウス。
「ただし、王都に籠城は難しくなります。カシュもアーランドも、王都までの道すがらですからね。指を加えて民兵たちの故郷を蹂躙させた後、さあ都を守って下さい、とは心が痛みます」
何でこの男は当たり前のように話しているのだろう。この僕が、大した軍事知識もない十四歳が、こんな馬鹿げた重荷を喜んで引き受けるとでも思っているのだろうか。
そこまで話すとマリオンは黙った。説明役がグリムに戻る。厄介ごとを押し付ける役目はこの巨人が担うようだ。
「それゆえカシュとアーランドの手前、アーカベルグ平原に布陣していただき、君主の模範としての振る舞いをお願いしたいのです」
「振る舞いと言われても」
サキは喉を震わせる。
「三倍の兵力差で、何をどうしろと?」
「万に一つの奇跡が起これば、撃退できるかも知れません」
グリムの発言は、最高位の軍人とは信じられないくらい無責任なものだった。
「千に一つの幸運があれば、住民全てを避難させる時間が稼げるかもしれません。残念なことに、奇跡も幸運も訪れず、王都は陥ち、民が暴虐にさらされたとしても」
グリムは岩のような両手を顔の前で擦り合わせる。
「若干十四歳の新君主が、その命を盾にして民衆を守ろうと奮戦されたと知れば――民衆は感涙にむせび、革命が我が国に飛び火するには至らないでしょう」
「待て、待て、待って!」
「すでに選抜民兵はアーカベルグへの移動を開始しております。計算では、布陣が終了した数時間後に革命軍が到着する予定です。敵の進路は確定していないので、上手くアーカベルグへ誘導する必要がございますが……」
「待てと言ってるだろ!」
サキは円卓に両手を打ち付け、派手な音を立てようとしたが、角度が悪く、ごり、と半端な音と掌が痛んだだけ。
「なぜ、僕が、やらなきゃいけない!この窮地はあなたたちの責任だろう!あなたたちの誰かが戦場に立てばいいじゃないか!」
「うん、うん、おっしゃる通り」
大げさに腕組して、巨人は頷いた。
「しかし殿下、これから身も蓋もないことを申し上げるので、お許しください」
一拍置いて、グリムは告げる。
「我々は、この国に必要な人材なのです」
本当に身も蓋もなかった。
「……僕は、必要ではないと」
その問いに、グリムは無言で軽く肩をすくめ、残る三人の委員も倣う。頭の不愉快が凍り、針のような刺激となってこめかみを責めた。
数秒の無言を置いて、巨人は優しく語る。
「適材適所がございます。この場合、戦場に最も相応しい方が殿下なのです」
グリムはゼンマコヴァに目配せする。老人は近くの本棚から、一冊の書物を抜き取った。受け取った巨人は恭しい手つきでそれをサキに差し出し、広げた。
『決闘の王子』の脚本集だ。 吐き気がする。
「『決闘の王子』は我が国のみならず、近隣諸国の民衆にも膾炙している物語です。紙芝居に作り替えて、文字も読めぬ民衆に供している地域もあるそうです。他国の者に、わが国について何か知っているかと問えば、「決闘の王子」という答えが返ってくるのは確実とか。それは共和国軍の兵士も同じであるはずです」
グリムは脚本を高く掲げた。巨人の手と比較すると豆本のようだ。
「この物語は、殿下のご先祖がしたためられたものと存じ上げております」
サキは暗澹たる気持ちだった。
決闘の王子一色の黒繭家から抜け出したかったのだ。
それなのに、この物語が自分に災厄をもたらしている……
「加えて殿下は、作中の王子と同じお年頃。革命軍は、同一視してくれることでしょう」
蝶の標本を触るような繊細な手つきで巨人は本を閉じる。
「申し上げた通り、我が軍の布陣予定地は、この王都ではなくアーカベルグ。革命軍としてはアーカベルグを迂回するという選択肢もあり得るのです。ですがアーカベルグに『決闘の王子』が来ていると知ればグロチウスはそちらへ回らざるを得なくなるでしょう。我が国の象徴のような『決闘の王子』の首をとろうと彼らが血眼になっている間、王都では民が避難するための時間を稼ぐことができるのです。これは殿下でなければ成り立たない戦略なのです」
「僕は乗りません。乗せられませんよ」
サキは本を睨みつけた。グリムを直接射貫く勇気はない。
「引き受けていただけない!これは残念だ」
悲しげに首を振るグリム。
「こんな使われ方をするのは御免です。残念ですが、摂政の座も退かせていただきます」
「ほう、君主をやめる」
大粒の葡萄のように目を丸め、唇を窄めるグリム。癇に障る演出だ。
「それで、どうなさるのですか」
「どうなさるって……さっさと避難させていただきます」
「避難ですか。しかし先に申し上げました通り、移動のための物資が不足しております。我々貴族は国家の基幹ゆえ、軍用の馬車荷車を割いて避難に用立てるつもりなのですが、そのう……」
巨体を縮こまらせ、グリムはわざとらしい恐縮の体をとる。
「まことに遺憾ながら、黒繭家の方々には……お譲りできないかもしれません」
こいつら……
いつの間にか――もしかしたら最初から――「詰んでいる」ことに気づいて、サキは愕然とする。
「まあ、気楽にお構え下さい。実質的な指揮は正規軍から将官を回しますので、殿下は突っ立っているだけで結構です」
「つったっているだけ」興奮の余り、裏声が出た。
「でも革命軍が突撃をかけてきたり、捕虜にされたりした場合はどうなるんです!」
「どうなるって、わはははははは」
巨人は笑う。笑う文脈ではない。
「ははっ。まあその、あれです。おなじみの慣用句ですな。あれですよ」
酒席の戯言のような調子で、グリムは告げた。
「要するに……『宮殿を移っていただく』ことになりますなあ」
使われる機会、あった。