かけらの勇気
文字数 1,922文字
グロチウスは考える。眼前の王国軍を破り、本国へ帰還できれば見通しは悪いものでない。王国の喉元に、刃こそ突き立てられなかったが、肉薄するには至った。同じことをやられるかもしれない、と他国の首脳陣が恐怖してくれるなら、戦略上の目的は果たしたことになる。
そして現時点で共和国軍首都を包囲している王国軍だが、行軍速度を重視したため、グロチウスの手勢ほどではないにせよ、兵站に弱点を抱えているはずだ。グロチウスが舞い戻れば、おそらく大した抵抗も見せず撤退するだろう。
それゆえ勝負は、この軍勢が迅速に、傷を負わず帰還できるかにかかっている。
「追撃が来る。右翼27番と48番の間を固めておけ」
断言するグロチウスに対して、副官は虚を突かれた面もちだった。
「追撃というのは、つまりアーカベルグ方面からですか」
「他にないだろう。おそらく件の少年摂政が率いているだろうな」
「いくらなんでもそれはーー」
言いかけて、副官は口をつぐむ。
「そう、いくらなんでもだ。アーカベルグで我々はそう考え、十四歳の摂政が捨て駒であるという可能性を隅に押しやった。その結果がこの窮状だ。だとすれば、今、頭に浮かぶ『いくらなんでも』も軽視すべきではあるまい」
サキは決意した。ーーーーー今後の人生、政治家と軍人は絶対に信用しない。とくに軍人は最悪だ。なかでも大佐以上は論外だ。こいつらは、誠実さを母親のお腹に落としてきたような連中ばかりだ。
サキはまたしても戦場に立っている。銃弾に身をさらすなんてもうこりごりだったのに、流れでこうなってしまったのだ。
追撃に移った王国軍が国境手前で出くわしたのは、混戦にうねる二本の縦列だった。
秩序に固まっていた軍勢が互いを削り、混沌にばらけて行くこの状況で、援軍に期待される仕事はただ一つ。それはぎりぎりで踏みとどまっている敵部隊の統制に楔を打ち込むことだ。もちろんこちらは小勢であるため、敵軍の「この部分」という急所をとらえる必要がある。
近づく戦場を見据えながら、フェルミは伝令に鋭い口調で何度か指示を与えていたが、
「はい殿下、一席お願いします」
突然サキを振り返り、要求した。
「えっ」
聞き返すサキに、大佐は簡単な手伝いを忘れた幼児に対するような口振りで補足する。
「あのね、兵士たちはこれ以上戦いたくないんですよ。その沈み具合を、あんたの稚拙で青臭い演説で引き上げてもらわないと」
「僕も戦いたくない一人なんだけどな!」
「ですからその戦いたくない殿下の言葉だから響くんですよ。ちょっとは」
「……ええと、五分、いや三分くれ」練り上げる時間を求めるサキだったが、
「お前ら、摂政殿下がありがたいお言葉をくださるそうだーーー」
撃つぞ。けれども行進の音が静まって、皆の意識が自分に向かってくるのがわかるので、口を開く他にない。件の拡声器を掲げ、サキは息を吸う。
「……ええ、みんな、がんばれ」
フェルミがなんだそりゃ、という面をした。じゃあお前がしゃべれよ。
「いや、そんなこと言われてもがんばりたくないのが正直なところだろう。ほんの一日前、皆は生死の境をくぐり抜けた。命を賭ける機会なんて、もうあれだけで充分だと考えるのも無理はない。ぼくだってそう思う」
兵士たちの顔に戸惑いが広がった。そんな発想が摂政殿下の脳内にあるはずがないと思っていたのだろうか?想像力の乏しい奴らだ、という嘲笑を努力してこらえる。
「おとぎ話や、歴史書に語られる英雄は、その、なんだ、本当に立派な人たちだ。満腹になるくらいの危難に見舞われながら、恐怖を殺して一生を駆け抜けた。僕らには無理だ。せいぜい、昨日の勇気で限界だ。ざんねんながら、僕も含め、この中には英雄なんていない!でも、だけど」
戦場に至るまで視線を合わせることさえおっくうだった兵士たち。彼らを今、サキは眼差しで縫いつけている。
「ここでもう一がんばりしなければ国が死ぬ!国家への忠誠、郷土への想い。人それぞれかもしれないが、ここで負ければ僕たちをこれまで生かしてくれた結び付きが途絶えることは確かなんだ。だから、あと一回だけ勇気を絞ってくれないか。一生の間、勇気を奮い続けた偉人を英雄と呼ぶならばーー」
息継ぎをする内に、サキは良さそうな言い回しを思いついた。
「僕たちは一時間だけの英雄で構わない!一時間だけの英雄が、五千人集まって本物の英雄を倒す!皆のかけらを集めて、革命の剣を刃こぼれさせてやれっ」
傍らのフェルミが渋面をつくる中、歓声の洪水が巻き起こる。
しまった。サキは後悔する。
この流れ、僕も前線にいなきゃならないやつだ。
そして現時点で共和国軍首都を包囲している王国軍だが、行軍速度を重視したため、グロチウスの手勢ほどではないにせよ、兵站に弱点を抱えているはずだ。グロチウスが舞い戻れば、おそらく大した抵抗も見せず撤退するだろう。
それゆえ勝負は、この軍勢が迅速に、傷を負わず帰還できるかにかかっている。
「追撃が来る。右翼27番と48番の間を固めておけ」
断言するグロチウスに対して、副官は虚を突かれた面もちだった。
「追撃というのは、つまりアーカベルグ方面からですか」
「他にないだろう。おそらく件の少年摂政が率いているだろうな」
「いくらなんでもそれはーー」
言いかけて、副官は口をつぐむ。
「そう、いくらなんでもだ。アーカベルグで我々はそう考え、十四歳の摂政が捨て駒であるという可能性を隅に押しやった。その結果がこの窮状だ。だとすれば、今、頭に浮かぶ『いくらなんでも』も軽視すべきではあるまい」
サキは決意した。ーーーーー今後の人生、政治家と軍人は絶対に信用しない。とくに軍人は最悪だ。なかでも大佐以上は論外だ。こいつらは、誠実さを母親のお腹に落としてきたような連中ばかりだ。
サキはまたしても戦場に立っている。銃弾に身をさらすなんてもうこりごりだったのに、流れでこうなってしまったのだ。
追撃に移った王国軍が国境手前で出くわしたのは、混戦にうねる二本の縦列だった。
秩序に固まっていた軍勢が互いを削り、混沌にばらけて行くこの状況で、援軍に期待される仕事はただ一つ。それはぎりぎりで踏みとどまっている敵部隊の統制に楔を打ち込むことだ。もちろんこちらは小勢であるため、敵軍の「この部分」という急所をとらえる必要がある。
近づく戦場を見据えながら、フェルミは伝令に鋭い口調で何度か指示を与えていたが、
「はい殿下、一席お願いします」
突然サキを振り返り、要求した。
「えっ」
聞き返すサキに、大佐は簡単な手伝いを忘れた幼児に対するような口振りで補足する。
「あのね、兵士たちはこれ以上戦いたくないんですよ。その沈み具合を、あんたの稚拙で青臭い演説で引き上げてもらわないと」
「僕も戦いたくない一人なんだけどな!」
「ですからその戦いたくない殿下の言葉だから響くんですよ。ちょっとは」
「……ええと、五分、いや三分くれ」練り上げる時間を求めるサキだったが、
「お前ら、摂政殿下がありがたいお言葉をくださるそうだーーー」
撃つぞ。けれども行進の音が静まって、皆の意識が自分に向かってくるのがわかるので、口を開く他にない。件の拡声器を掲げ、サキは息を吸う。
「……ええ、みんな、がんばれ」
フェルミがなんだそりゃ、という面をした。じゃあお前がしゃべれよ。
「いや、そんなこと言われてもがんばりたくないのが正直なところだろう。ほんの一日前、皆は生死の境をくぐり抜けた。命を賭ける機会なんて、もうあれだけで充分だと考えるのも無理はない。ぼくだってそう思う」
兵士たちの顔に戸惑いが広がった。そんな発想が摂政殿下の脳内にあるはずがないと思っていたのだろうか?想像力の乏しい奴らだ、という嘲笑を努力してこらえる。
「おとぎ話や、歴史書に語られる英雄は、その、なんだ、本当に立派な人たちだ。満腹になるくらいの危難に見舞われながら、恐怖を殺して一生を駆け抜けた。僕らには無理だ。せいぜい、昨日の勇気で限界だ。ざんねんながら、僕も含め、この中には英雄なんていない!でも、だけど」
戦場に至るまで視線を合わせることさえおっくうだった兵士たち。彼らを今、サキは眼差しで縫いつけている。
「ここでもう一がんばりしなければ国が死ぬ!国家への忠誠、郷土への想い。人それぞれかもしれないが、ここで負ければ僕たちをこれまで生かしてくれた結び付きが途絶えることは確かなんだ。だから、あと一回だけ勇気を絞ってくれないか。一生の間、勇気を奮い続けた偉人を英雄と呼ぶならばーー」
息継ぎをする内に、サキは良さそうな言い回しを思いついた。
「僕たちは一時間だけの英雄で構わない!一時間だけの英雄が、五千人集まって本物の英雄を倒す!皆のかけらを集めて、革命の剣を刃こぼれさせてやれっ」
傍らのフェルミが渋面をつくる中、歓声の洪水が巻き起こる。
しまった。サキは後悔する。
この流れ、僕も前線にいなきゃならないやつだ。