電撃作戦

文字数 4,404文字

 



 他民族・多宗派の寄り合い所帯であった王国を無難に運営するため、建国期の君主たちは各集団固有の文化に寛容な態度を示し続けた。その結果、一集団の風習にすぎなかったものが国民全体に定着した例も存在する。

 当初は回教徒の風習だったハマーム(公衆浴場)もその一つだった。数日に一度は体を洗い、湯船に身を浸す。この快適さはキリスト教徒も認めざるを得なかった。ペストが水から伝染すると信じられていた中世においても、愛好家たちは風呂屋に通い続けた程だ。ハマームを愛好する領民への施しとして、同時に権勢の証明として各地の有力者は治水を行い、風呂に繋げる水路も整備させた。
 そのうちに目的を超えて水路の拡張そのものに情熱を見出す貴族も現れる。大勢を働かせ、自然を改造する作業は権力者にとって気分のいいものだったからだ。「水路道楽」という言葉さえ生まれた程で、その代表格が十五世紀に外戚として権勢を振るっていたバシエダ公だった。

 バシエダ公は王国首都ケインの北方から公国との国境までの間に長細い領地を持っていた。その領内に、ほぼ直線の運河を刻んだのだ。ケインから国境まで下降する勾配を付けて掘り進めたため、浮かべた小舟は、ひとりでに前ヘ進んだ。
 造りたいからつくった、というだけで、パシエダ公はそれ以上の構想を描いていたわけではない。しかしこの大事業は、単なる貴族の道楽の域をはるかに超えた影響を後世に及ぼしたのだった。

「まったく、面倒なものを通してくれたものだ」
 グロチウスは王国の地図に印字された直線を指差した。四百年近い時を経て、大運河の周囲には王国の主要都市が果実のようにぶらさがっている。水上輸送の利便性を活かし、周辺の農・商・工業が発展した結果だった。 
 その運搬力は軍事的にも多大な価値をもたらした。
  公国の軍人達にとって厄介なのは、

という点だった。
  河船に兵士を載せれば、王国首都から公国との国境まで、わずか一日程度で数万の兵士を送り届けることが可能だ。この時間は公国にとって恐るべき意味を持つ。国境線を突破し、どの主要都市を襲ったとしても――王都から一日足らずで援軍が至るため、じっくり腰を据えて攻略することが難しい。兵糧攻めが通用せず、攻め手のみが擦り減り、退却を余儀なくされるのだ。
「戦史をひもとくと、王国が公国と干戈を交える場合、まず国境付近のリーフト、続いて運河中途のハイユ、そして王都ケインより常駐の兵力を運河に乗せ、国境近辺に布陣させている。これから我々が戦いを挑んだ場合も、同じような対応になるだろう」
 グロチウスは王国の地図を指先でなぞった。
 この数十年、公国軍の王国に対する戦績はまずまずで、十戦すれば六勝はもぎとっている。
 にも関わらず、王国の国境を南へ動かした例はない。
 国境の公国側では連勝を重ねても、王国側に戦力を集中されると手詰まりになってしまうからだ。
 運河を利用した、神速とも言うべき行軍。定石だが、だからこそ強い。
「将軍はお持ちなのですね。運河を打ち破る妙案を」
 一人の将官が問いかけた。それを思いつかなければ早期に王国を叩くといった言葉は出てこないはずだ。
 しかし老将軍はかぶりを振った。
「秘策など、ない。運河は放置する」
 クローゼは自分の耳を疑った。グロチウスは指先で地図を回し、
「王国軍が国境へ至ることは止めようがない。それは承知の上で、目くらましを使う。国内の浮浪者や囚人を集めて、見せかけだけの軍勢をつくる。はりぼてや砂埃の細工で、数をごまかすのもよかろう。国境に集めたそれらをこちらの主力に見せかけ、王国軍を釘付けにした上で」
 老将は地図の国境から、ケインまでを爪で弄った。
「北西より迂回する経路で主力を送り込み、ケインを囲む」
 動揺が、さざ波のように場を乱す。

「無意味です」
 異を唱えたのは、平素より顔色の悪い少壮の准将だった。つやのない顔に憐れみの表情を浮かべている。名将グロチウスも、とうとう老いたかと。
「無意味ではなかろう」
グロチウスは平然と応える。
「敵が国境に軍勢を終結させるなら、王都は手薄。何度か訪れたことがあるが、あの街は寡兵では守りづらい」
「一度は落としたとしてもです」
 准将はなおも抗った。
「敵主力が健在である限り、王都奪還に引き返してくるのは間違いないでしょう。こちらは籠城するしかなく、相手は国内から糧食を補充できる。とても保てるものではありません」
「保つ必要はないのだ」
 グロチウスは、あっけらかんと言い放った。
「これから始める戦いは、領土拡張が目的ではない。我が国への侵攻を未然に防ぐために他国を叩く、いわば積極的な防衛だ。ならば我らが為すべきは、王国の脆さ、我が国の精強さを実質以上に印象付けることだ。『ケインが炎に包まれた』『建国以来、陥落の憂き目を見なかったあの王都が』その事実は列国の首脳陣に衝撃を与えることだろう。一度陥とされても挽回がきくという論理的な説明は、軍事に疎い者には届くまい。『王国の首都でさえ燃やされたのだ。我が国の首都も』と、各国の君主は震え上がるに違いない。王国も復興や遷都にかかりきりとなるため、連合を呼びかける余裕を失うだろう――こうして、内輪のいざこざに取り組む時間を、我らは手に入れる」
 グロチウスの言葉を吟味しながら、クローゼは、この老将に対する尊敬の念を深めていた。単純に、戦争が上手いだけの御仁ではない。君主たちの思惑、脆さ、恐怖心……戦場の外にある諸要素までも拾い上げる視野の広さを持っておられる。
「納得いたしました」
 異論を告げていた准将が、一転して晴れやかな表情で頷いた。他の将官も同様の面持ちだ。クローゼもようやく乗り気になっている。
「それではこの戦い、かってない程の強行軍となりますか」
 クローゼは頭の中で必要な食料や運搬経路の図面を描き始めた。少なくとも、陽動に気付いた王国軍が主力をケインに回すまでに、王都を陥落させなければならない。迅速に、かつ秘密裏に行軍を済ませることは可能だろうか。
「それに関して、諸将に検討してもらいたい方法がある」
グロチウスは大ぶりな羊皮紙を机の上に広げた。フランスから取り入れたばかりのメートル法に換算しながら、白紙にペンで数字を書き込み始める。
「今回、投入できる戦力は歩兵・騎兵合わせて一万五千弱といったところ。それらをまっとうな手順で進軍させる場合、一日三十キロが限界だろう。国境からケインまでおよそ百キロだから、少々じれったい速さと言える」
 諸将は暗い表情で頷いた。宣戦布告を行えば、王国軍は国内にも斥候を放つだろう。敵領内を大軍で行進するのだから、こちらが本命であることはそのうち判明してしまう。早目に気付かれてしまったら、ケインに辿り着けない。
「そこで、まっとうでない手段を使いたい。速度を上げるため、歩兵をバラバラに分けて進軍させる。具体的には、歩兵を十人一組で歩かせるのだ。この単位なら、一日から一日半で王都付近に至るはずだ。そこで集合させる」
 
 驚嘆と、困惑の混ざったどよめきが巻き起こった。
 進軍は、兵数が増えるほど速度が落ちるものだ。多ければ多いほど、大人数を制御して歩かせることに困難を伴う。しかし十人単位であれば、子供の遠足と変わらない。人一人が百キロを進むのと同感覚で移動できる。
 時間の節約になるばかりではなく、別れて行動させることにより、敵の偵察兵に総数を悟られないという利点も生じるのだ。
 もちろん、問題点がないわけではない。グロチウスはその辺りを諸将に指摘させ、細部を詰めようとしているのだ。

 間もなくして、将官たちから疑問点が指摘され始めた。その一つ一つに、老将は丁寧な回答を返す。
「王都の手前で集合するとして、陥落後の撤退はどのような手筈になるのでしょうか。往路同様に分割して移動するか、それともまとまって動きますか」
「復路は一万五千をまとめて行進する。国境から引き返してきた王国軍とぶつかる可能性が高いからだ」
「この方法ですと、各集団で到着時刻に隔たりが生まれます。到着が遅滞した集団はどのように扱いましょうか」
「ある程度の遅れは許容する。目安を設け、遅延が著しい集団には退却路の確保など、王都攻略以外の任務に参加させればよかろう」
「食料と水の確保は?手ぶらで一日半の行軍は厳しいかと」
「負担にならない分だけ持たせ、途中で補給させる。歩兵を送り込む前に、騎馬だけで構成した強襲部隊で先々の宿場町や村落を攻め落とし、そこで用意させる」
「銃器・弾薬の輸送はどのように図らいましょうか。分割可能なものは歩兵に持たせるとしても、大砲などは荷車が必要となり、輸送が遅れます」
「重荷の輸送に関しては、うってつけのペルシュロンを確保している」
グロチウスは愉快そうにあご髭を撫でた。ぺルシュロンは中世で重装歩兵の乗馬に使われたフランス原産の大型馬だ。元・公国では、ばんえい競馬(競走馬に橇を引かせる種目)で重宝されていた馬種だった。
「革命蜂起の際、真っ先に亡命したシズリ男爵が競馬狂いでな。百頭近いばんえい馬を残したまま逃げ出したために、軍で回収しているのだ。それだけあれば、重荷の輸送に充分だろう。人並みの速度で牽引できるはずだ」
「敵地の宿場町等で挑発を行うことが前提になっておりますが」
クローゼも、浮かんだ疑念を口にした。
「敵地の村々で指導的地位を占めている者を見つけ、糧食を用意されるという行為自体、手間のかかるものです。これらを円滑に運ぶために絵図を示していただきたい」
「その点もぬかりない。諸君らには、これらを参考にしてもらいたい」
 グロチウスは数十枚の書類を配下に回覧させた。
「国境からケインへの迂回路にある市町村・宿場町・部落の詳細だ」
 目を通す諸将の口から、各々、感嘆が漏れる。クローゼもまた、老将の用意周到さに驚きを隠せなかった。
「これは千金の価値があるものです。市町村の行政機関の配置、食料集積所の位置、宿場町で雇われている料理人の人数まで調べ上げている……これらを参照すれば、極めて効率的な徴発が可能です」
 戦地で略奪する方法は手軽ではあるが、どの町にどの程度の備蓄があるか判っていなければ、行軍が滞ってしまう。老将の開示した書類は、そうした面倒を省いてくれるものだった。
「このような情報、いつの間に?」
「革命が成る前からだ」グロチウスは当然のように答えた。 
 
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登場人物紹介

サキ

「王国」名門貴族 黒繭家の次男


ニコラ

黒繭家長女 サキの姉


カヤ

女流画家 サキとニコラの幼馴染

侯爵

黒繭家当主 演劇「決闘の王子」演出総責任者

クロア

黒繭家当主夫人 サキとニコラの母

フランケン

黒繭家執事

カザルス

王国軍少将 

グリム

赤薔薇家当主 王国軍「宮廷軍事評議会」議長

マリオン

宮廷軍事評議会副議長

イオナ

宮廷軍事評議会書記

ゼマンコヴァ

宮廷軍事評議会参議

フェルミ

王国軍大佐

ギディングス

王国軍中佐

グロチウス

共和国軍総司令官

クローゼ

共和国軍中将

バンド

赤薔薇家家宰

コレート

イオナの妻 青杖家当主

ゲラク

赤薔薇家邸宅「いばら荘」掃除夫

レシエ準男爵

王国宮廷画家

ロッド

王国軍少佐 サキ・ニコラの又いとこ

ピーター・ウッドジュニア

 売文家

ジョン・ドゥ

売文家

ジャン・バティスト・ベルナール・フォン・ラインシール

売文家

孔雀男

謎の怪人

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