収束する公理
文字数 6,202文字
フェルミは不服そうに腕を組んでいる。
マリオンはどう反応していいのか判らないようで、喜怒哀楽の中間のような顔で固まっていた。
孔雀男の声が聞こえなくなったので、サキは皆を代表するつもりで口を挿んだ。
「……待ってください。二番目の公理と、矛盾しているのでは?」
「仰る通りです。矛盾しています」
孔雀男の回答に、ざわめきがさらに広がった。
スイカとカボチャ、二匹の幽霊が、巻物の前で首を傾げている。
「ご安心ください。矛盾に気付かないほど愚かではありません」
孔雀男が宥めるような声を出す。
「しかしながら二番目の公理も、三番目の公理も正当な筋道を経て導き出されたものです。にもかかわらず、どうして正反対の結論へたどり着いたのか?実は、この食い違いこそが当案件の要点ともいえる重大事なのです。青空のように晴れ晴れと納得いただくために、いささか回りくどい論証となりますことをご承知いただきたい」
犯人は分かったが説明する時間がない、という姉の言葉を、サキは思い出していた。なるほど、自分には手に余るややこしさだ。
「別方向から組み立てた二つの論証が両立し得ない場合、新たに別枠の論証を用意して比較材料にするやり方が賢明です。犯行現場には、他にも犯人の属性を測る手がかりが残されていました。重ねてお手数ですが摂政殿下、犯行現場で本棚の書物が焼却されていた件についてご説明いただけますか」
「えーと、これは新聞に話してなかったかな……議長閣下の書き物机の近くに本棚があったんですが、中に並べてあった書物がごっそり無くなっていたんです。燃え残りが暖炉で見つかったので、犯人が棚から抜き出して火にくべたんだろうという結論になりました。書き物机の中にある便せんの類も、すべて消失していたからです。議長が不利益な書き付けを残したかもしれない、と犯人が慮った結果だろうと解釈しました」
「では次に、肖像画の下に隠れていた暗号文について教えていただけますか」
「……はいはい」
なんか孔雀男が僕より各上みたいになってないか、と反発しながら、サキは記憶をたぐる。
「拳銃や武具があった壁に絵も飾ってあるんですけど、その中の一つを壁から外すと、下に暗号が隠してあったんです」
「暗号は、最近運用が開始されたばかりのものですね」
「そうです。音符をならべたような形のもので、線を引いて区切ることで解読します。犯人が残した欺瞞ではなく、間違いなく議長が作らせた暗号文だと確認済です。解読はまだ終わっていないはずですが」
「ありがとうございます。実はこの暗号に関して、未公表の事柄があります。この会場のどこかにカヤ嬢がいらっしゃると思われますが」
孔雀男の声に合わせて、スイカとカボチャの幽霊が周囲を見渡すふりをする。
「その内容について、ご存じな部分を教えていただいてよろしいでしょうか?」
数秒の静寂の後、「いいよー」と声が返ってきた。
「ええと、あの暗号は、父から私に充てた遺言のようなものでした。事前に解読方法を教えてもらったの。あの日、お父さ……議長が亡くなっているのを見て、下へ伝えにいく前に気が付いたんです」
「あなたが発見したとき、暗号は絵の下に隠されておらず、一目見て判る位置に張り出されていた。これは間違いないですね?」
「はい」
カヤの声に、ばつの悪そうな色合いが混ざる。
「後で、わたしが絵を動かして暗号を隠したんです。なんか、混乱しちゃって……ややこしいことにしてごめんなさい」
「最初は隠れていなかった?」
ゼマンコヴァが目を丸くした。
「その暗号文、なんと書き残してあったか、さしつかえなければ話していただけますかの」
「幸せに生きてくれ、みたいな内容です」
「この事件と、関係のある文章ではなかったのか」
拍子抜けしたようにイオナがこぼしたが、素早く孔雀男が声を被せた。
「いいえ、関係はあります。関係ないことが関係していたのです」
またしても混乱させるような言い回しを投げる孔雀男に、サキは文句をはさみたくなった。
「もう少し、わかりやすく言ってもらえませんか」
「これは失礼。重要なのは、暗号がそのままの状態で張り出してあったという事実です。本や文書がすべて燃やされていたという状況を思い出してください。犯人は、都合の悪い情報を議長が残してはいないかと疑い、書き付けに使えるようなものを片っ端から炎にくべた。最初は本来の用途として使用する便せんの類から手を着けたことでしょう。その後で、本棚の書物も怪しいと考えた。本の余白にでも「犯人は○○」と書き込まれていたら、後で誰かが気付くかもしれない。それほど大きな本棚でもないし、抜き取って暖炉に放り込んでしまおう――犯人はそのように思いつき、実行したに違いありません。にもかかわらず」
心理的な効果を期待してか、孔雀男は一泊置いた。
「にもかかわらず、肝心の暗号文は処分しなかった。隠しもせずあからさまに壁に貼り付けてあった暗号文だけを見逃しているのです。これは、どうしてか?」
「だから、暗号の内容は犯人と関係なかったのだろう?燃やす必要なんてないではないか」
マリオンが苛立たしげに見解を述べるが、孔雀男は受け入れない。
「関係ないと、犯人は何故知っていたのでしょうか。この場にいらっしゃる軍属の方はご存じでしょうが、あの暗号は、解読に使用する『鍵』を知っていなければ解読できるものではない。仮に、犯人がなんらかの手段で鍵を入手していたとして、壁の暗号を睨みながら暗号を解読して行く、等と悠長なことをしていたとはとても思えません。どんな事情で、いつ階下から使用人があがってくるかもわからないのですからね。少しでも怪しいと思ったら、さっさと壁から剥がして暖炉に放り込めばよかった。破り捨てても問題なかったはずです。内容が気になるようなら、ポケットにでも入れて持ち帰ればよかったでしょう。ところが犯人は、なにもしていないのです」
「むむむ」
マリオンは胸の羽根飾りをしきりに回転させていたが、
「少し苦しいかもしれんが、こういうのはどうだろう。決闘の前に犯人は暗号に気付き、議長に対してあれは何と書いてあるのだと問いただした。この件とは関係ない、娘に当てた遺言だ、と議長は答え、鍵も示して犯人を納得させた――これなら暗号が放置された理由になるのでは?」
「議長が説明しても、犯人は信頼できたのでしょうか」
孔雀男は同意しなかった。
「あの暗号の便利な点は、複数の伝言を同時に入力できるところです。一つの鍵でカヤ嬢への伝言をしたためつつ、別の鍵を設定して二つ目の伝言を残すことも難しくはありません。犯人もその可能性に思い至るはず。少しでも疑念があれば、剥がして人目に触れないよう始末したはずです。ですが、そうはしなかった。しなかった理由として、考えられるものは一つです。犯人には、あの暗号が見えなかった」
松明と暗がりの狭間で、か細い悲鳴が響いた。
「待ってください。私では――私が犯人ではありません」
聴き覚えのある声だった。運び屋のピエロだ、とサキは思い出す。
「……失礼、目の不自由な方がいらっしゃったのですね。そういう意味ではありません。盲目では議長との間で対等な決闘が成り立ちませんから」
孔雀男が弁護すると、小さな溜息が闇に落ちた。
「この場合の『見えなかった』とは、『認識できなかった』という意味合いです」
認識できなかった?
意味をとらえかねていたサキに、孔雀男の質問が降ってきた。
「摂政殿下、この暗号の運用を開始する許可は、殿下が担当されたと聞き及んでおります。この暗号を初めて見たとき、どのように思われましたか」
「どのようにって」
サキはそのままを答えた。
「暗号には見えないなあ、と。楽譜の一部みたいだなあって。後、回教徒の寺院にあるような、幾何学模様にも似ています、が」
サキは口をつぐむ。認識できなかった、とはそういう意味か。
「お分かりのようですね。あの暗号は、知らない者が見たら、壁の装飾や異国の作品と見間違えかねないものです。肖像画等の美術品が並ぶ区域に張り出してあったこともあり、犯人はあれを、芸術作品の一種だと勘違いしたのです。絵画の中に伝言を書き入れる方法もなくはないでしょうが、あるのかどうかも決まっていない伝言を消すために美術品を火にくべるほど、無粋な犯人ではなかった」
「いや、しかしおかしいではないか」ゼマンコヴァが声をうわずらせる。
「あの暗号は、戦争前に運用が開始されている。あれが暗号であることは、選抜民兵も含めた軍の構成員すべてに周知されておる。とりわけ、議長と決闘が成立するような階級の者が知らないはずはない」
「仰るとおりです」
孔雀男の応答は、あくまで冷静なものだった。
「ですので、ここに第四の公理が成立します」
今度は藁を頭に巻き付けた幽霊が現れた。三番目の公理に続き、新たな公理を書き記す。
公理その四 犯人は軍人ではない
「同じじゃねーか!」
サキが突っ込みを入れる前に、群集の誰かが代役を務めてくれた。
「そうですね。全く異なる証拠、観点から、第三の公理と同じ結論が導き出されました。さて、さて、この先どのように論理を組み立てるべきでしょうか?」
人ごとのように話す怪人の声。三種の幽霊が、巻物の前で殴り合いを演じている。
公理その二 犯人は軍人である
公理その三 犯人は軍人ではない
公理その四 犯人は軍人ではない
「犯人は軍人であると主張する公理が一つあるのに対し、軍人ではないと主張する公理は二つ。多数決の観点からは二が間違いであると結論せざるを得ませんが、論理とは、数の暴力で決まるものではありません。ここに至って考えるべきは、定義の問題です。例えば『すべてのカラスは闇夜に紛れる』という公理は、カラスの羽がすべて黒ければ真となり得ますが、羽の白いカラスも存在するなら偽となってしまいます。カラスをどう定義するかによって、公理の価値は変化するのです。
当件の公理の中では、三つの公理に現れている『軍人』という言葉に注目すべきでしょう。第二、第三、第四の公理は、それぞれ異なる道筋の推理から導き出されたものです。ならば『軍人』という言葉の意味も、共通のものではないかもしれません。この言葉が指し示す対象を、再度確認して―――」
「いいかげんにしろっ」
マリオンが大声を上げて遮った。
「定義だの公理だのカラスだの論証だの、回りくどい話をだらだらと続けおって!さっさと答えをいえっ。こっちは一ヶ月近くもハラハラさせられてきたのだぞっ」
「申し訳ありませんが、結論は間近ですのでご容赦を」
孔雀男の声は冷静なままだった。
「ついでと言っては何ですが、マリオン評議員、『軍人』という言葉を定義していただけますか」
「だから、そういう小芝居が目障りだと言っておるのだろうが!」
激昂するマリオンのすぐ横で、いばらが人型に盛り上がり口を利いた。
「軍人という、言葉を、定義、していただけますか」
「……わかった、答える」
早々に根負けしたマリオンは、すぐに解答を捻り出した。
「戦闘行為によって国家に奉仕する者……いや、我が国の公僕の内、戦闘への従事を主たる役割としている者。こんなところではないか」
「ありがとうございます」
孔雀男の声に、満足げな響きが込められていた。
「今、閣下は『我が国の』と仰いましたね」
「それがどうしたというのだ」
「評議員のお言葉に合わせて、二番目以降の公理を書き換えてみましょう」
しばらくなにもしていなかった巨人の腕が、また指を鳴らす。幽霊たちがあたふたと動き周り、巻物に言葉を付け足した。
公理その三 犯人は(我が国の)軍人ではない
公理その四 犯人は(我が国の)軍人ではない
「なに」と呟いたきり、マリオンの動作が止まった。見物人の中からも、ぼそぼそと言葉が漏れてくる。
「すでにお気付きの方もいらっしゃるようですね」
幽霊三体の内、藁の幽霊とスイカの幽霊は言葉を付け足し終えたが、カボチャの幽霊だけは第二の公理の前で戸惑うようにふらついている。
「公理その三は、我が国の軍隊で外套がどのように扱われているかという事実から導き出したもの。公理その四も、我が国の軍属であるならば例の暗号を知っているはずという推定から導き出した結論。当然、『我が国』という語句を挿み込んでも意味は通ります。しかし」
強調するように、孔雀男は間を取った。
「公理その二は、軍服をまとっていた議長の決闘相手は同じ軍人に違いないという推論ですから、この国の軍人に限った話ではありません。つまり二番目の公理のみ、『我が国』という言葉は入らない」
ふーん、とギディングスが頷いた。
ばかな、とイオナは狼狽している。
「ここで、同じ意味合いであると判明した第三と第四の公理を一つにまとめ、公理その三改として書き換えた上で、もういちど並べてみましょう。矛盾が解消され、よりわかりやすい姿となります」
巻物が赤く光り、一瞬で焼失する。
煙の中から、新たな巻物が現れ、ひとりでに開いた。すでに新しい公理が記されている。
犯人特定の公理
公理その一 犯人は、議長閣下との間で決闘が成立する人物である
公理その二 犯人は軍人である
公理その三改 犯人は我が国の軍人ではない
ありえない、とゼマンコヴァが驚いている。面白い、とカザルスが笑った。
群衆が薄闇でも見て取れる程に動揺している。
「すでに皆さんの頭の中には、ある人物の名前が浮かび上がっていることでしょう」
巨人の腕がもういちど鳴ると、巻物が延びて幽霊たちと腕を包み込んだ。幽霊たちが一礼すると、巻物は回転しながら丸まり、空へと上って行った。後には、孔雀の羽だけが残された。
「犯人は、議長閣下との間で決闘が成立する他国の軍人。この条件から連想する人物は、皆、同じでしょう」
「……そうだったのか」
サキは自分でも意外に思うくらい冷静だった。驚愕はしたが、犯人に対する怒りはない。むしろこのときまで正体を隠し仰せた知謀と大胆さに、尊敬の念さえ覚えていた。
「これが演劇『決闘の王子』なら、名指しされた犯人は狼狽え、醜態を晒しながら官憲に引っ張られていく筋書きでしょう。残念ながら本件で、それは叶わない。犯人は、すでに冥府へ旅立っているのですから」
孔雀男が言葉を切ると、さっきまで幽霊たちが居た場所に一匹の鳥が現れた。本物と見まがうほど精巧な、孔雀の縫いぐるみ。歩みを止め、サキのいる方に嘴を向けた。
「摂政殿下」
縫いぐるみが口を空ける。
「どうか、この事件に注力された殿下のお口より」
案山子が懇願する。
「犯人の名前を、宣言いただけますでしょうか」
いばらの唇が提案した。
「……犯人は」
戸惑いがちに、しかし集まった人々全てに聴き取れるよう、明瞭な声でサキは告げた。
「共和国軍最高司令官、ジャン・ジャック・グロチウス」
マリオンはどう反応していいのか判らないようで、喜怒哀楽の中間のような顔で固まっていた。
孔雀男の声が聞こえなくなったので、サキは皆を代表するつもりで口を挿んだ。
「……待ってください。二番目の公理と、矛盾しているのでは?」
「仰る通りです。矛盾しています」
孔雀男の回答に、ざわめきがさらに広がった。
スイカとカボチャ、二匹の幽霊が、巻物の前で首を傾げている。
「ご安心ください。矛盾に気付かないほど愚かではありません」
孔雀男が宥めるような声を出す。
「しかしながら二番目の公理も、三番目の公理も正当な筋道を経て導き出されたものです。にもかかわらず、どうして正反対の結論へたどり着いたのか?実は、この食い違いこそが当案件の要点ともいえる重大事なのです。青空のように晴れ晴れと納得いただくために、いささか回りくどい論証となりますことをご承知いただきたい」
犯人は分かったが説明する時間がない、という姉の言葉を、サキは思い出していた。なるほど、自分には手に余るややこしさだ。
「別方向から組み立てた二つの論証が両立し得ない場合、新たに別枠の論証を用意して比較材料にするやり方が賢明です。犯行現場には、他にも犯人の属性を測る手がかりが残されていました。重ねてお手数ですが摂政殿下、犯行現場で本棚の書物が焼却されていた件についてご説明いただけますか」
「えーと、これは新聞に話してなかったかな……議長閣下の書き物机の近くに本棚があったんですが、中に並べてあった書物がごっそり無くなっていたんです。燃え残りが暖炉で見つかったので、犯人が棚から抜き出して火にくべたんだろうという結論になりました。書き物机の中にある便せんの類も、すべて消失していたからです。議長が不利益な書き付けを残したかもしれない、と犯人が慮った結果だろうと解釈しました」
「では次に、肖像画の下に隠れていた暗号文について教えていただけますか」
「……はいはい」
なんか孔雀男が僕より各上みたいになってないか、と反発しながら、サキは記憶をたぐる。
「拳銃や武具があった壁に絵も飾ってあるんですけど、その中の一つを壁から外すと、下に暗号が隠してあったんです」
「暗号は、最近運用が開始されたばかりのものですね」
「そうです。音符をならべたような形のもので、線を引いて区切ることで解読します。犯人が残した欺瞞ではなく、間違いなく議長が作らせた暗号文だと確認済です。解読はまだ終わっていないはずですが」
「ありがとうございます。実はこの暗号に関して、未公表の事柄があります。この会場のどこかにカヤ嬢がいらっしゃると思われますが」
孔雀男の声に合わせて、スイカとカボチャの幽霊が周囲を見渡すふりをする。
「その内容について、ご存じな部分を教えていただいてよろしいでしょうか?」
数秒の静寂の後、「いいよー」と声が返ってきた。
「ええと、あの暗号は、父から私に充てた遺言のようなものでした。事前に解読方法を教えてもらったの。あの日、お父さ……議長が亡くなっているのを見て、下へ伝えにいく前に気が付いたんです」
「あなたが発見したとき、暗号は絵の下に隠されておらず、一目見て判る位置に張り出されていた。これは間違いないですね?」
「はい」
カヤの声に、ばつの悪そうな色合いが混ざる。
「後で、わたしが絵を動かして暗号を隠したんです。なんか、混乱しちゃって……ややこしいことにしてごめんなさい」
「最初は隠れていなかった?」
ゼマンコヴァが目を丸くした。
「その暗号文、なんと書き残してあったか、さしつかえなければ話していただけますかの」
「幸せに生きてくれ、みたいな内容です」
「この事件と、関係のある文章ではなかったのか」
拍子抜けしたようにイオナがこぼしたが、素早く孔雀男が声を被せた。
「いいえ、関係はあります。関係ないことが関係していたのです」
またしても混乱させるような言い回しを投げる孔雀男に、サキは文句をはさみたくなった。
「もう少し、わかりやすく言ってもらえませんか」
「これは失礼。重要なのは、暗号がそのままの状態で張り出してあったという事実です。本や文書がすべて燃やされていたという状況を思い出してください。犯人は、都合の悪い情報を議長が残してはいないかと疑い、書き付けに使えるようなものを片っ端から炎にくべた。最初は本来の用途として使用する便せんの類から手を着けたことでしょう。その後で、本棚の書物も怪しいと考えた。本の余白にでも「犯人は○○」と書き込まれていたら、後で誰かが気付くかもしれない。それほど大きな本棚でもないし、抜き取って暖炉に放り込んでしまおう――犯人はそのように思いつき、実行したに違いありません。にもかかわらず」
心理的な効果を期待してか、孔雀男は一泊置いた。
「にもかかわらず、肝心の暗号文は処分しなかった。隠しもせずあからさまに壁に貼り付けてあった暗号文だけを見逃しているのです。これは、どうしてか?」
「だから、暗号の内容は犯人と関係なかったのだろう?燃やす必要なんてないではないか」
マリオンが苛立たしげに見解を述べるが、孔雀男は受け入れない。
「関係ないと、犯人は何故知っていたのでしょうか。この場にいらっしゃる軍属の方はご存じでしょうが、あの暗号は、解読に使用する『鍵』を知っていなければ解読できるものではない。仮に、犯人がなんらかの手段で鍵を入手していたとして、壁の暗号を睨みながら暗号を解読して行く、等と悠長なことをしていたとはとても思えません。どんな事情で、いつ階下から使用人があがってくるかもわからないのですからね。少しでも怪しいと思ったら、さっさと壁から剥がして暖炉に放り込めばよかった。破り捨てても問題なかったはずです。内容が気になるようなら、ポケットにでも入れて持ち帰ればよかったでしょう。ところが犯人は、なにもしていないのです」
「むむむ」
マリオンは胸の羽根飾りをしきりに回転させていたが、
「少し苦しいかもしれんが、こういうのはどうだろう。決闘の前に犯人は暗号に気付き、議長に対してあれは何と書いてあるのだと問いただした。この件とは関係ない、娘に当てた遺言だ、と議長は答え、鍵も示して犯人を納得させた――これなら暗号が放置された理由になるのでは?」
「議長が説明しても、犯人は信頼できたのでしょうか」
孔雀男は同意しなかった。
「あの暗号の便利な点は、複数の伝言を同時に入力できるところです。一つの鍵でカヤ嬢への伝言をしたためつつ、別の鍵を設定して二つ目の伝言を残すことも難しくはありません。犯人もその可能性に思い至るはず。少しでも疑念があれば、剥がして人目に触れないよう始末したはずです。ですが、そうはしなかった。しなかった理由として、考えられるものは一つです。犯人には、あの暗号が見えなかった」
松明と暗がりの狭間で、か細い悲鳴が響いた。
「待ってください。私では――私が犯人ではありません」
聴き覚えのある声だった。運び屋のピエロだ、とサキは思い出す。
「……失礼、目の不自由な方がいらっしゃったのですね。そういう意味ではありません。盲目では議長との間で対等な決闘が成り立ちませんから」
孔雀男が弁護すると、小さな溜息が闇に落ちた。
「この場合の『見えなかった』とは、『認識できなかった』という意味合いです」
認識できなかった?
意味をとらえかねていたサキに、孔雀男の質問が降ってきた。
「摂政殿下、この暗号の運用を開始する許可は、殿下が担当されたと聞き及んでおります。この暗号を初めて見たとき、どのように思われましたか」
「どのようにって」
サキはそのままを答えた。
「暗号には見えないなあ、と。楽譜の一部みたいだなあって。後、回教徒の寺院にあるような、幾何学模様にも似ています、が」
サキは口をつぐむ。認識できなかった、とはそういう意味か。
「お分かりのようですね。あの暗号は、知らない者が見たら、壁の装飾や異国の作品と見間違えかねないものです。肖像画等の美術品が並ぶ区域に張り出してあったこともあり、犯人はあれを、芸術作品の一種だと勘違いしたのです。絵画の中に伝言を書き入れる方法もなくはないでしょうが、あるのかどうかも決まっていない伝言を消すために美術品を火にくべるほど、無粋な犯人ではなかった」
「いや、しかしおかしいではないか」ゼマンコヴァが声をうわずらせる。
「あの暗号は、戦争前に運用が開始されている。あれが暗号であることは、選抜民兵も含めた軍の構成員すべてに周知されておる。とりわけ、議長と決闘が成立するような階級の者が知らないはずはない」
「仰るとおりです」
孔雀男の応答は、あくまで冷静なものだった。
「ですので、ここに第四の公理が成立します」
今度は藁を頭に巻き付けた幽霊が現れた。三番目の公理に続き、新たな公理を書き記す。
公理その四 犯人は軍人ではない
「同じじゃねーか!」
サキが突っ込みを入れる前に、群集の誰かが代役を務めてくれた。
「そうですね。全く異なる証拠、観点から、第三の公理と同じ結論が導き出されました。さて、さて、この先どのように論理を組み立てるべきでしょうか?」
人ごとのように話す怪人の声。三種の幽霊が、巻物の前で殴り合いを演じている。
公理その二 犯人は軍人である
公理その三 犯人は軍人ではない
公理その四 犯人は軍人ではない
「犯人は軍人であると主張する公理が一つあるのに対し、軍人ではないと主張する公理は二つ。多数決の観点からは二が間違いであると結論せざるを得ませんが、論理とは、数の暴力で決まるものではありません。ここに至って考えるべきは、定義の問題です。例えば『すべてのカラスは闇夜に紛れる』という公理は、カラスの羽がすべて黒ければ真となり得ますが、羽の白いカラスも存在するなら偽となってしまいます。カラスをどう定義するかによって、公理の価値は変化するのです。
当件の公理の中では、三つの公理に現れている『軍人』という言葉に注目すべきでしょう。第二、第三、第四の公理は、それぞれ異なる道筋の推理から導き出されたものです。ならば『軍人』という言葉の意味も、共通のものではないかもしれません。この言葉が指し示す対象を、再度確認して―――」
「いいかげんにしろっ」
マリオンが大声を上げて遮った。
「定義だの公理だのカラスだの論証だの、回りくどい話をだらだらと続けおって!さっさと答えをいえっ。こっちは一ヶ月近くもハラハラさせられてきたのだぞっ」
「申し訳ありませんが、結論は間近ですのでご容赦を」
孔雀男の声は冷静なままだった。
「ついでと言っては何ですが、マリオン評議員、『軍人』という言葉を定義していただけますか」
「だから、そういう小芝居が目障りだと言っておるのだろうが!」
激昂するマリオンのすぐ横で、いばらが人型に盛り上がり口を利いた。
「軍人という、言葉を、定義、していただけますか」
「……わかった、答える」
早々に根負けしたマリオンは、すぐに解答を捻り出した。
「戦闘行為によって国家に奉仕する者……いや、我が国の公僕の内、戦闘への従事を主たる役割としている者。こんなところではないか」
「ありがとうございます」
孔雀男の声に、満足げな響きが込められていた。
「今、閣下は『我が国の』と仰いましたね」
「それがどうしたというのだ」
「評議員のお言葉に合わせて、二番目以降の公理を書き換えてみましょう」
しばらくなにもしていなかった巨人の腕が、また指を鳴らす。幽霊たちがあたふたと動き周り、巻物に言葉を付け足した。
公理その三 犯人は(我が国の)軍人ではない
公理その四 犯人は(我が国の)軍人ではない
「なに」と呟いたきり、マリオンの動作が止まった。見物人の中からも、ぼそぼそと言葉が漏れてくる。
「すでにお気付きの方もいらっしゃるようですね」
幽霊三体の内、藁の幽霊とスイカの幽霊は言葉を付け足し終えたが、カボチャの幽霊だけは第二の公理の前で戸惑うようにふらついている。
「公理その三は、我が国の軍隊で外套がどのように扱われているかという事実から導き出したもの。公理その四も、我が国の軍属であるならば例の暗号を知っているはずという推定から導き出した結論。当然、『我が国』という語句を挿み込んでも意味は通ります。しかし」
強調するように、孔雀男は間を取った。
「公理その二は、軍服をまとっていた議長の決闘相手は同じ軍人に違いないという推論ですから、この国の軍人に限った話ではありません。つまり二番目の公理のみ、『我が国』という言葉は入らない」
ふーん、とギディングスが頷いた。
ばかな、とイオナは狼狽している。
「ここで、同じ意味合いであると判明した第三と第四の公理を一つにまとめ、公理その三改として書き換えた上で、もういちど並べてみましょう。矛盾が解消され、よりわかりやすい姿となります」
巻物が赤く光り、一瞬で焼失する。
煙の中から、新たな巻物が現れ、ひとりでに開いた。すでに新しい公理が記されている。
犯人特定の公理
公理その一 犯人は、議長閣下との間で決闘が成立する人物である
公理その二 犯人は軍人である
公理その三改 犯人は我が国の軍人ではない
ありえない、とゼマンコヴァが驚いている。面白い、とカザルスが笑った。
群衆が薄闇でも見て取れる程に動揺している。
「すでに皆さんの頭の中には、ある人物の名前が浮かび上がっていることでしょう」
巨人の腕がもういちど鳴ると、巻物が延びて幽霊たちと腕を包み込んだ。幽霊たちが一礼すると、巻物は回転しながら丸まり、空へと上って行った。後には、孔雀の羽だけが残された。
「犯人は、議長閣下との間で決闘が成立する他国の軍人。この条件から連想する人物は、皆、同じでしょう」
「……そうだったのか」
サキは自分でも意外に思うくらい冷静だった。驚愕はしたが、犯人に対する怒りはない。むしろこのときまで正体を隠し仰せた知謀と大胆さに、尊敬の念さえ覚えていた。
「これが演劇『決闘の王子』なら、名指しされた犯人は狼狽え、醜態を晒しながら官憲に引っ張られていく筋書きでしょう。残念ながら本件で、それは叶わない。犯人は、すでに冥府へ旅立っているのですから」
孔雀男が言葉を切ると、さっきまで幽霊たちが居た場所に一匹の鳥が現れた。本物と見まがうほど精巧な、孔雀の縫いぐるみ。歩みを止め、サキのいる方に嘴を向けた。
「摂政殿下」
縫いぐるみが口を空ける。
「どうか、この事件に注力された殿下のお口より」
案山子が懇願する。
「犯人の名前を、宣言いただけますでしょうか」
いばらの唇が提案した。
「……犯人は」
戸惑いがちに、しかし集まった人々全てに聴き取れるよう、明瞭な声でサキは告げた。
「共和国軍最高司令官、ジャン・ジャック・グロチウス」