外套の問題
文字数 4,727文字
「あの入り口を見張るよう最初に言われたのは、十年くらい前だった。だんなさまによると、あの隠し通路は二百年以上昔に掘られたものらしい。最初に造ったご先祖が何に使ったかはもう分からないけれど、だんなさまは、使用人にも聞かせたくない秘密を報告させたいときに使っているんだって話だった」
ゲラクの話によると、議長は自邸の使用人の中に密告者がいるのではないかと疑っていたらしい。
「あのだんな様を裏切ってやろうなんて見上げたやつはそうそういるもんじゃねえ。ただ、これこれこういう身分の人が会いにきたとか、部下の誰々が報告に来たとか、そういう話を知るだけで敵が得をする場合もあるし、その程度なら使用人の口も緩くなる。本当に大事な用件のときは、誰が来たかってことまで隠しておきたいんだってだんな様はいってた」
議長がいつから秘密通路を活用していたかは、ゲラクも知らなかった。
「そのときまで、秘密通路の使い方を知っていたのはだんなさまの部下だけだったらしい。それが、あの絵描きの娘――カヤ様にも教えてしまったもんだから、扱いが面倒になったって言ってた」
カヤと密使が鉢合わせする可能性が出てきたという意味だろう。サキが推測していた通りだ。
「そんなわけで、秘密の使者とカヤ様が一緒にならないよう、あの見張り台から通路の入り口を観るのが俺の仕事になった。とは言っても、使いの来る日と時間は先に教えてもらえたので、しんどくもなんともなかったけどな。使いの来る時間の少し前に見張り台に入って、使いが帰ったらおしまいだ。大した手間じゃない」
「秘密の使者とやらがやってくるのは、どれくらいの頻度だった?」
「多くて年、二・三回だ」
思ったより少ない。議長は年中陰謀を張り巡らせていたわけではなかったのか。あるいは隠し通路を使った情報伝達は秘中の秘で、他は別の連絡方法を使っていたのか。
「実際に、カヤと密使の人が鉢合わせた回数は?」
「それが、一度もなかった」
ゲラクは目を細める。
あくまで万が一を想定した、議長の配慮だったらしい。
「年二・三回ということは十年で三十回程度来ていたことになるけど、密使は同一人物だったの?」
「それは、何とも言えねえ」
もごもごと口を動かす。
「いつも襟が深い軍隊の外套を着てたからなあ。襟をしっかり立てると、遠くからだと背格好の区別もつかなくなっちまうから。双眼鏡を使っても怪しい」
悩ましい話だった。密使の身元を知るのは困難だろうし、特定できても、それが今回の犯人とは限らない。
「それじゃあ、議長が亡くなった当日の話を教えてほしい」
「……実は、それまでと大して変わらないんだけどな」
ゲラクは顎をぽりぽりと掻いた。
「亡くなる二日前だったかな?だんな様より申しつけがあった。『いつものお客がくるから、見張りを頼む』それだけで、これまでと何が違うって話じゃなかった」
言ったあと、目を陰らせて俯いた。自分がなにか異変に気付いたら、議長を助けられたかもと後悔しているのかもしれない。
「それでまあ、昼過ぎにだな、いつもみたいに外套を来た『お客』がやって来て、いつもみたいに偽のいばらを動かして中に入った」
手のひらに浮かんだ汗を、サキは握りしめる。
「これまでの密使と比べて、何か違うところはなかった?」
「なかったよ。そろそろ慣れてきたから、俺もあんまり見てなかった」
悲しげな声で答える。
「背格好も、何とも言えない感じだった。少なくとも低くはなかったけとは思うけど」
サキは評議会の面々を思い浮かべた。カザルス・フェルミ・ギディングス・イオナは同じくらいの長身だが、並外れた巨躯とは言えないので、遠目に見れば、印象には残らないだろう。彼らと比べるとマリオンが頭一つ小さく、ゼマンコヴァはさらに頭半分ほど低いものの、外套の襟を立てて顔の位置を誤魔かせば、誤差の範囲内となってしまうだろう。
「それから一時間くらい経って、『お客』は帰って行った。来たときと同じ格好で、隠し通路からな。カヤ様が来たのは、三十分くらい後の話だ。あとは誰も出ていかなかったし、入ってもこなかった。それで終わりだ」
「話してくれてありがとう。少しだけ質問を続けさせてほしい」
気の逸りを抑えながら、サキは細部を確認する。
「その日の見張りは、いつ頃までする予定だったの?」
「『お客』が着てから二時間は見張ってるようにって申しつけだった」
「カヤは一度隠し通路から入ってきた後、外には出ていない。それは確かなんだね」
「それはぜったいに間違いねえよ。あの日はやることがなかったんで、二時間過ぎたあとも夜まで見張り台にいたからな。屋敷のやつら、旦那様が殺されたって、すぐには教えてくれなかった……」
無念そうにゲラクは下を向いた。
「これまでカヤと密使が鉢合わせるような事態にはならなかったって話だけど、鉢合わせが発生しそうになった場合、どうやって伝える手はずになってたのかな?」
「見張り台に小さい鐘があって、そいつを鳴らす。たいして響かない鐘なんだが、金属の管があの部屋まで繋がっているから、だんなさまには聞こえるらしい」
「逆に、議長の方から見張り台に異変を伝える手段はないんだろうか」
「ないと思う。俺は教えてもらってないのはたしかだ。部屋の方で金属の管を叩いたりしたら、ちょっとは鐘が動くかもしれねえけど」
掃除夫は耳を指先で触る。
「それでどうしろって命令はきいていない。銃を撃っても、たぶん、気付かねえだろうな」
「ありがとう。大変参考になったよ」
サキは浅い角度で頭を下げた。
「約束する。議長が決闘で亡くなったと証明してみせるから」
最上階に戻ると、決闘場の周辺で数人の画工がしゃがみ込み、何かを調べていた。バンドは余所へ行ったようだ。
サキは画工たちに今し方得た情報を告げる。全員の表情が明るくなった。皆、雇用主への義理立てではなく、真剣にカヤを案じてくれているらしい。
「これで、もう、決まりですね」
画工の一人がはしゃいで言う。
「当日、お嬢の前に隠し通路を使ったやつがいた。そいつが議長を殺したってことで間違いな
い。お嬢は晴れて無罪放免です!」
カヤは準男爵家で「お嬢」と呼ばれているらしい。似合うような、似合わないような。
「楽観的すぎるだろ」
別の画工が窘める。
「最初に出入りした密使らしき人物は本当に情報を伝えに来ただけで、その後、お嬢が議長を殺した―――意地の悪い見方をすれば、そう解釈できなくもない」
「そうなんですよね」
サキは腕組みする。
「評議会で無罪を主張する材料としては、弱い。判決を延長するくらいはできるかもしれませんが」
とはいえ、貴重な情報だったのも間違いない。人手を増やして、軍の外套をまとった男の行方を調べるべきだろうか。
「ところで今、何を探していたんですか」
サキが訊ねると、画工たちは思い出したように身を屈めた。
「血糊を探る件です。邸内に、犯人が付けた血糊があるかもしれない、と指示をいただきましたが、今のところ見つかっていません」
「そうですか」
少し失望したが、ゲラクの言うとおり、密使らしき男が隠し通路だけを使って城内外を行き来していたならば、それ以外の場所に血糊は残っていないだろう。無駄な指示を下したかもしれない。
「隠し通路の中も、血の痕は見つかりませんでした」
別の画工が首を振る。
「ただ、水滴が小さかったり、うっすら残っていると見落とすかもしれないので、この部屋の血痕を参考にしようと思ったんです」
そういうことか、とサキは納得する。この決闘場なら、椅子に血溜まりの痕が残っているし、周囲にも多少の飛散が見られるだろう。あいにく絨毯は赤系統なので紛らわしいが、周辺の色彩から血痕を区別する参考になるかもしれない。
「おかしい、やっぱりおかしいわ」
四つん這いで絨毯を睨んでいた画工の一人が呟いた。髪が短いのでこれまで気付かなかったが、女の子だ。サキが近寄ると、片手に持っていた薄紙を広げて示した。
「一帯に広がってた血の粒を、描き写してみたんです」
薄紙には、簡略化された筆法で決闘場の俯瞰図が描かれている。議長の大椅子と、決闘相手用と思われる椅子。二脚は向かい合った位置にあり、大椅子は全体的に赤く塗られている。椅子の横手と正面にも、赤色が放射状に広がって描写されていた。
出血は、思ったより大量だったらしい。
あれだけの偉丈夫が心臓を打ち抜かれたのだから、当然といえば当然かもしれない。ただこの図を見る限り、血潮は決闘相手の椅子の位置までは届いていないようだ。
「ここ、変なんです」
少女が指し示したのは、向かい合った決闘席の中間よりやや犯人寄りの部分だった。そのあたりは、まだ血糊を示す点が大量に打ってある。
ところが一カ所だけ、血糊の全くない長方形の空白部分が見られるのだ。
「ここです」
少女は立ち上がって実際の位置へ移動する。
「馬の頭くらいの広さですね。そこだけ、血がかかってません」
面積の例えが分かりにくかったが、どういう状況かは理解できた。ここに、何かが置いてあったため、直接血を浴びなかったのだ。
早速バンドを探して訊いてみたものの、この位置に家具の類は乗っていなかったはず、との返答だった。議長の死体を発見した直後も、何か乗っていた憶えはないと言い切った。
(ここに何かあって、それを持ち去った)
思考の基点になるかもしれない。サキは犯人を思い浮かべる。
(今もないし、議長が殺される前もなかった。ということは、犯人の持ち物かもしれない)
口に出した方が、頭の回転が早くなりそうな気がした。
「決闘に必要なものかな?いや、決闘の最中は横に置いてあったんだから、本当に必要なわけじゃない。必要じゃないけど持ってきたもの、持ってきたのが確実なもの……」
ふいに、ゲラクの顔が浮かんだ。
「外套だ」
サキは大声を出した。画工たちが目を丸くする。
「外套ですか」
「そうだよ。カヤの前に出入りしたって言う密使らしき人物は、軍の外套を纏っていたらしい。この人物が、議長の決闘相手だったと仮定してみると」
完璧な論証に近づいたかもしれない。サキは両手をばたばたと動かした。
「決闘を執り行う際、この人物は外套を着たままだろうか?議長の死体は外套を纏っていなかったんだから、合わせて外套を脱いだかもしれない。それを絨毯の上に置いたのかも!」
「なるほど、畳んだらそれくらいの範囲になりますね」画工の一人が手を叩いた。
「で、血糊を被ったと」
サキは頷く。
「そしてゲラクは、密使らしき人物が隠し通路から出ていくときも、外套をまとっていたと言っている。遠くからだから判別は難しかったかもしれない。けれど」
「犯人らしき人物は、議長の血のついた外套を纏って出ていったことになりますね!」
画工の少女も、頬を紅潮させて叫んだ。
サキは期待に胸を躍らせる。外套を暖炉で燃やしたり、室内に放置することはできなかった。見張りが存在するからだ。では、犯人は血のついた外套をどこまで持って行っただろうか?見咎められるのをおそれて、外で捨てたりしていたら?その外套かどうかは、血糊を絨毯と照らし合わせたら判別できる。
隠し通路から最上階に入って以降、サキたちが訪れるまで、カヤは城外へ出ていない。出られなかった。
つまり血染めの外套が見つかった場合ーーカヤの無実は確定するのだ!
ゲラクの話によると、議長は自邸の使用人の中に密告者がいるのではないかと疑っていたらしい。
「あのだんな様を裏切ってやろうなんて見上げたやつはそうそういるもんじゃねえ。ただ、これこれこういう身分の人が会いにきたとか、部下の誰々が報告に来たとか、そういう話を知るだけで敵が得をする場合もあるし、その程度なら使用人の口も緩くなる。本当に大事な用件のときは、誰が来たかってことまで隠しておきたいんだってだんな様はいってた」
議長がいつから秘密通路を活用していたかは、ゲラクも知らなかった。
「そのときまで、秘密通路の使い方を知っていたのはだんなさまの部下だけだったらしい。それが、あの絵描きの娘――カヤ様にも教えてしまったもんだから、扱いが面倒になったって言ってた」
カヤと密使が鉢合わせする可能性が出てきたという意味だろう。サキが推測していた通りだ。
「そんなわけで、秘密の使者とカヤ様が一緒にならないよう、あの見張り台から通路の入り口を観るのが俺の仕事になった。とは言っても、使いの来る日と時間は先に教えてもらえたので、しんどくもなんともなかったけどな。使いの来る時間の少し前に見張り台に入って、使いが帰ったらおしまいだ。大した手間じゃない」
「秘密の使者とやらがやってくるのは、どれくらいの頻度だった?」
「多くて年、二・三回だ」
思ったより少ない。議長は年中陰謀を張り巡らせていたわけではなかったのか。あるいは隠し通路を使った情報伝達は秘中の秘で、他は別の連絡方法を使っていたのか。
「実際に、カヤと密使の人が鉢合わせた回数は?」
「それが、一度もなかった」
ゲラクは目を細める。
あくまで万が一を想定した、議長の配慮だったらしい。
「年二・三回ということは十年で三十回程度来ていたことになるけど、密使は同一人物だったの?」
「それは、何とも言えねえ」
もごもごと口を動かす。
「いつも襟が深い軍隊の外套を着てたからなあ。襟をしっかり立てると、遠くからだと背格好の区別もつかなくなっちまうから。双眼鏡を使っても怪しい」
悩ましい話だった。密使の身元を知るのは困難だろうし、特定できても、それが今回の犯人とは限らない。
「それじゃあ、議長が亡くなった当日の話を教えてほしい」
「……実は、それまでと大して変わらないんだけどな」
ゲラクは顎をぽりぽりと掻いた。
「亡くなる二日前だったかな?だんな様より申しつけがあった。『いつものお客がくるから、見張りを頼む』それだけで、これまでと何が違うって話じゃなかった」
言ったあと、目を陰らせて俯いた。自分がなにか異変に気付いたら、議長を助けられたかもと後悔しているのかもしれない。
「それでまあ、昼過ぎにだな、いつもみたいに外套を来た『お客』がやって来て、いつもみたいに偽のいばらを動かして中に入った」
手のひらに浮かんだ汗を、サキは握りしめる。
「これまでの密使と比べて、何か違うところはなかった?」
「なかったよ。そろそろ慣れてきたから、俺もあんまり見てなかった」
悲しげな声で答える。
「背格好も、何とも言えない感じだった。少なくとも低くはなかったけとは思うけど」
サキは評議会の面々を思い浮かべた。カザルス・フェルミ・ギディングス・イオナは同じくらいの長身だが、並外れた巨躯とは言えないので、遠目に見れば、印象には残らないだろう。彼らと比べるとマリオンが頭一つ小さく、ゼマンコヴァはさらに頭半分ほど低いものの、外套の襟を立てて顔の位置を誤魔かせば、誤差の範囲内となってしまうだろう。
「それから一時間くらい経って、『お客』は帰って行った。来たときと同じ格好で、隠し通路からな。カヤ様が来たのは、三十分くらい後の話だ。あとは誰も出ていかなかったし、入ってもこなかった。それで終わりだ」
「話してくれてありがとう。少しだけ質問を続けさせてほしい」
気の逸りを抑えながら、サキは細部を確認する。
「その日の見張りは、いつ頃までする予定だったの?」
「『お客』が着てから二時間は見張ってるようにって申しつけだった」
「カヤは一度隠し通路から入ってきた後、外には出ていない。それは確かなんだね」
「それはぜったいに間違いねえよ。あの日はやることがなかったんで、二時間過ぎたあとも夜まで見張り台にいたからな。屋敷のやつら、旦那様が殺されたって、すぐには教えてくれなかった……」
無念そうにゲラクは下を向いた。
「これまでカヤと密使が鉢合わせるような事態にはならなかったって話だけど、鉢合わせが発生しそうになった場合、どうやって伝える手はずになってたのかな?」
「見張り台に小さい鐘があって、そいつを鳴らす。たいして響かない鐘なんだが、金属の管があの部屋まで繋がっているから、だんなさまには聞こえるらしい」
「逆に、議長の方から見張り台に異変を伝える手段はないんだろうか」
「ないと思う。俺は教えてもらってないのはたしかだ。部屋の方で金属の管を叩いたりしたら、ちょっとは鐘が動くかもしれねえけど」
掃除夫は耳を指先で触る。
「それでどうしろって命令はきいていない。銃を撃っても、たぶん、気付かねえだろうな」
「ありがとう。大変参考になったよ」
サキは浅い角度で頭を下げた。
「約束する。議長が決闘で亡くなったと証明してみせるから」
最上階に戻ると、決闘場の周辺で数人の画工がしゃがみ込み、何かを調べていた。バンドは余所へ行ったようだ。
サキは画工たちに今し方得た情報を告げる。全員の表情が明るくなった。皆、雇用主への義理立てではなく、真剣にカヤを案じてくれているらしい。
「これで、もう、決まりですね」
画工の一人がはしゃいで言う。
「当日、お嬢の前に隠し通路を使ったやつがいた。そいつが議長を殺したってことで間違いな
い。お嬢は晴れて無罪放免です!」
カヤは準男爵家で「お嬢」と呼ばれているらしい。似合うような、似合わないような。
「楽観的すぎるだろ」
別の画工が窘める。
「最初に出入りした密使らしき人物は本当に情報を伝えに来ただけで、その後、お嬢が議長を殺した―――意地の悪い見方をすれば、そう解釈できなくもない」
「そうなんですよね」
サキは腕組みする。
「評議会で無罪を主張する材料としては、弱い。判決を延長するくらいはできるかもしれませんが」
とはいえ、貴重な情報だったのも間違いない。人手を増やして、軍の外套をまとった男の行方を調べるべきだろうか。
「ところで今、何を探していたんですか」
サキが訊ねると、画工たちは思い出したように身を屈めた。
「血糊を探る件です。邸内に、犯人が付けた血糊があるかもしれない、と指示をいただきましたが、今のところ見つかっていません」
「そうですか」
少し失望したが、ゲラクの言うとおり、密使らしき男が隠し通路だけを使って城内外を行き来していたならば、それ以外の場所に血糊は残っていないだろう。無駄な指示を下したかもしれない。
「隠し通路の中も、血の痕は見つかりませんでした」
別の画工が首を振る。
「ただ、水滴が小さかったり、うっすら残っていると見落とすかもしれないので、この部屋の血痕を参考にしようと思ったんです」
そういうことか、とサキは納得する。この決闘場なら、椅子に血溜まりの痕が残っているし、周囲にも多少の飛散が見られるだろう。あいにく絨毯は赤系統なので紛らわしいが、周辺の色彩から血痕を区別する参考になるかもしれない。
「おかしい、やっぱりおかしいわ」
四つん這いで絨毯を睨んでいた画工の一人が呟いた。髪が短いのでこれまで気付かなかったが、女の子だ。サキが近寄ると、片手に持っていた薄紙を広げて示した。
「一帯に広がってた血の粒を、描き写してみたんです」
薄紙には、簡略化された筆法で決闘場の俯瞰図が描かれている。議長の大椅子と、決闘相手用と思われる椅子。二脚は向かい合った位置にあり、大椅子は全体的に赤く塗られている。椅子の横手と正面にも、赤色が放射状に広がって描写されていた。
出血は、思ったより大量だったらしい。
あれだけの偉丈夫が心臓を打ち抜かれたのだから、当然といえば当然かもしれない。ただこの図を見る限り、血潮は決闘相手の椅子の位置までは届いていないようだ。
「ここ、変なんです」
少女が指し示したのは、向かい合った決闘席の中間よりやや犯人寄りの部分だった。そのあたりは、まだ血糊を示す点が大量に打ってある。
ところが一カ所だけ、血糊の全くない長方形の空白部分が見られるのだ。
「ここです」
少女は立ち上がって実際の位置へ移動する。
「馬の頭くらいの広さですね。そこだけ、血がかかってません」
面積の例えが分かりにくかったが、どういう状況かは理解できた。ここに、何かが置いてあったため、直接血を浴びなかったのだ。
早速バンドを探して訊いてみたものの、この位置に家具の類は乗っていなかったはず、との返答だった。議長の死体を発見した直後も、何か乗っていた憶えはないと言い切った。
(ここに何かあって、それを持ち去った)
思考の基点になるかもしれない。サキは犯人を思い浮かべる。
(今もないし、議長が殺される前もなかった。ということは、犯人の持ち物かもしれない)
口に出した方が、頭の回転が早くなりそうな気がした。
「決闘に必要なものかな?いや、決闘の最中は横に置いてあったんだから、本当に必要なわけじゃない。必要じゃないけど持ってきたもの、持ってきたのが確実なもの……」
ふいに、ゲラクの顔が浮かんだ。
「外套だ」
サキは大声を出した。画工たちが目を丸くする。
「外套ですか」
「そうだよ。カヤの前に出入りしたって言う密使らしき人物は、軍の外套を纏っていたらしい。この人物が、議長の決闘相手だったと仮定してみると」
完璧な論証に近づいたかもしれない。サキは両手をばたばたと動かした。
「決闘を執り行う際、この人物は外套を着たままだろうか?議長の死体は外套を纏っていなかったんだから、合わせて外套を脱いだかもしれない。それを絨毯の上に置いたのかも!」
「なるほど、畳んだらそれくらいの範囲になりますね」画工の一人が手を叩いた。
「で、血糊を被ったと」
サキは頷く。
「そしてゲラクは、密使らしき人物が隠し通路から出ていくときも、外套をまとっていたと言っている。遠くからだから判別は難しかったかもしれない。けれど」
「犯人らしき人物は、議長の血のついた外套を纏って出ていったことになりますね!」
画工の少女も、頬を紅潮させて叫んだ。
サキは期待に胸を躍らせる。外套を暖炉で燃やしたり、室内に放置することはできなかった。見張りが存在するからだ。では、犯人は血のついた外套をどこまで持って行っただろうか?見咎められるのをおそれて、外で捨てたりしていたら?その外套かどうかは、血糊を絨毯と照らし合わせたら判別できる。
隠し通路から最上階に入って以降、サキたちが訪れるまで、カヤは城外へ出ていない。出られなかった。
つまり血染めの外套が見つかった場合ーーカヤの無実は確定するのだ!