読者への提案
文字数 2,910文字
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ペンを持つ手を休め、原稿用紙を見下ろしてジョン・ドゥは溜息をついた。窓際の机で執筆を続けたのは間違いだったようだ。窓に面した半身が強ばっている。風にさらされるだけで身が痛むほどの年寄りになるまで、自分が生き延びるとは予想していなかった。
皆、先に逝ってしまった。文筆の世界で自分と同じくらい悪名を轟かせていたピーター・ウッドジュニアも、ジャン・バティスト・ベルナール・フォン・ラインシールも……今は故郷の土の下で眠っている。老いさらばえた自分だけが、異郷の地に流れ着いてもなお、しょうこりもなく紙切れと格闘を続けている。
フランスの空気は嫌いじゃない。
故郷より遙かに暖かく、空も高い。間もなく訪れるだろう人生の終わりに際して、ひとりぼっちで死んでいくみじめな気持ちを幾分か誤魔化してくれることだろう。
「いかがですかな、進捗は」
声に振り返ると、家主でもあり、依頼人でもあるフランス人が笑みを浮かべていた。
絵本を手がけて成功したとかいう編集者だ。人なつっこい笑顔が、老人に警戒心を抱かせる。
「……来週には脱稿するよ。残り四分の一程度といったところだ」
「それは喜ばしい」
編集者は胸元の封筒を抱きしめる。
「半分近くまで目を通させていただきましたが、じつに心踊る内容でした。歴史書でお名前を拝見するような方々が、まるで私の目の前にいらっしゃるかの如く、生き生きとした筆致で描写されています!」
歴史書。ドゥは目を細めた。
そうか、俺の人生はもう、そこまで古びてしまったのか。
「貴方がこの件の当事者でいらっしゃった事実も、再現性を高めているのかもしれませんね」
「俺だって、大して関わりがあったわけではないよ」
ドゥは摂政殿下の困惑するような笑顔を思い出していた。
「せいぜい、騒動の隅っこを嗅ぎ回っていた程度の端役だ」
「いえいえ、作中の台詞にもあるじゃないですか。『人と人の繋がりは尊い』と」
「つながり、ねえ」
ドゥはむず痒さを堪えた。そんなに綺麗な表現だったろうか。
「大変すばらしい。過剰にすばらしい。とにかくすばらしい。なのですが、その、一つだけ、ほんの一点だけ、申し上げたい点がございましてね」
そら来た。ドゥは自制心を保とうと努力する。この男の噂は聞いている。編集人として腕は確からしいが、作家の原稿に過度な口出しをするという悪癖があるらしい。
老年に達してもなお、ドゥは喧嘩っ早い男だが、今は状況が悪い。借財が嵩み、自宅を売り払って路頭に迷っていたところを拾ってもらったのだ。ここは依頼主に従う他はない。
「どこを消したらいい?」
「いえいえ、削れと言いたいわけではありません。提案です。これを付け加えたら面白いのでは、という」
編集人はおどけて見せたが、作者の魂を削るという意味では変わりがない。
「残り四分の一ということは、摂政殿下の姉君とロッド少佐の問答までは終わっていますよね。資料によると、議長を殺害した犯人を最初に特定したのはこの姉君で、少佐の証言が最後の決め手になったとか。証拠に絡む要素は、かなり詳細に書いていただいているようですね」
「こういう実録物は、細部まで詳しく書いた方が喜ばれるからな」
「せっかくですので、その細かい記述を活用してはどうか、という話です。記述をしっかりと読めば、読者にも犯人を言い当てることができるはずですよね。それなら、読者に犯人を推理するよう促す一文を挿んだらどうでしょう」
「ふーん、面白そうだな」
以外にも、ドゥの興を乗らせる提案だった。この男、優秀な編集者であるのは間違いないようだ。
「ようするに、当てて見せろ、と挑発するわけだ。題名はどうしようか。『読者への挑発』とするのは少々過激かな」
「そうですね、『読者への提案』というのはいかがでしょう」
「なるほど、提案、と」
痛む肉体に鞭を打ち、ドゥは文面を練り上げ始めた。
読者への提案
ここまで本書を読み進めていただいた読者の皆様へ申し上げる。
本作品は、事実をありのままに記した実録であり、脚色や虚偽の類は一切、含まれていない。この先の解決編において宮廷軍事評議会議長を殺めた犯人が明らかとなるが、それに際して示される論拠は、史実において列挙されたものと寸分違わない。そして論拠を組み立てるための材料は、これまでの本文中に記されている。
ここで作者として、ここまで本書を読み進めていただいた皆様に、風変わりな愉しみ方を提案したい。
議長を殺害した犯人は何者か―――頁をめくる前に、皆様自身にも考えていただきたいのだ。
これは、作者との知恵比べではない。ほんの数週間とはいえ、一国を混乱の渦に陥れたおそるべき知能犯との頭脳大戦である。言い当てたところで懸賞金が出るわけではないが、ささやかな達成感にはくすぐられることだろう。とくに頭脳労働に従事しておられる方々は、是非とも挑戦していただきたい。
情報が多すぎて何を考えればよいか分からない、と仰る方々のために、補足事項を以下に記す。手助けは不要と思われる方は読みとばして頂きたい。
・犯人は、これまでの本文中に登場している人物である。解決編に至って突然真犯人が加わるような展開はない。本書冒頭の、人物表に記載された人間だ。
・作中では逐一記してはいないが、摂政殿下は調査に際して聞き取った情報を余すところなく姉君に伝えている。
・犯人は単独犯である。人物表の中から何人を取り出すべきか、と悩んでいただく必要はない。
・犯人特定に関わる証言の中に、虚偽の情報は含まれていない。これまで作中で証拠集めに応じてきた人物の中に、犯人あるいは自身を利する目的で虚偽の証言を行った人物が混ざっているかもしれない、と疑念を抱かれる読者がいらっしゃるかも知れないが、それは無用の心配である。犯人自身も偽証は行っていない。
「以上、読者諸兄の検討を祈る、と」
ペンを置き、ドゥは再び息を吐いた。史書を読みふけるような物好きでもなければ、この異国で議長殺害の顛末について把握している者など、ほとんど存在しないだろう。大半の読者は、純粋に謎解きを愉しめるはずだ。
「人の歩みは語り継がれる。どんな形に成り果てようとも」
「なんです、それは」
呟きに反応して顔を近づける依頼人に、ドゥは顰め面で応じる。
「これを書き上げたら、そろそろ寿命が尽きちまうかも、って話だよ」
「ははは。随分と弱気ですな」
編集者は笑ったが、ドゥは笑えない。彼は亡命者だった。故郷では政治犯として指名手配されている。もう、生きて祖国の地を踏む機会はないだろう。
寂しい、とは感じなかった。自身を培ってきた風土、文化、民衆といったものに、彼は大して愛着を感じない性分だった。
ああしかし、と物書きは想う。
あれだけは、未練を感じなくもない。くだらねえと馬鹿にしていたのに、今となっては懐かしい、あの芝居だ。
「決闘の王子」
死ぬまでにもう一度くらい、あの舞台を愉しみたいものだ。
ペンを持つ手を休め、原稿用紙を見下ろしてジョン・ドゥは溜息をついた。窓際の机で執筆を続けたのは間違いだったようだ。窓に面した半身が強ばっている。風にさらされるだけで身が痛むほどの年寄りになるまで、自分が生き延びるとは予想していなかった。
皆、先に逝ってしまった。文筆の世界で自分と同じくらい悪名を轟かせていたピーター・ウッドジュニアも、ジャン・バティスト・ベルナール・フォン・ラインシールも……今は故郷の土の下で眠っている。老いさらばえた自分だけが、異郷の地に流れ着いてもなお、しょうこりもなく紙切れと格闘を続けている。
フランスの空気は嫌いじゃない。
故郷より遙かに暖かく、空も高い。間もなく訪れるだろう人生の終わりに際して、ひとりぼっちで死んでいくみじめな気持ちを幾分か誤魔化してくれることだろう。
「いかがですかな、進捗は」
声に振り返ると、家主でもあり、依頼人でもあるフランス人が笑みを浮かべていた。
絵本を手がけて成功したとかいう編集者だ。人なつっこい笑顔が、老人に警戒心を抱かせる。
「……来週には脱稿するよ。残り四分の一程度といったところだ」
「それは喜ばしい」
編集者は胸元の封筒を抱きしめる。
「半分近くまで目を通させていただきましたが、じつに心踊る内容でした。歴史書でお名前を拝見するような方々が、まるで私の目の前にいらっしゃるかの如く、生き生きとした筆致で描写されています!」
歴史書。ドゥは目を細めた。
そうか、俺の人生はもう、そこまで古びてしまったのか。
「貴方がこの件の当事者でいらっしゃった事実も、再現性を高めているのかもしれませんね」
「俺だって、大して関わりがあったわけではないよ」
ドゥは摂政殿下の困惑するような笑顔を思い出していた。
「せいぜい、騒動の隅っこを嗅ぎ回っていた程度の端役だ」
「いえいえ、作中の台詞にもあるじゃないですか。『人と人の繋がりは尊い』と」
「つながり、ねえ」
ドゥはむず痒さを堪えた。そんなに綺麗な表現だったろうか。
「大変すばらしい。過剰にすばらしい。とにかくすばらしい。なのですが、その、一つだけ、ほんの一点だけ、申し上げたい点がございましてね」
そら来た。ドゥは自制心を保とうと努力する。この男の噂は聞いている。編集人として腕は確からしいが、作家の原稿に過度な口出しをするという悪癖があるらしい。
老年に達してもなお、ドゥは喧嘩っ早い男だが、今は状況が悪い。借財が嵩み、自宅を売り払って路頭に迷っていたところを拾ってもらったのだ。ここは依頼主に従う他はない。
「どこを消したらいい?」
「いえいえ、削れと言いたいわけではありません。提案です。これを付け加えたら面白いのでは、という」
編集人はおどけて見せたが、作者の魂を削るという意味では変わりがない。
「残り四分の一ということは、摂政殿下の姉君とロッド少佐の問答までは終わっていますよね。資料によると、議長を殺害した犯人を最初に特定したのはこの姉君で、少佐の証言が最後の決め手になったとか。証拠に絡む要素は、かなり詳細に書いていただいているようですね」
「こういう実録物は、細部まで詳しく書いた方が喜ばれるからな」
「せっかくですので、その細かい記述を活用してはどうか、という話です。記述をしっかりと読めば、読者にも犯人を言い当てることができるはずですよね。それなら、読者に犯人を推理するよう促す一文を挿んだらどうでしょう」
「ふーん、面白そうだな」
以外にも、ドゥの興を乗らせる提案だった。この男、優秀な編集者であるのは間違いないようだ。
「ようするに、当てて見せろ、と挑発するわけだ。題名はどうしようか。『読者への挑発』とするのは少々過激かな」
「そうですね、『読者への提案』というのはいかがでしょう」
「なるほど、提案、と」
痛む肉体に鞭を打ち、ドゥは文面を練り上げ始めた。
読者への提案
ここまで本書を読み進めていただいた読者の皆様へ申し上げる。
本作品は、事実をありのままに記した実録であり、脚色や虚偽の類は一切、含まれていない。この先の解決編において宮廷軍事評議会議長を殺めた犯人が明らかとなるが、それに際して示される論拠は、史実において列挙されたものと寸分違わない。そして論拠を組み立てるための材料は、これまでの本文中に記されている。
ここで作者として、ここまで本書を読み進めていただいた皆様に、風変わりな愉しみ方を提案したい。
議長を殺害した犯人は何者か―――頁をめくる前に、皆様自身にも考えていただきたいのだ。
これは、作者との知恵比べではない。ほんの数週間とはいえ、一国を混乱の渦に陥れたおそるべき知能犯との頭脳大戦である。言い当てたところで懸賞金が出るわけではないが、ささやかな達成感にはくすぐられることだろう。とくに頭脳労働に従事しておられる方々は、是非とも挑戦していただきたい。
情報が多すぎて何を考えればよいか分からない、と仰る方々のために、補足事項を以下に記す。手助けは不要と思われる方は読みとばして頂きたい。
・犯人は、これまでの本文中に登場している人物である。解決編に至って突然真犯人が加わるような展開はない。本書冒頭の、人物表に記載された人間だ。
・作中では逐一記してはいないが、摂政殿下は調査に際して聞き取った情報を余すところなく姉君に伝えている。
・犯人は単独犯である。人物表の中から何人を取り出すべきか、と悩んでいただく必要はない。
・犯人特定に関わる証言の中に、虚偽の情報は含まれていない。これまで作中で証拠集めに応じてきた人物の中に、犯人あるいは自身を利する目的で虚偽の証言を行った人物が混ざっているかもしれない、と疑念を抱かれる読者がいらっしゃるかも知れないが、それは無用の心配である。犯人自身も偽証は行っていない。
「以上、読者諸兄の検討を祈る、と」
ペンを置き、ドゥは再び息を吐いた。史書を読みふけるような物好きでもなければ、この異国で議長殺害の顛末について把握している者など、ほとんど存在しないだろう。大半の読者は、純粋に謎解きを愉しめるはずだ。
「人の歩みは語り継がれる。どんな形に成り果てようとも」
「なんです、それは」
呟きに反応して顔を近づける依頼人に、ドゥは顰め面で応じる。
「これを書き上げたら、そろそろ寿命が尽きちまうかも、って話だよ」
「ははは。随分と弱気ですな」
編集者は笑ったが、ドゥは笑えない。彼は亡命者だった。故郷では政治犯として指名手配されている。もう、生きて祖国の地を踏む機会はないだろう。
寂しい、とは感じなかった。自身を培ってきた風土、文化、民衆といったものに、彼は大して愛着を感じない性分だった。
ああしかし、と物書きは想う。
あれだけは、未練を感じなくもない。くだらねえと馬鹿にしていたのに、今となっては懐かしい、あの芝居だ。
「決闘の王子」
死ぬまでにもう一度くらい、あの舞台を愉しみたいものだ。