誠実と不実
文字数 5,801文字
サキは驚いて懐中時計を確かめる。十七時十五分。ほとんど時間は経過していない。決闘開始には早すぎる。現在、いばら荘は完全な無人状態のはずだ。
サキは己の迂闊さを思い知らされた。
犯人が決闘に応じても応じなくても、サキはどちらでも構わなかった。決闘の予定時刻より前にニコラが犯人を公表してくれるからだ。
だが犯人が、予定時刻より早くこの場へやって来た場合は厄介だ。全く想定外だった。むしろ想定するべきだったのに。
犯人が定刻にやって来た場合、サキに勝利しても、衆目に身をさらすわけには行かないから、隠れて脱出しなければならない。定刻より前に来た方が、注目されていない分、人目につく危険は減るはずだ。
弱点だ。僕の弱点に気付いた。ツメが甘いんだ!
サキは数時間前の自分を殴ってやりたかった。いばら荘に籠もるのは自分一人でいい、なんて強がらないで、定刻ぎりぎりまで周囲に警備を置けば問題なかったのに。
「やべっ、銃、弾丸!」
弾の装填さえ終わっていない。サキは焦ってポケットから一式を取り出した。落ち着け。拳銃の暴発で致命傷を負いでもしたら、笑い話にもならない。
装填を終え、サキは螺旋階段の降り口を凝視した。足音が近づいてくる。ゆっくりと。
降り口から現れたのは、ゼマンコヴァ評議員だった。
「こんばんは。殿下」
「……こんばんは」
サキは反応に迷う。この老人も評議員の一人なのだから、容疑者の範囲内という意味では意外性はない。しかしあの三人の中では、可能性は一番低いと考えていたのだが。
「あなただったんですか」
「いいえ」
老人はゆっくりと首を横に振る。
「証明する術はありませんが、私は議長を殺めてなどおりません」
「そう仰るのなら、別に疑いはしませんけれど」
サキの目に、老人は嘘をついているようには見えなかった。
「じゃあ何のためにいらしたんです?」
階段を上ってきたせいか、ぜいぜいと息を切らしている老人を、サキはソファーに誘った。油断しすぎているだろうか。しかし警戒心を露わにするのは気がひけた。
「犯人が、来るのなら問題はないのです」
背もたれに身を預け、老人は首を伸ばす。
「問題は来ない場合です。ことここに至るまで、知らぬふりを決め込んで来たような卑劣漢ですからの、おそれをなして、応じないかもしれません」
「そこまで慎重でしょうか」
「慎重というより、責任を取りたくない人間なのかも」
ゼマンコヴァは大きく延びをする。
「来なかったら、殿下も困る。我々も困る。そのために、私がやって参りました」
王国軍最年長の老雄は、いたずら小僧のように、にかりと笑った。
「定刻になっても犯人が来なかったら、この老いぼれを撃ち殺していただきたい」
「ばかな」
サキの胸がざわついた。この不快感は、戦場で味方をかばった少年を見たときのものに近い。
「かばうと言うんですか。白を切り通すような犯人を」
「犯人のため、と言うより、この王国の、万民のためと考えていただきたい」
ゼマンコヴァはソファーに肩を擦り付ける。心なしか、これまでで一番くつろいだ様子だ。「私は老い先も短く、平民出身です。軍でも貴族社会でも、大した勢力を築いているわけでもありません。丸く収まるのですよ。私を犯人にした方が」
そこまで言って、老人は身を起こす。
「とはいえ、私にも家族はございますので、どうか、彼らには累が及ばないようにお願いしたいのですが」
立派な人だな、とサキは尊敬の念を抱いた。
同時に困惑もさせられる。迷惑な人でもあるからだ。なぜならサキは決闘なんかするつもりがない。後は姉上に任せるだけだ。この老人を撃つような状況は訪れないはずだ。
もう犯人は分かっている(らしい)と、教えてやるべきだろうか。
いや、それは迂闊すぎる、とサキは思い直す。ゼマンコヴァが本当に犯人ではないのか確証がない。犯人でなかったとしても、すでに犯人を知っていて、その人物をかばうために身代わりを申し出たのかもしれない。いずれにせよ、言わない方がいい。提案を受け入れる振りだけしておこう。
「……わかりました。あくまで犯人がやってこなかった場合の保険として、承っておきます」
「まあ、それほど深刻に考えないでいただきたい。何しろ九十五の年寄りです。お釣りで生きているようなものですから」
「そうですね、あと五年くらいでしょうしね」
失礼を口走りながら、サキはあと三十分ほどどうしていようかと悩んだ。
「ゼマンコヴァ評議員、この国をどう思いますか?」
「これはこれは」
考えなしにサキの口から出た質問に対して、老人は目尻の皺を増やした。
「この老いぼれには難題ですなあ。私は軍務一筋の人生で、政 はあまり」
それはサキも承知の上だ。
「ですが、平民出身で軍の最高位まで昇った希有な経歴の持ち主だ。今回の戦役も含めた騒動に関して、思うところがお有りでは」
「殿下は」
僅かに老人の表情が引き締まる。
「人民の手による政治、という考え方に、興味をお持ちなのですかな」
「利用したい、とは思っています」
サキは正直に答えた。
「押さえつけるだけでなく、いくらか取り入れて、権力の源泉の一つにできたらなと」
「貴族制度、身分制度と言ったものについて、私は大した疑問も抱かずに生きて参りました」
ゼマンコヴァは天井を見上げた。「平民出身で、私ほど国家の恩恵を受けた人間もいないでしょう。才能を見い出され、評価され、過分とも思える地位を得た。ですから常々こう考えておりました。『身分の違いなど些細な話だ。努力すれば、誰でも相応の報酬が手に入り、栄誉も得られるのだから』とね。それが強者の発想であるとも承知の上で、そう考えていたのです。し
かし」
老人は顎の角度を下げる。
「お恥ずかしながら、この歳になって揺らぎ始めておりますす」
「バンド氏ですか?」
サキが挙げた名前に、ゼマンコヴァは苦笑した。
「そう、あの男。あの家宰は私なんぞより深いところを見据えておったのでしょう。もちろん、誉められた振る舞いばかりではありませんでしたが、あの男の目指したものはーー」
ふいに会話が途切れる。理由は、サキも理解していた。足音が聞こえる。またしても、階段を登る足音だ。
「今度こそ犯人でしょうか。だとしてもせっかちですね」
平静を装いながらサキは困惑している。今、やって来るのが犯人だったとして、まともな決闘が始まったらゼマンコヴァは何もしてくれないのだろうか?
疑問は、老人の言葉にかき消された。
「おかしいですな。老いぼれの耳のせいでなかったら、二種類聞こえます。足音が」
そう言われると、そんな気もしてくる。ゼマンコヴァのように自己犠牲精神に目覚めた評議員が、あと二人も残っていたのだろうか。
ソファーを離れ、サキは降り口が見える場所まで移動した。付いてきたゼマンコヴァの表情も硬い。
現れたのは、フェルミとギディングスだった。
「ゼマンコヴァ評議員」
フェルミが抑揚のない声を出す。
「こちらにいらしていたのですね。困りますな。勝手な判断で動かれては」
「すまんの」
老人の声に険がある。
「つまりお主らは、勝手な判断で来ていないということだな?」
「ええ……ご不在の間に他の評議員で評決を取りました。賛成がマリオン評議員・私・ギディングス評議員の三名。反対がイオナ評議員・カザルス評議員の二名。今回の騒動を、どのような形で締めくくるべきかという決定です」
ギディングスがあからさまにサキから目を反らしているので、ろくでもない決定に違いないとサキは予感する。
「犯人が誰であったにせよ、正直にここへやってくるような見上げた人間ではないでしょう。だとしても、民衆の不満をかわすために、決闘を成り立たせる必要がある」
そこまではゼマンコヴァと同じ見解だ。
「そこで我々は、殿下に負けていただくことを決めました」
結論が正反対だった。
自分がそれほど腹を立てていないのがサキ自身にも意外だった。免疫がつきすぎたのか―――あるいはサキが評議員の立場だった場合、そうするのも合理的と考えられるからだろうか。
「僕を殺して、『摂政殿下は決闘で落命された。犯人はだれか分からない。そのうち探すから、今は諦めてください』と民衆に頼むのかい?通ると思ってるの?」
「それだけなら、納得してもらえないでしょう」
フェルミは氷柱のような無表情だ。
「殿下の代わりに、殿下の姉上、あるいは他のご親族を摂政に迎えます」
「へえ?」
これは予想外の展開だ。
「その方には犯人追及の陣頭指揮も執っていただきます。殿下の仇を取らせるという名目なら、民衆も我慢してくれるでしょう」
サキは感心しながら呆れている。
「姉上にしても他の親族にしても、お前たちの言い分を信じて、おとなしく従うと思ってるのか」
「難しいかもしれません。早晩、手に負えなくなるかもしれません。それでもなお、あなたが国家元首で居続けるよりは安全だと、判断したのです」
「僕がそんなに邪魔なのか、危険なのか」
サキは弱気になった。
「僕、そんなに悪いことした?」
「悪いことをしそうなんですよ。とてつもなく悪いことをね」
フェルミは片方の掌でもう片方の指を一本ずつ握り始めた。拳銃を握る前の準備運動だ。
「摂政になって二ヶ月足らずだっていうのに、あんたは暴君の片鱗を見せ始めている。知り合いを助けるために国を割ると脅迫したり、その知り合いが都合のいいように貴族制度を弄くる権利を求めたり……末恐ろしいとはこのことです」
「ちょっと待て、カヤに濡れ衣を着せようとしていたのはそっちだろうが!」
サキは承伏できない。貴族制度の件については、まあ、前のめりすぎたかなと反省しなくもないけれど。
「あれは確かに陰謀でした。情けない話ですが世の中には不正が横行している。不正な判断、不正な解決策――たった今、我々がしようとしていることだってとびきりの不正には違いない」
フェルミは傍らのギディングスに視線を移したが、無視された。
「問題は、不正を通す力の大きさなんです。あんたは既に、怪物だ。民衆を操るコツのようなものを身につけ、玩具のように操って楽しんでいる」
「お、おお玩具だなんて思ってないさ」
サキは動揺を隠すのに失敗した。
「そんな理由か。そんな理由で国家元首を殺すっていうのか」
「国が危うい。君主を弑虐するに足る理由です。以前から、俺はあんたが気がかりだった。だからこの機会に提案したんです」
マリオンではなく、こいつが首謀者なのか。サキには意外だった。評議会におけるフェルミを、これまで重要視して来なかった。背景の一部くらいに考えていた。
どんな理由にせよ、殺されたくはない。
やっぱり姉上の薦めに従った方がよかっただろうか、とサキは後悔する。自分の行動原理を探せと言われたけれど、そんなもの、一朝一夕で見つかるものではないと後回しにして来た。しかし、それを判りやすく示したら、危険人物扱いも薄れるのではないだろうか。
頼んでみようか。「これから自分の安全さを証明するための信念を決めるので、少し待ってください」と。
「もうよい。そなたらの自己弁護は聞き飽きた」
提案する前に、ゼマンコヴァが打ち切ってしまった。
「国益だの国難だのいかにお題目を並べようと、そなたらがやろうとしていることは醜い裏切りに過ぎん。たしかに儂も、一時は殿下と対立していたし、殺害を検討する局面もあった。しかしだな、今日冬宮が暴徒に囲まれた折、殿下には我々を見殺しにする選択肢もあったはず。なのに危険を冒してまで我らを助けて下さったのだぞ。命がけの決闘を執り行うと宣言して下さったのだぞ!」
顔を紅潮させる老人の後ろで、サキは言葉に詰まっている。どうしよう。決闘をするつもりなんかない、とますます言い出せなくなった。
「ではゼマンコヴァ評議員」
フェルミが瞳を引き絞る。
「このままお帰りいただくわけには行かないのですね」
「当然だ。儂は戦う。殿下と共にな」
重々しい足取りで、老人は一歩前へ踏み出した。
「この歳になって、軍に失望するとは思いもよらなかった。我が手で正すしかないようだ」
大声で、老人は怒りを吐き出した。
「決闘だ!そなたらに挑戦する!」
ええっ。
ちょっと待って下さい。あまりの急転回にサキは焦る。だからだから、僕は決闘なんてしたくないんですってば!あと三十分くらいで、全部片がつくはずなのに。
「あの、ゼマンコヴァ評議員」
おそるおそる声をかけると、老人は孫をあやすような笑顔を返した。
「殿下は、この階に残っていただきたい。フェルミは儂が片づけます」
よろよろと歩みを薦める。九十五という歳を思えば、杖なしで歩行できるだけで大したものだが、これでは殺し合いなんてままならない―――サキがそう評価した、次の瞬間だった。
前触れもなく老人が足運びを加速させる。
擬態だった。驚いた様子のフェルミが軍服から拳銃を取り出す。ゼマンコヴァも銃を構えている。すでに決闘の距離だ。幼児でも致命傷を与えうる位置だ。
先手を取られたフェルミだったが、以降の対応は素早いものだった。振り向きもせず、そのまま後方へ跳躍する。その位置はすでに階段で、転げ落ちる危険も承知の上と思われる跳躍だ。一瞬でフェルミの姿は視界から消えた。転落するような音は響かない。着地に成功したのだろう。
サキが暢気に感心していると、ゼマンコヴァも階段へ飛び込んだ。相手を視界から消してはならないという判断だろう。
一発、銃声が鳴り響いた。足音は次第に遠ざかって行く。
最上階にはサキと、突っ立ったままのギディングスが残された。
(あれ?)
サキは状況を分析する。
フェルミがいなくなったのはいい。ゼマンコヴァが引き受けてくれたのも有り難い。けど、目の前のこいつは?ギディングスは僕がやらなきゃいけないの?
「うわー」
ギディングスが緊張のかけらもない声を出す。
「だっるい」
サキは己の迂闊さを思い知らされた。
犯人が決闘に応じても応じなくても、サキはどちらでも構わなかった。決闘の予定時刻より前にニコラが犯人を公表してくれるからだ。
だが犯人が、予定時刻より早くこの場へやって来た場合は厄介だ。全く想定外だった。むしろ想定するべきだったのに。
犯人が定刻にやって来た場合、サキに勝利しても、衆目に身をさらすわけには行かないから、隠れて脱出しなければならない。定刻より前に来た方が、注目されていない分、人目につく危険は減るはずだ。
弱点だ。僕の弱点に気付いた。ツメが甘いんだ!
サキは数時間前の自分を殴ってやりたかった。いばら荘に籠もるのは自分一人でいい、なんて強がらないで、定刻ぎりぎりまで周囲に警備を置けば問題なかったのに。
「やべっ、銃、弾丸!」
弾の装填さえ終わっていない。サキは焦ってポケットから一式を取り出した。落ち着け。拳銃の暴発で致命傷を負いでもしたら、笑い話にもならない。
装填を終え、サキは螺旋階段の降り口を凝視した。足音が近づいてくる。ゆっくりと。
降り口から現れたのは、ゼマンコヴァ評議員だった。
「こんばんは。殿下」
「……こんばんは」
サキは反応に迷う。この老人も評議員の一人なのだから、容疑者の範囲内という意味では意外性はない。しかしあの三人の中では、可能性は一番低いと考えていたのだが。
「あなただったんですか」
「いいえ」
老人はゆっくりと首を横に振る。
「証明する術はありませんが、私は議長を殺めてなどおりません」
「そう仰るのなら、別に疑いはしませんけれど」
サキの目に、老人は嘘をついているようには見えなかった。
「じゃあ何のためにいらしたんです?」
階段を上ってきたせいか、ぜいぜいと息を切らしている老人を、サキはソファーに誘った。油断しすぎているだろうか。しかし警戒心を露わにするのは気がひけた。
「犯人が、来るのなら問題はないのです」
背もたれに身を預け、老人は首を伸ばす。
「問題は来ない場合です。ことここに至るまで、知らぬふりを決め込んで来たような卑劣漢ですからの、おそれをなして、応じないかもしれません」
「そこまで慎重でしょうか」
「慎重というより、責任を取りたくない人間なのかも」
ゼマンコヴァは大きく延びをする。
「来なかったら、殿下も困る。我々も困る。そのために、私がやって参りました」
王国軍最年長の老雄は、いたずら小僧のように、にかりと笑った。
「定刻になっても犯人が来なかったら、この老いぼれを撃ち殺していただきたい」
「ばかな」
サキの胸がざわついた。この不快感は、戦場で味方をかばった少年を見たときのものに近い。
「かばうと言うんですか。白を切り通すような犯人を」
「犯人のため、と言うより、この王国の、万民のためと考えていただきたい」
ゼマンコヴァはソファーに肩を擦り付ける。心なしか、これまでで一番くつろいだ様子だ。「私は老い先も短く、平民出身です。軍でも貴族社会でも、大した勢力を築いているわけでもありません。丸く収まるのですよ。私を犯人にした方が」
そこまで言って、老人は身を起こす。
「とはいえ、私にも家族はございますので、どうか、彼らには累が及ばないようにお願いしたいのですが」
立派な人だな、とサキは尊敬の念を抱いた。
同時に困惑もさせられる。迷惑な人でもあるからだ。なぜならサキは決闘なんかするつもりがない。後は姉上に任せるだけだ。この老人を撃つような状況は訪れないはずだ。
もう犯人は分かっている(らしい)と、教えてやるべきだろうか。
いや、それは迂闊すぎる、とサキは思い直す。ゼマンコヴァが本当に犯人ではないのか確証がない。犯人でなかったとしても、すでに犯人を知っていて、その人物をかばうために身代わりを申し出たのかもしれない。いずれにせよ、言わない方がいい。提案を受け入れる振りだけしておこう。
「……わかりました。あくまで犯人がやってこなかった場合の保険として、承っておきます」
「まあ、それほど深刻に考えないでいただきたい。何しろ九十五の年寄りです。お釣りで生きているようなものですから」
「そうですね、あと五年くらいでしょうしね」
失礼を口走りながら、サキはあと三十分ほどどうしていようかと悩んだ。
「ゼマンコヴァ評議員、この国をどう思いますか?」
「これはこれは」
考えなしにサキの口から出た質問に対して、老人は目尻の皺を増やした。
「この老いぼれには難題ですなあ。私は軍務一筋の人生で、
それはサキも承知の上だ。
「ですが、平民出身で軍の最高位まで昇った希有な経歴の持ち主だ。今回の戦役も含めた騒動に関して、思うところがお有りでは」
「殿下は」
僅かに老人の表情が引き締まる。
「人民の手による政治、という考え方に、興味をお持ちなのですかな」
「利用したい、とは思っています」
サキは正直に答えた。
「押さえつけるだけでなく、いくらか取り入れて、権力の源泉の一つにできたらなと」
「貴族制度、身分制度と言ったものについて、私は大した疑問も抱かずに生きて参りました」
ゼマンコヴァは天井を見上げた。「平民出身で、私ほど国家の恩恵を受けた人間もいないでしょう。才能を見い出され、評価され、過分とも思える地位を得た。ですから常々こう考えておりました。『身分の違いなど些細な話だ。努力すれば、誰でも相応の報酬が手に入り、栄誉も得られるのだから』とね。それが強者の発想であるとも承知の上で、そう考えていたのです。し
かし」
老人は顎の角度を下げる。
「お恥ずかしながら、この歳になって揺らぎ始めておりますす」
「バンド氏ですか?」
サキが挙げた名前に、ゼマンコヴァは苦笑した。
「そう、あの男。あの家宰は私なんぞより深いところを見据えておったのでしょう。もちろん、誉められた振る舞いばかりではありませんでしたが、あの男の目指したものはーー」
ふいに会話が途切れる。理由は、サキも理解していた。足音が聞こえる。またしても、階段を登る足音だ。
「今度こそ犯人でしょうか。だとしてもせっかちですね」
平静を装いながらサキは困惑している。今、やって来るのが犯人だったとして、まともな決闘が始まったらゼマンコヴァは何もしてくれないのだろうか?
疑問は、老人の言葉にかき消された。
「おかしいですな。老いぼれの耳のせいでなかったら、二種類聞こえます。足音が」
そう言われると、そんな気もしてくる。ゼマンコヴァのように自己犠牲精神に目覚めた評議員が、あと二人も残っていたのだろうか。
ソファーを離れ、サキは降り口が見える場所まで移動した。付いてきたゼマンコヴァの表情も硬い。
現れたのは、フェルミとギディングスだった。
「ゼマンコヴァ評議員」
フェルミが抑揚のない声を出す。
「こちらにいらしていたのですね。困りますな。勝手な判断で動かれては」
「すまんの」
老人の声に険がある。
「つまりお主らは、勝手な判断で来ていないということだな?」
「ええ……ご不在の間に他の評議員で評決を取りました。賛成がマリオン評議員・私・ギディングス評議員の三名。反対がイオナ評議員・カザルス評議員の二名。今回の騒動を、どのような形で締めくくるべきかという決定です」
ギディングスがあからさまにサキから目を反らしているので、ろくでもない決定に違いないとサキは予感する。
「犯人が誰であったにせよ、正直にここへやってくるような見上げた人間ではないでしょう。だとしても、民衆の不満をかわすために、決闘を成り立たせる必要がある」
そこまではゼマンコヴァと同じ見解だ。
「そこで我々は、殿下に負けていただくことを決めました」
結論が正反対だった。
自分がそれほど腹を立てていないのがサキ自身にも意外だった。免疫がつきすぎたのか―――あるいはサキが評議員の立場だった場合、そうするのも合理的と考えられるからだろうか。
「僕を殺して、『摂政殿下は決闘で落命された。犯人はだれか分からない。そのうち探すから、今は諦めてください』と民衆に頼むのかい?通ると思ってるの?」
「それだけなら、納得してもらえないでしょう」
フェルミは氷柱のような無表情だ。
「殿下の代わりに、殿下の姉上、あるいは他のご親族を摂政に迎えます」
「へえ?」
これは予想外の展開だ。
「その方には犯人追及の陣頭指揮も執っていただきます。殿下の仇を取らせるという名目なら、民衆も我慢してくれるでしょう」
サキは感心しながら呆れている。
「姉上にしても他の親族にしても、お前たちの言い分を信じて、おとなしく従うと思ってるのか」
「難しいかもしれません。早晩、手に負えなくなるかもしれません。それでもなお、あなたが国家元首で居続けるよりは安全だと、判断したのです」
「僕がそんなに邪魔なのか、危険なのか」
サキは弱気になった。
「僕、そんなに悪いことした?」
「悪いことをしそうなんですよ。とてつもなく悪いことをね」
フェルミは片方の掌でもう片方の指を一本ずつ握り始めた。拳銃を握る前の準備運動だ。
「摂政になって二ヶ月足らずだっていうのに、あんたは暴君の片鱗を見せ始めている。知り合いを助けるために国を割ると脅迫したり、その知り合いが都合のいいように貴族制度を弄くる権利を求めたり……末恐ろしいとはこのことです」
「ちょっと待て、カヤに濡れ衣を着せようとしていたのはそっちだろうが!」
サキは承伏できない。貴族制度の件については、まあ、前のめりすぎたかなと反省しなくもないけれど。
「あれは確かに陰謀でした。情けない話ですが世の中には不正が横行している。不正な判断、不正な解決策――たった今、我々がしようとしていることだってとびきりの不正には違いない」
フェルミは傍らのギディングスに視線を移したが、無視された。
「問題は、不正を通す力の大きさなんです。あんたは既に、怪物だ。民衆を操るコツのようなものを身につけ、玩具のように操って楽しんでいる」
「お、おお玩具だなんて思ってないさ」
サキは動揺を隠すのに失敗した。
「そんな理由か。そんな理由で国家元首を殺すっていうのか」
「国が危うい。君主を弑虐するに足る理由です。以前から、俺はあんたが気がかりだった。だからこの機会に提案したんです」
マリオンではなく、こいつが首謀者なのか。サキには意外だった。評議会におけるフェルミを、これまで重要視して来なかった。背景の一部くらいに考えていた。
どんな理由にせよ、殺されたくはない。
やっぱり姉上の薦めに従った方がよかっただろうか、とサキは後悔する。自分の行動原理を探せと言われたけれど、そんなもの、一朝一夕で見つかるものではないと後回しにして来た。しかし、それを判りやすく示したら、危険人物扱いも薄れるのではないだろうか。
頼んでみようか。「これから自分の安全さを証明するための信念を決めるので、少し待ってください」と。
「もうよい。そなたらの自己弁護は聞き飽きた」
提案する前に、ゼマンコヴァが打ち切ってしまった。
「国益だの国難だのいかにお題目を並べようと、そなたらがやろうとしていることは醜い裏切りに過ぎん。たしかに儂も、一時は殿下と対立していたし、殺害を検討する局面もあった。しかしだな、今日冬宮が暴徒に囲まれた折、殿下には我々を見殺しにする選択肢もあったはず。なのに危険を冒してまで我らを助けて下さったのだぞ。命がけの決闘を執り行うと宣言して下さったのだぞ!」
顔を紅潮させる老人の後ろで、サキは言葉に詰まっている。どうしよう。決闘をするつもりなんかない、とますます言い出せなくなった。
「ではゼマンコヴァ評議員」
フェルミが瞳を引き絞る。
「このままお帰りいただくわけには行かないのですね」
「当然だ。儂は戦う。殿下と共にな」
重々しい足取りで、老人は一歩前へ踏み出した。
「この歳になって、軍に失望するとは思いもよらなかった。我が手で正すしかないようだ」
大声で、老人は怒りを吐き出した。
「決闘だ!そなたらに挑戦する!」
ええっ。
ちょっと待って下さい。あまりの急転回にサキは焦る。だからだから、僕は決闘なんてしたくないんですってば!あと三十分くらいで、全部片がつくはずなのに。
「あの、ゼマンコヴァ評議員」
おそるおそる声をかけると、老人は孫をあやすような笑顔を返した。
「殿下は、この階に残っていただきたい。フェルミは儂が片づけます」
よろよろと歩みを薦める。九十五という歳を思えば、杖なしで歩行できるだけで大したものだが、これでは殺し合いなんてままならない―――サキがそう評価した、次の瞬間だった。
前触れもなく老人が足運びを加速させる。
擬態だった。驚いた様子のフェルミが軍服から拳銃を取り出す。ゼマンコヴァも銃を構えている。すでに決闘の距離だ。幼児でも致命傷を与えうる位置だ。
先手を取られたフェルミだったが、以降の対応は素早いものだった。振り向きもせず、そのまま後方へ跳躍する。その位置はすでに階段で、転げ落ちる危険も承知の上と思われる跳躍だ。一瞬でフェルミの姿は視界から消えた。転落するような音は響かない。着地に成功したのだろう。
サキが暢気に感心していると、ゼマンコヴァも階段へ飛び込んだ。相手を視界から消してはならないという判断だろう。
一発、銃声が鳴り響いた。足音は次第に遠ざかって行く。
最上階にはサキと、突っ立ったままのギディングスが残された。
(あれ?)
サキは状況を分析する。
フェルミがいなくなったのはいい。ゼマンコヴァが引き受けてくれたのも有り難い。けど、目の前のこいつは?ギディングスは僕がやらなきゃいけないの?
「うわー」
ギディングスが緊張のかけらもない声を出す。
「だっるい」