家族
文字数 3,017文字
黒繭家当主の毎日は多忙を極めるものだ。
起床は六時。朝食を採ってすぐに、その日、黒繭劇場で上演される「決闘の王子」の台本に眼を通す。その後劇場へ出かけ、舞台裏で出演予定者に欠員がいないか、体調は万全かを直々に確認する。その足で闘技場を訪れて、当日執り行われる決闘の詳細――真剣勝負か「やらせ」含みの形式かによって留意点は変わる―――を詰めた上で、館へ戻り、昼食を採る。途中で屋台の出し物に銀貨を払い、味に衰えがないかを調べることも怠らない。
午後は執務室にこもり、一時から三時までの間に領地持ち貴族が本来従事するべき仕事を片づける。夕方は余裕があれば闘技場か劇場のいずれかを見学。劇団への入団希望者がいれば、この時間に面接を行う。
夕食後は王都を馬車で巡り、評判のいい芝居や戯曲等を鑑賞する。断じて息抜きではない。日々生まれくる新しい試みや才能を「決闘の王子」へと反映させるためだ。帰宅後も、同じ観点から新刊の小説、海外から取り寄せた演劇の研究書、シェイクスピアの研究論文等を読みふけり、 零時の鐘が鳴っても床に就くことはない。
歴代当主は、自身を演出家の類とみなしていた。黒繭劇場にも、闘技場にも(やらせを盛り上げるために)演出家は配備されている。しかし「決闘の王子」が民衆にもたらす夢の世界は、劇場と闘技場だけに収まるものではない。
虹模様の屋台を飾る色とりどりの仮面、奇妙な形状の駄菓子。
歌いながら色鮮やかなチラシをばらまく売り子たち。劇場前で妙技を披露する大道芸人。
それら全てをとりまとめ、言語には容易に翻訳できないある種の統一感を維持することが彼の役目。
黒繭家当主は夢の支配人なのだ。
―――それでも、いつかは終演が訪れる。
衣装部屋で極彩色の着ぐるみに囲まれながら、現在の当主は先代の言葉を思い出していた。
民衆には、よりかかるものが必要だ。罪のない、中身のない、きらびやかなだけの塊ほど、心を預けやすい。だからこの物語は愛されている。宗派、民族を問わず夢中になり、同じ夢を愉しむことで、夢の外でも繋がっている。
そのまじないは、永遠ではない。いつか民草が各々で夢を育て、自分の心に責任を持つようになったとき、孔雀男もその主人も輝きを失うだろう。そんな時代が訪れたら、当主はきっぱりと演劇から手を引き、領地経営者としてのんびりと生きればよい。
侯爵は身震いしていた。庶民の家一つが丸ごと収まるほど広大な衣装部屋に、所狭しと孔雀男の衣装が詰め込まれている。怪人の姿は、時代や流行に合わせて変化する。古い時代に造られた衣装などは、孔雀という生き物の色・形が広まっていなかったために、孔雀とは程遠い、純白や赤一色のものさえあるくらいだ。
夢の終わりは、自分の代で訪れるかもしれない。
怪人に囲まれ、侯爵は未来を思い描く。これまで、演劇のことだけ考えて生きて来た。それらが必要とされなくなったら、自分には何が残るのだろうか。
「まあ、こんなところにいらしたの」
妻が入り口から顔を覗かせた。「隠れんぼですか。昔はよく遊んだわねえ、この辺りで」
妻が懐かしそうに部屋を見渡す。この衣装部屋は劇場内ではなく、邸宅の離れに設けられたものだ。保管している衣類があまりに嵩むため、使用頻度の低いものを館に移している。
妻が初めてこの部屋に入ったとき、非現実的な衣装に眼を輝かせて見入っていたのを覚えている。彼女は侯爵の幼なじみだった。正確には、生まれて間もなく決められた許嫁だ。それに比べると、息子たちは間もなく適齢期だというのに、伴侶が決まっていない。芝居にかまけてあてがってやる機会を逃してしまったのだ。 同じく演劇の虜だった父親は、自分にこうして妻を用意してくれたのに、情けない。
「お夕食の準備が出来たそうですよ。早く戻ってくださいな」
妻がドアノブをギコギコと動かした。
「あなたがいないと、私一人になってしまうから、味気なくて」
「ニコラはどうしたね」
「夕方からサキのところに行ってます。今日は泊まってくるそうよ」
つまらなそうに、妻は指先を前髪に絡める。
君主の座に就いた次男サキは現在、摂政府で暮らしている。終戦後はしばらくこの館に戻っていたが、準男爵家の令嬢が拘留された日に再び出て行って、それから一ヶ月近く帰ってこない。
「サキは」
侯爵はおそるおそる訊いた。
「何か言っていたかね」
「何かって、何がです?」
妻は首を傾げた。
「あれが苦しいとき、私が、ろくに力を貸してやれなかったことについてだ」
「さあ。知りませんわよそんなの。あの子、割合親に気を遣う方ですから。私の前で、あなたの悪口は言いませんし」
「そうか、そうだな」
「ですから夕飯。冷めてしまいますわよ」
急かされても部屋を出る気になれず、黒繭家当主は立ちすくんでいた。
「悔いてらっしゃるの?」
妻が咎めるように眼を眇める。
「一般的な家族の親愛と、あなたが大事に思うものを秤にかけた結果、あなたはあの子を切り捨てた。それを本人やニコラが怒るのは当然でしょうし、私が怒るのも母親としての権利。でも、あなたが気に病む必要はないのでは?」
「違う、私は」
侯爵は妻から眼を反らしたが、孔雀男の仮面にぶつかって、やむなく視線を戻した。この部屋には正義の味方が充満している。偽ることは難しい。
「助けたかったんだ。本当は助けてやりたかった。芝居は大事だ。だが家族も愛しているんだ。しかし、私の人脈も、権勢も大したものではなかった。舞台を失うわけにはいかなかった。だから手出しができなかっただけで、本当は、あの子を助けてやりたかったんだ!」
「あなた」
妻の表情が、ふいに和らいだ。
「わたしね、初恋の相手がいましたのよ」
侯爵は眼を瞬く。
「十六の冬に、遠縁の荘園へ遊びに行った折に知り合いました。会ったばかりだったのに、たちまち恋に落ちたの。悲しいことに私も彼も許嫁持ちでしたけど、そのときは恋情に浮かれていましたから、約束したんです。駆け落ちしようって。荘園から帰るその日の朝に、二人落ち合って、外国で暮らそうって」
「……言いたいのかね。私といるのは妥協にすぎないと」
「あら、そんなことはありませんわ。彼とは断ち切れたんですもの。来なかったんです。約束の場所に」
この場にいない誰かを蔑むように、妻は流し目を送る。
「一昨年だったかしら。ある宴席で、偶然再会したのです。貴族社会なんて狭いものですから、有りうる話ですわよね。彼は申し訳なさそうにしていました。『すまなかった。君を愛していたのは本当なんだ。君と一緒に逃げようと思っていた。君と一緒の人生を送りたいと思っていたんだ』そう仰っていました。義理堅いことですわね」
妻が何を告げたいのか、よく判らない。
「それでね、私、言って差し上げましたの。それはどうもありがとうございます。『思っていた』だけなのねって」
鎖で縛られるより、痛い言葉だった。
部屋中の孔雀男から見つめられながら、侯爵は訊く。
「これから私は、何を成すべきだろうか」
「実は、あるそうですのよ。あの子を助けるために、あなたにしか出来ないお仕事が」
妻は片目を瞑る。
「ニコラが戻って来ています。あなたにお願いがあるらしいですわ」
起床は六時。朝食を採ってすぐに、その日、黒繭劇場で上演される「決闘の王子」の台本に眼を通す。その後劇場へ出かけ、舞台裏で出演予定者に欠員がいないか、体調は万全かを直々に確認する。その足で闘技場を訪れて、当日執り行われる決闘の詳細――真剣勝負か「やらせ」含みの形式かによって留意点は変わる―――を詰めた上で、館へ戻り、昼食を採る。途中で屋台の出し物に銀貨を払い、味に衰えがないかを調べることも怠らない。
午後は執務室にこもり、一時から三時までの間に領地持ち貴族が本来従事するべき仕事を片づける。夕方は余裕があれば闘技場か劇場のいずれかを見学。劇団への入団希望者がいれば、この時間に面接を行う。
夕食後は王都を馬車で巡り、評判のいい芝居や戯曲等を鑑賞する。断じて息抜きではない。日々生まれくる新しい試みや才能を「決闘の王子」へと反映させるためだ。帰宅後も、同じ観点から新刊の小説、海外から取り寄せた演劇の研究書、シェイクスピアの研究論文等を読みふけり、 零時の鐘が鳴っても床に就くことはない。
歴代当主は、自身を演出家の類とみなしていた。黒繭劇場にも、闘技場にも(やらせを盛り上げるために)演出家は配備されている。しかし「決闘の王子」が民衆にもたらす夢の世界は、劇場と闘技場だけに収まるものではない。
虹模様の屋台を飾る色とりどりの仮面、奇妙な形状の駄菓子。
歌いながら色鮮やかなチラシをばらまく売り子たち。劇場前で妙技を披露する大道芸人。
それら全てをとりまとめ、言語には容易に翻訳できないある種の統一感を維持することが彼の役目。
黒繭家当主は夢の支配人なのだ。
―――それでも、いつかは終演が訪れる。
衣装部屋で極彩色の着ぐるみに囲まれながら、現在の当主は先代の言葉を思い出していた。
民衆には、よりかかるものが必要だ。罪のない、中身のない、きらびやかなだけの塊ほど、心を預けやすい。だからこの物語は愛されている。宗派、民族を問わず夢中になり、同じ夢を愉しむことで、夢の外でも繋がっている。
そのまじないは、永遠ではない。いつか民草が各々で夢を育て、自分の心に責任を持つようになったとき、孔雀男もその主人も輝きを失うだろう。そんな時代が訪れたら、当主はきっぱりと演劇から手を引き、領地経営者としてのんびりと生きればよい。
侯爵は身震いしていた。庶民の家一つが丸ごと収まるほど広大な衣装部屋に、所狭しと孔雀男の衣装が詰め込まれている。怪人の姿は、時代や流行に合わせて変化する。古い時代に造られた衣装などは、孔雀という生き物の色・形が広まっていなかったために、孔雀とは程遠い、純白や赤一色のものさえあるくらいだ。
夢の終わりは、自分の代で訪れるかもしれない。
怪人に囲まれ、侯爵は未来を思い描く。これまで、演劇のことだけ考えて生きて来た。それらが必要とされなくなったら、自分には何が残るのだろうか。
「まあ、こんなところにいらしたの」
妻が入り口から顔を覗かせた。「隠れんぼですか。昔はよく遊んだわねえ、この辺りで」
妻が懐かしそうに部屋を見渡す。この衣装部屋は劇場内ではなく、邸宅の離れに設けられたものだ。保管している衣類があまりに嵩むため、使用頻度の低いものを館に移している。
妻が初めてこの部屋に入ったとき、非現実的な衣装に眼を輝かせて見入っていたのを覚えている。彼女は侯爵の幼なじみだった。正確には、生まれて間もなく決められた許嫁だ。それに比べると、息子たちは間もなく適齢期だというのに、伴侶が決まっていない。芝居にかまけてあてがってやる機会を逃してしまったのだ。 同じく演劇の虜だった父親は、自分にこうして妻を用意してくれたのに、情けない。
「お夕食の準備が出来たそうですよ。早く戻ってくださいな」
妻がドアノブをギコギコと動かした。
「あなたがいないと、私一人になってしまうから、味気なくて」
「ニコラはどうしたね」
「夕方からサキのところに行ってます。今日は泊まってくるそうよ」
つまらなそうに、妻は指先を前髪に絡める。
君主の座に就いた次男サキは現在、摂政府で暮らしている。終戦後はしばらくこの館に戻っていたが、準男爵家の令嬢が拘留された日に再び出て行って、それから一ヶ月近く帰ってこない。
「サキは」
侯爵はおそるおそる訊いた。
「何か言っていたかね」
「何かって、何がです?」
妻は首を傾げた。
「あれが苦しいとき、私が、ろくに力を貸してやれなかったことについてだ」
「さあ。知りませんわよそんなの。あの子、割合親に気を遣う方ですから。私の前で、あなたの悪口は言いませんし」
「そうか、そうだな」
「ですから夕飯。冷めてしまいますわよ」
急かされても部屋を出る気になれず、黒繭家当主は立ちすくんでいた。
「悔いてらっしゃるの?」
妻が咎めるように眼を眇める。
「一般的な家族の親愛と、あなたが大事に思うものを秤にかけた結果、あなたはあの子を切り捨てた。それを本人やニコラが怒るのは当然でしょうし、私が怒るのも母親としての権利。でも、あなたが気に病む必要はないのでは?」
「違う、私は」
侯爵は妻から眼を反らしたが、孔雀男の仮面にぶつかって、やむなく視線を戻した。この部屋には正義の味方が充満している。偽ることは難しい。
「助けたかったんだ。本当は助けてやりたかった。芝居は大事だ。だが家族も愛しているんだ。しかし、私の人脈も、権勢も大したものではなかった。舞台を失うわけにはいかなかった。だから手出しができなかっただけで、本当は、あの子を助けてやりたかったんだ!」
「あなた」
妻の表情が、ふいに和らいだ。
「わたしね、初恋の相手がいましたのよ」
侯爵は眼を瞬く。
「十六の冬に、遠縁の荘園へ遊びに行った折に知り合いました。会ったばかりだったのに、たちまち恋に落ちたの。悲しいことに私も彼も許嫁持ちでしたけど、そのときは恋情に浮かれていましたから、約束したんです。駆け落ちしようって。荘園から帰るその日の朝に、二人落ち合って、外国で暮らそうって」
「……言いたいのかね。私といるのは妥協にすぎないと」
「あら、そんなことはありませんわ。彼とは断ち切れたんですもの。来なかったんです。約束の場所に」
この場にいない誰かを蔑むように、妻は流し目を送る。
「一昨年だったかしら。ある宴席で、偶然再会したのです。貴族社会なんて狭いものですから、有りうる話ですわよね。彼は申し訳なさそうにしていました。『すまなかった。君を愛していたのは本当なんだ。君と一緒に逃げようと思っていた。君と一緒の人生を送りたいと思っていたんだ』そう仰っていました。義理堅いことですわね」
妻が何を告げたいのか、よく判らない。
「それでね、私、言って差し上げましたの。それはどうもありがとうございます。『思っていた』だけなのねって」
鎖で縛られるより、痛い言葉だった。
部屋中の孔雀男から見つめられながら、侯爵は訊く。
「これから私は、何を成すべきだろうか」
「実は、あるそうですのよ。あの子を助けるために、あなたにしか出来ないお仕事が」
妻は片目を瞑る。
「ニコラが戻って来ています。あなたにお願いがあるらしいですわ」