絵描きの少女
文字数 1,454文字
「わかりっこないんだよ。ぼくの気持ちなんて、姉上たちにはさ」
夕食前、絵画の授業中。キャンバスに筆を走らせながらサキはぶつくさとこぼした。
授業と言っても、急用があるとかで家庭教師は不在。代役を務めるのは、教師の娘でサキより二歳年長のカヤという少女だ。サキは十歳からこの習い事をしているが、刺激になるとでも考えたのだろう、教師は度々、自分の娘を授業に連れてきた。同じ技法を習いながら、カヤの上達は目覚ましく、ものの数年で生徒から、臨時の教師へと役割を変えている。
「いつも言ってるよねー。ええと、『王冠』がニコラたちにはあって、サキにはないってやつ?あ、ここ、こうした方がいい」
くるりと筆を動かし、少女はサキの描線を正す。
中流だが、カヤも貴族階級の娘である。
親族でもない男女が同席するのはお互いそろそろ憚られる年頃なのだが、彼女の場合、大人たちからは大目に見てもらっていた。四六時中、カヤは回教徒のようなベールをまとっている。この格好の理由は主に、絵の具が飛び散ると着替えが面倒だからというものだ。色を混ぜるスペースがないとき等、パレット替わりにベールに塗り付けることさえある。
ようするに、描くことで頭の中がいっぱいなのだ。
「見えない冠なんだ。それが頭に乗っかっている人間だけが、世界を愛し、物事を前向きにとらえることができるのさ。そういう満たされた連中には、ない人間の弱さなんてわからない」
自前の「見えない王冠理論」を、サキは殊あるごとに説くのだが、賛同してくれる相手はまだいない。
「サキはあれだね。まっすぐの道に、迷路を見つけちゃう人だよね」
指先に絡めた数本の筆を、カヤは空に躍らせる。二人が居るこの美術室は、十数枚の真新しいキャンバスで埋め尽くされている。移り気なカヤが、授業と自身の創作を同時進行させているためだ。
「大げさじゃない?王冠だの、見えないだの。ようするに、自信を持っている人がうらやましいって話でしょう」
「……そうとも言うかな」
渾身の理論を要約された。サキはうなだれる。
「変なの。問題がわかってるなら、直せばいいだけでしょう」
カヤはあっさりと断じた。
「自信がないなら、自信を持てばいいじゃない」
うわあ……
なんという無理解。サキは怒る気にもなれなかった。当然と言えば当然だ。彼女もまた、王冠に恵まれた人なのだから。
「夢」
カヤは呟いて、手近にあったキャンバスの白に筆を這わせた。ひゅん、とき気味よく腕を回して弧を描く。毛ば立てた橙の筆先から、たったの一動作で太陽の外輪が生み出された。反対の手をパレットに浸し、灰色がこびりついた指を、コロナの上に叩きつけ、巡らせた。
うさぎだ。
吸い込まれる。渦巻いていた悩みが数秒の間、かき消されて、サキは絵画の魔法に魅せられた。こんなものは少女にとって習作ですらない、遊び半分だというのに。
「大きなウサギがね。太陽の上に飛び上がる夢、今朝、見たの。痛いくらい鮮やかな炎だった。あの炎を描きたいなあ難しいなあどうしたらいいだろって考えて手を動かしてるとね、いやなことなんて忘れちゃうよ。そういうもの、サキにはないの?」
「……ないよ」サキは正直に答えた。
「ふーん、かわいそ」
悪意のない笑みをこぼしながら、少女は別の画布にも太陽を咲かせる。
キャンバスを渡り歩くカヤの足運びは、まるで不定形の舞だ。
その軽快さのあとに、虹のような芸術が残される。
カヤといるときは、いつも同じだ。
サキは少女にみとれ、少女をうらやみ、そして少しだけ、憎悪する。
夕食前、絵画の授業中。キャンバスに筆を走らせながらサキはぶつくさとこぼした。
授業と言っても、急用があるとかで家庭教師は不在。代役を務めるのは、教師の娘でサキより二歳年長のカヤという少女だ。サキは十歳からこの習い事をしているが、刺激になるとでも考えたのだろう、教師は度々、自分の娘を授業に連れてきた。同じ技法を習いながら、カヤの上達は目覚ましく、ものの数年で生徒から、臨時の教師へと役割を変えている。
「いつも言ってるよねー。ええと、『王冠』がニコラたちにはあって、サキにはないってやつ?あ、ここ、こうした方がいい」
くるりと筆を動かし、少女はサキの描線を正す。
中流だが、カヤも貴族階級の娘である。
親族でもない男女が同席するのはお互いそろそろ憚られる年頃なのだが、彼女の場合、大人たちからは大目に見てもらっていた。四六時中、カヤは回教徒のようなベールをまとっている。この格好の理由は主に、絵の具が飛び散ると着替えが面倒だからというものだ。色を混ぜるスペースがないとき等、パレット替わりにベールに塗り付けることさえある。
ようするに、描くことで頭の中がいっぱいなのだ。
「見えない冠なんだ。それが頭に乗っかっている人間だけが、世界を愛し、物事を前向きにとらえることができるのさ。そういう満たされた連中には、ない人間の弱さなんてわからない」
自前の「見えない王冠理論」を、サキは殊あるごとに説くのだが、賛同してくれる相手はまだいない。
「サキはあれだね。まっすぐの道に、迷路を見つけちゃう人だよね」
指先に絡めた数本の筆を、カヤは空に躍らせる。二人が居るこの美術室は、十数枚の真新しいキャンバスで埋め尽くされている。移り気なカヤが、授業と自身の創作を同時進行させているためだ。
「大げさじゃない?王冠だの、見えないだの。ようするに、自信を持っている人がうらやましいって話でしょう」
「……そうとも言うかな」
渾身の理論を要約された。サキはうなだれる。
「変なの。問題がわかってるなら、直せばいいだけでしょう」
カヤはあっさりと断じた。
「自信がないなら、自信を持てばいいじゃない」
うわあ……
なんという無理解。サキは怒る気にもなれなかった。当然と言えば当然だ。彼女もまた、王冠に恵まれた人なのだから。
「夢」
カヤは呟いて、手近にあったキャンバスの白に筆を這わせた。ひゅん、とき気味よく腕を回して弧を描く。毛ば立てた橙の筆先から、たったの一動作で太陽の外輪が生み出された。反対の手をパレットに浸し、灰色がこびりついた指を、コロナの上に叩きつけ、巡らせた。
うさぎだ。
吸い込まれる。渦巻いていた悩みが数秒の間、かき消されて、サキは絵画の魔法に魅せられた。こんなものは少女にとって習作ですらない、遊び半分だというのに。
「大きなウサギがね。太陽の上に飛び上がる夢、今朝、見たの。痛いくらい鮮やかな炎だった。あの炎を描きたいなあ難しいなあどうしたらいいだろって考えて手を動かしてるとね、いやなことなんて忘れちゃうよ。そういうもの、サキにはないの?」
「……ないよ」サキは正直に答えた。
「ふーん、かわいそ」
悪意のない笑みをこぼしながら、少女は別の画布にも太陽を咲かせる。
キャンバスを渡り歩くカヤの足運びは、まるで不定形の舞だ。
その軽快さのあとに、虹のような芸術が残される。
カヤといるときは、いつも同じだ。
サキは少女にみとれ、少女をうらやみ、そして少しだけ、憎悪する。