黒い誘惑
文字数 4,355文字
日が傾き出した頃に、街道が様変わりを始めた。
退屈に流れていた左右の草原に、ときおり正方形の赤が現れる。庭園と呼べるほどの広さではない、大人を二十人詰め込んで一杯になる程度の面積に薔薇が敷き詰められている。
おそらく商用の薔薇ではない。グリムの支配地に入ったことを示す、美的感覚の顕示だろう。
サキは呆れる。誰もかれも、領地を好き勝手に飾りたがるものだ。
「もうすぐ見えてきますよ。通称『いばら荘』です」
カザルスが告げる。
地平線に、黒い塊が頭を出した。接近するにつれて、それは黒から濃い緑色へと色彩を変える。小高い山、あるいは丘だ。緑の中に、
さらに近付くと、緑の正体は狂い生えするいばらで、赤黒は大小の城館だと見て取れた。山頂に建つ、一際大きい館が「いばら荘」らしい。
平地に一部分だけ盛り上がった丘。そこに城を建てるにあたって、雑草のいばらを排除せず、むしろ薔薇に見立てて館を赤に染めたのだろう。なんとなく、武人らしい美的感覚だ、とサキは評価するが、生憎、建築様式とか、壁面の素材とかに興味を持っていられるような場面ではなかった。
「こういう状況でして」ばつが悪そうにカザルスが言う。
麓に人だかりが見える。百五十、いや二百名は集まっているだろうか。夕映えの中、彼らは炎のように沸き立っていた。まだ表情がわかる距離でもないのに判断できるのは、振り上げた手から黒い点が丘へ向かって消えていくからだ。投石だ。ほぼ全員が領主の館へ石を投げている。
馬車は速度を落とし、横合いの草むらへ隠れる。その場所で若い将校が待機していた。
「お疲れさまです」
くだけた動作で敬礼する。この人、年長者の受けは悪いだろうな、と若者のサキでも思うような覇気の無さだった。
「これは中佐のギディングス。私の配下です。給与未払いの件で、騒ぎ始めた農民を宥めておくよう指示しておいたのですが」
カザルスは配下を睨んだ。
「どうみても悪化しているみたいだが、お前、仕事したんだろうな」
「怠けてました」
正直すぎる。
「怠けることが最善と判断したんです。硬軟どっちのやり方でも、あの連中を押さえるのは難しそうなんで。下手を打った場合、俺は農民に殺されてしまいます。そうなると単なる抗議行動から反乱へと格上げです。農民にとってもこちらにとっても有りがたくない展開になります。そういう深謀遠慮の結果、仕方なく怠けました」
あまりに堂々とした配下の弁明に、カザルスは肩をすくめて何も言わない。
変わった軍人の下には変わった配下が付くものだな、とサキは納得する。
「もう少し詳しい状況を説明します」
ギディングスが馬車内の四名を順繰りに眺めつつ語る。
「あの丘を登って城館へ入るには正面の門をくぐる必要があるのですが、それが朝から閉ざされたままです。石投げは、その門を狙ったものです」
確かに意識を集中すると、がん、がが、がん、と鉄の殴られる音が響いているようだ。
「逆に言うと、門を強引に突破するほど煮立ってはいないんです」
ギディングスは手をひらひらと動かす。
「それはいばら荘側も同じで、衛兵で鎮圧するつもりもないようです。それをやってしまっても『反乱』扱いになって、色々面倒ですからね」
「来る前にも確認したが、議長は城の中にいらっしゃらないんだな?」
カザルスが訊くと、ギディングスは大儀そうに首を振った。
「少なくとも、動いて言葉を話す議長にはお目にかかれませんでした。交渉のため何回か館に入ったんですが、会えた中で一番の大物が、議長宅の家宰です」
家宰はその名の通り、貴族の家中で宰領権を与えられた最上級の家臣だ。国法で設置が義務づけられた役職というわけではないが、大貴族の家中では大体、それに近い役割を担う使用人が存在するものだ。黒繭家の場合、フランケンがその位置にいる。
「やっぱり変だよな。家宰がいるのに、給金の支払いができないなんて」
サキはグリムの恐ろしい体躯を思い浮かべた。
「あの議長、どれだけ独裁者なんだ」
「まあとにかく、そういった次第でして」
気楽な声を出し、カザルスがサキの肩を軽く叩いた。
「摂政殿下、お願いいたします」
は?
「あの暴徒たちに、狼藉を控えさせるよう説得していただきたいのです」
「はあああああ?」
速度を上げ、馬車は暴徒が集まる場所へ近付いていく。すでに怒号の内容まで聴き取れる位置だ。
「給金泥棒!」「ろくでなし!」
「ぶっころしてやる!」
口々に怒りをぶちまけていた。
最近の農民は気が荒いんだな、とサキは思ったが、彼らの姿を見て驚き、同時に納得した。包帯を巻き、松葉杖をついた者もいる。今回の戦役で、選抜民兵に参加したものが混ざっているのだ。それは、怒るだろう。戦争なんかに駆り出されて死ぬような思いをした後帰ってきたら、給金が未払い。激怒しない方がおかしい。
その激高の中に放り込まれることに気づいたサキは、今更ながら青ざめた。
「ひどすぎる」
カザルスを睨む。
「今度は僕を、農民に殴らせるつもりかっ」
「まさか。そこは殿下の弁舌で鎮めていただきたいのですよ」
「今までなかったよな!おまえ等が僕の弁舌を評価したことなんて」
「この程度で怖じ気付かないでくださいよ。戦場に比べたら、石ころです。こんなの」
フェルミが気だるい声を出す。
「嘘付け、戦場より剣呑だぞ、これ!」
「大丈夫ですよサキ。これは難しい仕事ではありません」
「姉上まで!何の根拠があって・・・」
「デジレの諸君!朗報だぞ救済だぞ。諸君等の給金支払いのため、摂政殿下がお出ましになった!」
カザルスが大声を上げた。投石と罵声に熱中する余り、後方からやってくる馬車に気づいていなかった暴徒の群が、一斉に振り向いた。
死ぬ!
それから数分間の光景を、サキは生涯忘れることはないだろう。
割れた。暴徒の群が。
馬車からおそるおそる立ち上がったサキの姿を視認した瞬間、激情に歪んでいた暴徒の表情が、兵士のそれに変わった。眉を上げ、唇を引き締め、掌の石ころを足下に捨てる。それから素早い動きで敬礼した。
先にギディングスがしたそれに比べて千倍は心のこもった動作だった。
ほぼ全員がサキに気付いた瞬間、あの戦場で共に戦った選抜民兵に戻ったようだった。ごくわずかな暴徒のみ、戸惑いがちに同じ体勢をとった辺りをみると、選抜民兵でなかった者はごく一部らしい。
誰に指揮されているわけでもないのに、暴徒は整然と並び、サキと丘の間に道をつくった。
「おお神の御業にて大海は分かたれり。約束の地へと我らを導かん」
カザルスが芝居がかった台詞で茶化した。
ギディングスは感心した風に口笛を吹き、
フェルミと姉はとくに意外ではなさそうに涼しい顔だ。
「・・・事情は聞いている。給金が支払われず、皆、憤慨しているそうだな」
誰が暴徒のまとめ役か、そういう者がいるのかも判らないので、適当に動きながらサキは全員に語りかける。
「安心してほしい。いばら荘の方では、皆にお金を払うつもりがないわけではないとの話だ。ただ少し問題が発生していて、直近の賃金総額が計算できなくなっているらしい。こういう場合の解決策として、常日頃はこの者にこの程度払っている、という数字からある程度割り増しをした金額を払ってはどうか、という提案をするつもりでいるから、あと半日ほど我慢してほしい」
サキの言葉に対し、返ってきたのは賛同の言葉でも抗議でもなく、二度目の最敬礼だった。
選抜民兵たちの瞳をサキは横目に見る。直視しなくても、その奥にある感情が伝わってきた。
信頼、あるいはそれより上位の感情―――自身の成り行きを、運命を、全て委ねるという服従の心理だ。
―――――気持ち悪い。
というのが、サキの正直な感想だった。
感動するほど純朴でも、舞い上がるほど愚鈍でもない。
あの戦場で、サキが直接触れ合った兵士は全体の一部にすぎない。彼ら全員がこの麓に集まっているとも考えにくい。
つまり大半の選抜民兵は、伝聞や思い込みからそうなってしまったのだ。
それは自然な感情なのだろうか。サキに何らかの利用価値を見出した軍事評議会の面々や、新聞に吹き込まれたつくりものかもしれない。そうでなかったとしても、サキは喜べない。権力を手中に収めて人を意のままに動かすことなら、サキも夢見ていた。とはいえそれは力を使って強制したいという話であり、心の底から従順にさせるつもりはなかったのだ。
手に入れた玩具に知らない機能が備わっていたみたいで、持て余してしまう。
馬車は、丘の正門へと進む。騎兵を引き連れ、敬礼する兵士の中にいるので、まるで閲兵式のようだ。
サキはふと、彼らの使い道を考える。
この場にいる連中だけではなく、あの戦いに駆り出された選抜民兵全員がこうなっているのだとしたら。
意のままに動かせる五千人が手に入ったということになる。
「殿下、当ててあげましょうか。今考えてること」
出し抜けに、フェルミが口を開いた。
「この連中を上手く使えば、うっとうしいフェルミ大佐やカザルス少将、宮廷軍事評議会の排除も思うがまま・・・・そんなところでしょう」
「思ってない」
思っていた。
「そいつは諸刃の剣ですからね。子供には手に余りますと忠言しておきます」
「思ってねえっての」
サキは吐きすてる。子供以上の役割を要求しておきながら、都合が悪いと子供扱いか。まったく、大人は勝手だ。
「そんな余裕、今はない。必死だよ。お前たちに押しつけられた仕事をこなすだけで」
「それは申し訳ございません」
カザルスが謝罪を述べるが、含み笑いが混ざっていた。
乗せられないし、思い上がりもするものか。サキは自分に言い聞かせる。こんなの、戦いが終わって間もない今だけだ。二百人だろうと五千人だろうと、ずっと心を縛るなんて不可能だ。
馬車は城門の前に行き着いた。来意を告げると、門の裏側に隠れていた門番が、すぐに開錠してくれた。
(でも、確かにもったいないな)
振り返り、選抜民兵たちを伺うと、まだ整列したままだった。
サキの胸中に、小さな黒点が浮かぶ。
大勢を、ずっとそうさせておくのは難しいだろう。
けれども、たった一人なら。この連中の中で、たった一人くらい・・・・
僕のためなら、どんなに酷いことだって笑顔でこなしてくれる、そんな人形に仕立てあげたりできないだろうか。
背徳・暴力・腐敗。
サキは想像する。黒い未来図は、しかし丘の上から駆けてくる足音に破られた。いばら荘から迎えがやってきたのだ。
(ま、今考えることじゃないよな)
不要な雑念。そう断じて、サキは振り払う。
ではいつ考えることだろう、とも微かに考えながら。