甘くて、物足りない
文字数 2,427文字
まどろみの中サキは、姉上に髪を整えてもらうのは何年ぶりだろうかと振り返る。
自身の性格を反映するように、あからさまではなくやんわりといじけている頭髪。その具合が気に入らなくて、幼少のサキは日がな頭をいじり続け、しつけ担当だの髪結い係だのに叱られたものだった。
しょげるサキに、靴ひもでも眺めるような視線を送るばかりだったニコラが、ごくまれに気まぐれに手伝ってくれる場合があった。安楽椅子に弟を座らせ、背もたれの側に立って頭頂から手ぐしでなでて行く。
すると髪は素直に解け、頭が軽くなったような心地がしばらく残るのだった。
その気まぐれも、サキが十歳になると、「もう、甘やかしません」という宣言と共に終わってしまったのだが。
けれども今、サキの頭を触っているのは姉の手だ。
正確には包帯を巻きながら髪を整えている。浅いとはいえ、負傷した弟の世話ということで、甘やかしには入らないという判断なのだろうか。
「よく頑張りましたね」
宝石より貴重な、姉上の賞賛。
「姉上、僕は死ぬのですか」
「……なぜそう思うのです」
不服そうな声。眠気に包まれていてあやふやだが、サキは摂政府に戻ってきたようだ。塔の最上階にある自室で、椅子にもたれているらしい。
「家名を、我が家の事業を守ってくれたサキに、お礼をしなければなりません」
ニコラが囁く。やわらかい口調が不安を惹起する。
「……いいですよ、そんなの」
「貯えも権力もない私には、ささやかな約束しかできませんけれど」
聞いちゃいない。
「私も十七です。遠くない未来にどこかの殿方へ嫁ぐ次第となるでしょう。生家と嫁ぎ先との仲立ちこそ貴族の娘の役割ですが、戦乱が顔を覗かせる時代のことです、もしかすると、あなたと未来の夫が争う局面が訪れるかもしれません。そのとき、私はあなたを優先することにします」
「だから、いいですってば」
「優先する、の意味合いは状況に応じますが」
聞いちゃいねえ。 優先されない未来の義兄はどうなるのか。
いやな具合に、眼が冴えた。
「姉上お気遣いありがとうございますでもその権利は保留させて下さい。ああ爽やかな朝だなあ」
「もう、夕時にございます」
フランケンが白湯を持って現れた。サキの感覚が確かなら、今は国境付近の戦役から二昼夜明けた夕暮れだ。ここに戻ったのは、たしか昨日の朝。
形式上の最高司令官だったサキには戦役終結後の事務処理など無縁であり、お飾りとしても張り切る必要はなくなったので、あっさりと戦争から解放されたのだった。フェルミもカザルスも、別れの挨拶はそっけないものだった。
「見つかりましたかな、坊ちゃま殿下」
盆を下げながらフランケンが訊く。何事もなかったように執事に戻っているこの老人に、サキは軍人と違う種類の凄味を感じた。
「何が」
「権威・権力・力。そういったものの正体を、戦場でお判りになれたかという話にございます」
「ああ……」
何だか、遠い昔の誓いのようだ。
「だめだったよ。砲撃の下で、もしかしてこれがそうかもと信じかけたりもしたけどさ」
全部、幻だった。サキは項垂れる。
「ふりかえってみても、総司令官という立場をもらっただけで、上から何かを操ったとか、思い通りにできたとかいう感触はまるでなしだった。押し付けられて、何とかして切り抜けただけだ……つかめなかったよ、権力なんて力なんて」
屋敷の外が騒がしい。サキは椅子から体を少し動かした。
「ただ、最低限の役割はこなした。そんな、つまらない満足しかないよ」
「坊ちゃま」
フランケンは愉快そうに視線を転がした。
「使命を遂げる。役目を果たす。それができることこそ、男という生き物にとって、いちばんだいじな『力』ではございませんか」
「そんなものかなあ」サキには味わえない。
予感として、自分は死ぬか、別人のような感性に生まれ変わるかのどちらかだと思っていた。
けれども安楽椅子の座り心地は以前と変わらない。
「そんなものなのかな……」
窓辺に座ると、喧騒の理由が見て取れた。
摂政府の庭で、選抜民兵たちが酒宴を開いているのだ。おそらく兵士の縁者も混じり、肩を組んで呂律の回らない歌を合唱している、歌は孔雀男のテーマと、あの戦歌。片足の吟遊詩人も混ざっている。 目ざとい一人がサキの姿を認め、狂ったように手を振った。サキは曖昧な笑顔を作って掌を動かす。
奥に戻ると、姉の姿はなく、フランケンが小机に心臓そっくりの菓子を並べていた。
「ザッカーヘルズ!」
「お待ちかねかと考えまして。灼熱亭より取り寄せました」
百年間、お預けを食らっていたような心地だ。サキは高速で手を伸ばし、貪る。
「はぐ」
まず、ぱりりとした食感、続いてイチゴとブルーベリーを流し込んだ小麦粉の柔らかさ、最後に快い熱さのチーズが芳醇のコンチェルトを奏でる――はずだった。
「はれ」
サキは戸惑った。味覚が感動してくれないのだ。こんな状況で、こんな美味しいものを愉しめないはずがないのに。
「どうかなさいましたか」
「口が悪くなったのかな。これ、最初に食べたときと違う」
かけらを一ちぎり、執事の口に運ぶ。咀嚼の後、フランケンは「ふむ」と首を捻った。
「衰え著しゅうございますな。そういえば、原料の仕入れ元となる農家も選抜民兵に駆り出されていたと聞いております。名人の身に何かあったのかもしれません」
サキは無言で残りを食べた。「屋台で売っている菓子」としては、充分すぎる程に美味しい。だが最初からこれだったら、戦場で思い浮かべはしなかっただろう。
少年はもう一度再び窓に近付き、戦勝の馬鹿騒ぎを他人事のように眺めた。
さっきは気付かなかったが、宴にカヤも混じっている。記念に似顔絵を描いてほしいとせがんでいるらしい兵士の要望を、数人同時にこなしているようだ。
その光景自体が、現実から離れた絵画に見えた。
「なんだよ、決闘の王子」
サキは失望を呟いた。
「お菓子の一切れさえ、守れなかったのか」
自身の性格を反映するように、あからさまではなくやんわりといじけている頭髪。その具合が気に入らなくて、幼少のサキは日がな頭をいじり続け、しつけ担当だの髪結い係だのに叱られたものだった。
しょげるサキに、靴ひもでも眺めるような視線を送るばかりだったニコラが、ごくまれに気まぐれに手伝ってくれる場合があった。安楽椅子に弟を座らせ、背もたれの側に立って頭頂から手ぐしでなでて行く。
すると髪は素直に解け、頭が軽くなったような心地がしばらく残るのだった。
その気まぐれも、サキが十歳になると、「もう、甘やかしません」という宣言と共に終わってしまったのだが。
けれども今、サキの頭を触っているのは姉の手だ。
正確には包帯を巻きながら髪を整えている。浅いとはいえ、負傷した弟の世話ということで、甘やかしには入らないという判断なのだろうか。
「よく頑張りましたね」
宝石より貴重な、姉上の賞賛。
「姉上、僕は死ぬのですか」
「……なぜそう思うのです」
不服そうな声。眠気に包まれていてあやふやだが、サキは摂政府に戻ってきたようだ。塔の最上階にある自室で、椅子にもたれているらしい。
「家名を、我が家の事業を守ってくれたサキに、お礼をしなければなりません」
ニコラが囁く。やわらかい口調が不安を惹起する。
「……いいですよ、そんなの」
「貯えも権力もない私には、ささやかな約束しかできませんけれど」
聞いちゃいない。
「私も十七です。遠くない未来にどこかの殿方へ嫁ぐ次第となるでしょう。生家と嫁ぎ先との仲立ちこそ貴族の娘の役割ですが、戦乱が顔を覗かせる時代のことです、もしかすると、あなたと未来の夫が争う局面が訪れるかもしれません。そのとき、私はあなたを優先することにします」
「だから、いいですってば」
「優先する、の意味合いは状況に応じますが」
聞いちゃいねえ。 優先されない未来の義兄はどうなるのか。
いやな具合に、眼が冴えた。
「姉上お気遣いありがとうございますでもその権利は保留させて下さい。ああ爽やかな朝だなあ」
「もう、夕時にございます」
フランケンが白湯を持って現れた。サキの感覚が確かなら、今は国境付近の戦役から二昼夜明けた夕暮れだ。ここに戻ったのは、たしか昨日の朝。
形式上の最高司令官だったサキには戦役終結後の事務処理など無縁であり、お飾りとしても張り切る必要はなくなったので、あっさりと戦争から解放されたのだった。フェルミもカザルスも、別れの挨拶はそっけないものだった。
「見つかりましたかな、坊ちゃま殿下」
盆を下げながらフランケンが訊く。何事もなかったように執事に戻っているこの老人に、サキは軍人と違う種類の凄味を感じた。
「何が」
「権威・権力・力。そういったものの正体を、戦場でお判りになれたかという話にございます」
「ああ……」
何だか、遠い昔の誓いのようだ。
「だめだったよ。砲撃の下で、もしかしてこれがそうかもと信じかけたりもしたけどさ」
全部、幻だった。サキは項垂れる。
「ふりかえってみても、総司令官という立場をもらっただけで、上から何かを操ったとか、思い通りにできたとかいう感触はまるでなしだった。押し付けられて、何とかして切り抜けただけだ……つかめなかったよ、権力なんて力なんて」
屋敷の外が騒がしい。サキは椅子から体を少し動かした。
「ただ、最低限の役割はこなした。そんな、つまらない満足しかないよ」
「坊ちゃま」
フランケンは愉快そうに視線を転がした。
「使命を遂げる。役目を果たす。それができることこそ、男という生き物にとって、いちばんだいじな『力』ではございませんか」
「そんなものかなあ」サキには味わえない。
予感として、自分は死ぬか、別人のような感性に生まれ変わるかのどちらかだと思っていた。
けれども安楽椅子の座り心地は以前と変わらない。
「そんなものなのかな……」
窓辺に座ると、喧騒の理由が見て取れた。
摂政府の庭で、選抜民兵たちが酒宴を開いているのだ。おそらく兵士の縁者も混じり、肩を組んで呂律の回らない歌を合唱している、歌は孔雀男のテーマと、あの戦歌。片足の吟遊詩人も混ざっている。 目ざとい一人がサキの姿を認め、狂ったように手を振った。サキは曖昧な笑顔を作って掌を動かす。
奥に戻ると、姉の姿はなく、フランケンが小机に心臓そっくりの菓子を並べていた。
「ザッカーヘルズ!」
「お待ちかねかと考えまして。灼熱亭より取り寄せました」
百年間、お預けを食らっていたような心地だ。サキは高速で手を伸ばし、貪る。
「はぐ」
まず、ぱりりとした食感、続いてイチゴとブルーベリーを流し込んだ小麦粉の柔らかさ、最後に快い熱さのチーズが芳醇のコンチェルトを奏でる――はずだった。
「はれ」
サキは戸惑った。味覚が感動してくれないのだ。こんな状況で、こんな美味しいものを愉しめないはずがないのに。
「どうかなさいましたか」
「口が悪くなったのかな。これ、最初に食べたときと違う」
かけらを一ちぎり、執事の口に運ぶ。咀嚼の後、フランケンは「ふむ」と首を捻った。
「衰え著しゅうございますな。そういえば、原料の仕入れ元となる農家も選抜民兵に駆り出されていたと聞いております。名人の身に何かあったのかもしれません」
サキは無言で残りを食べた。「屋台で売っている菓子」としては、充分すぎる程に美味しい。だが最初からこれだったら、戦場で思い浮かべはしなかっただろう。
少年はもう一度再び窓に近付き、戦勝の馬鹿騒ぎを他人事のように眺めた。
さっきは気付かなかったが、宴にカヤも混じっている。記念に似顔絵を描いてほしいとせがんでいるらしい兵士の要望を、数人同時にこなしているようだ。
その光景自体が、現実から離れた絵画に見えた。
「なんだよ、決闘の王子」
サキは失望を呟いた。
「お菓子の一切れさえ、守れなかったのか」