最上階の謎
文字数 7,324文字
食材を保管しているという説明通り、氷室は広大な空間だった。
直径三ルーデ(十メートル)程度の円形。石畳の下に湧き水を通すことで、夏でも冷気を保っているとの説明だった。強烈な寒さではなく、肌寒いと感じる程度の冷やし具合だ。
食材が積み重ねられた一角とは距離を置いて、巨人が仰向けに眠っている。
冷やし続けたせいか、遺体は全く痛んでいないように見える。ただ、サキが議長と顔を合わせたのはごく僅かな時間にすぎないので、日常を知る者が見れば変貌が判るのかもしれない。サキにとって、この人物の面相は強烈すぎたので、少々崩れても印象が変わらないという理由もあるだろう。
議長は冬宮で会ったときと同じように、元帥位の軍服を纏っていた。サキが戦場で身につけていたものと同じだが、寸法が違うため別物に見える。
「信じられない。鉛玉で殺せる生き物だったのか」
サキは呟いた。
元帥服の胸元が赤に染まっている。体格からは不釣り合いに思われるほど、ささやかな染みだった。それ以外に失血を示す汚れは見あたらない。
カザルスが胸元をじろじろと眺めている。
「最初に見つかったときから、この体勢だったのか?」
「いえ、お部屋の椅子に座っておられる形でした」
「椅子ねえ」
何か得心いかなかったのか、少将はぶつぶつと呟いている。
「失礼、議長。お召し物をいただきます」
軽い口調で断った後、フェルミが上着を脱がし始めた。拒否もできない死人の表情は、殺人には不似合いな安らかなものだった。瞼はしっかりと閉ざされ、口も堅く閉じている。お花畑で眠っているような気楽さだ。
「このお顔、見つけたときにいじったか?」
カザルスが重ねて問うが、バンドは首を横に振った。
「ふーん、意外だな」
少将は両肩を回す。
「撃たれた人間が、こんな満ち足りた表情で逝けるものかねえ」
確かに、と頷きながら、サキは戦場を思い出した。死に顔。なぜか記憶に残っていない。担架で運ばれていく兵士の苦悶の表情はしっかり覚えているのに。自分が生死の境に立っていたせいで、すでに死が決定した存在に注意を向ける余裕を失っていたのだろうか。その次に思い出すのは、あの少年兵だ。あの子は一命を取り留めて、近郊の軍病院に移送されたと聞いている。かなりの深手だったため、これからどう転がるかは判らないらしいが・・・・・
「はい、失礼いたしました」
死体に目を戻すと、フェルミが議長の軍服を着せ直したところだった。
「胸の銃創以外に外傷は見当たりませんな。軍服にも破れたところはない。あっという間に片が付いたんでしょう。あばらをすり抜けて、心臓を一撃です」
自分の胸元を押さえて説明する。
「戦場なら、なんと運が悪い、って嘆かれる死に方ですな。心臓を撃たれて死ぬ、ってのは案外少ないんですよ。大抵、あばらに弾かれる。議長閣下の場合、大柄なのが不利に働いたかもしれません。あばらの隙間も広かったんでしょう」
「銃の種類は分かりそうか」
カザルスが訊くと、フェルミは眉間に皺を寄せた。
「弾丸は体に食い込んでるみたいなので、開けてみないとわかりませんな。医者にやらせた方がいいでしょう。ただ、マスケットやライフルでないのは間違いありません。それだったら肉も骨も砕けます。綺麗に打ち込まれてるのは、弾丸も銃も小型だったからでしょう。ピストル、中でも小さめの代物でしょうね」
「どの銃が使われたかでしたら、検死していただく必要はございません」
バンドが早口で述べた。
「旦那様の私室付近に、それらしき拳銃が残っておりましたので」
「そちらも見せてもらう必要があるな」
カザルスが興味を示した。
「これからご案内いたします。他にも、見ていただきたいものがございますので」
議長の居室へと移動を開始する。氷室の近くに上方へ向けて大きな筒状の空洞が穿たれており、その中を螺旋階段が巡っている。その頂上に、議長の私室があるとの話だった。
先頭をバンド、すぐ後ろを武官連中が続く。サキは意図的に歩みを遅くして、姉と相談できる距離をつくった。
「これからどういう流れになるんでしょう。議長みたいな大物が殺された場合、裁判とか、どうなるんでしたっけ」
「王国身分法・貴族編第九条。特典として領主裁判権を下賜された貴族は自身の領内で発生した犯罪に対し、自身、あるいは指定した良民を判事に任命して裁判を開廷する資格を有する。ただし当該犯罪が国家の秩序維持・存続に重大な影響を及ぼすものである場合はその限りではない」
ニコラはすらすらと条文を暗唱してみせた。
「今回、殺害されたのは領主自身であることと、その人物が宮廷軍事評議会の長であることから、今の条文は適用範囲外である可能性が高くなります。すると関わってくるのが、軍事法第三十七条ですね。『宮廷軍事評議会は、兵士・軍属・軍の関連団体・それらの関係者が犯罪の容疑者あるいは被害者となった場合、該当する事件の捜査・裁判権を有する』このまま行くと、宮廷軍事評議会の管轄になるのではないでしょうか。他でもない議長が被害者になったというのは、想定外かもしれませんけれど」
「ああ、それであいつらがはりきっていたのか」
サキは階段上のフェルミとカザルスを見た。二人が評議会の手先であることは間違いないからだ。ギディングスの立場はよく分からないが、単にやる気がないだけかもしれない。
「裁判はそうなるとして、姉上、何か変だと思いませんか。もやもやするんですが、言語化できなくて」
「あなたを巻き込んだ理由がよく分かりませんね」
ニコラは即座に答える。
「少将が推測していたとおり、バンド氏はあなたがいなければ議長の死を公表できないと考えていたのでしょう。ですが今のところ、あなたの太鼓判が必要な事柄が見当たりません」
「そう言えば、姉上にも来てほしいと行ってましたよね。それもわからない」
「あのバンド氏、見かけより狸かもしれません」
ニコラは手をかざして螺旋階段の先頭を眺めている。夕日の朱が眩しい。すると階段の先は、洞窟の外にあるのか。
階段を登り切ると、そこは教会の内部に似た色彩あふれる空間だった。
数十人でミサが開けそうな広大な四角形。正面にアーチ上のステンドグラスが三つ並ぶ。青・赤・黄のガラスは、陽光を受けて鮮やかな色彩の影を床に落としていた。ガラスの細部は薔薇の切り子細工。三原色の花びらが床に踊っている。
背面は通常のアーチ窓。そこからは、つい先ほど暴徒が騒いでいた草原が見える。つまりこの空間はいばら荘の最上部、下から見上げていた丘の頂上部分にあたるのだ。
アーチ窓の下、夕日の中に、パンケーキのような円形の台が生えている。円の中央に椅子が二つ、距離を置いて向かい合わせに置いてある。一つはごくふつうの成人サイズ、もう一つは二周りも大きく、どっしりとした構えだ。おそらくこっちはグリムが座る場所だろう。向かいは来客用だろうか。
夕日のせいで最初は見落としたが、大椅子の背もたれと座に、黒い染みがこびりついている。
黒の広さに、サキは慄然とする。
すると議長閣下は、ここで殺されたのか。周辺の絨毯は瑪瑙に似た色のため目立たないが、血糊は広範囲に飛散しているのかもしれない。
しかしこの椅子の意味は?どういう目的の設備だろう。椅子は二脚だけではない。パンケーキの周縁を十数脚の椅子が、中央の二脚を取り囲むように並んでいる。グリムと来客が語らう間、周囲の椅子に誰が座って何をするのだろう?
「こちらは、室内劇場にございます」
サキの疑問に気付いたのか、バンドが声をかけてきた。軍人組は正面にある棚を調べているようだ。
「劇場」
黒繭家の子供でありながら、その発想は浮かばなかった。スペースが小さすぎたせいもあるだろう。
「議長が、ここに劇団を招いたりしていたのですか」
「そうではありません」
なぜか家宰は悲しげに首を振った。
「この劇場は、旦那様が、たった一人の女優のために拵えたものなのです」
バンドは懐旧するような眼差しを「劇場」に注いでいる。
「十数年前になります。それまで浮気などに走らず奥様一筋だった旦那様が、一度だけお惑いになったのがその方でした。デジレへ巡業に訪れていた芝居一座の看板女優で、マルノ・カルカと名乗っておられました。芝居は、舞踊を取り混ぜた趣向でしたので、性格には踊り子と呼ぶべきかもしれません」
マルノ・カルカ。サキも聞き覚えのある名前だった。芝居狂いの家で過ごしてきたのだから、評判や興業の話が耳に入ったのかもしれない。
「私も一度だけ舞台を見に行った覚えがございます。芸術などに疎い私めにも、マルノ様が卓越した踊り子であることは一目瞭然でした。あくまで私の解釈ですが、マルノ様は、気配を操る踊り子でした。例えば森を舞台にした舞踊を踊るとして、マルノ様は踊り方だけで、木々の間に「隠れる」ことができたのです。舞台に、作りものの樹木などございません。それでもマルノ様が「隠れる」踊り方を選ぶと、その姿が木々に隠れてしまうのです。もちろん視覚的に消失するわけではございませんが、観客の心には消えたと認識させてしまう、あるいは認識したくなってしまうのです。足裁き、筋肉の脈動・・・どのような要素がそうさせるのかは分かりませんが、とにかくマルノ様は一種の天才でした」
彼も横恋慕していたのではないか、と邪推させるほど、熱のこもったバンドの口調だった。
「その才能に魅せられた殿方は大勢いらっしゃいましたが、権勢において他を遙かに凌いでおられたのが旦那様でした。旦那様ほどの大貴族に囲われることを拒める方などいらっしゃいません。王都の館には奥様がいらっしゃいましたので、マルノ様はこちらにお住まいになり、以前に比べて、旦那様がこちらに滞在される日数が増えました」
そこまで話して、バンドは悲しげに目を伏せる。
「大貴族に庇護される暮らしは、端から見れば悪くないものかもしれません。ただ、マルノ様は芝居に生きる方でした。一方旦那様は、気に入ったものをご自身の手の届く場所に常に置いておきたい性分の方でした。結果マルノ様は、女優の仕事を辞めざるを得なくなってしまったのです。それはおらく、マルノ様がご自身で思っておられた以上に致命的な行為でした。こちらに移って一年と経たないうちに、マルノ様は体調を崩され、長くは生きられないとの診断が下ったのです。そのときの旦那様の取り乱しぶりと言ったら、すさまじいものでした。高貴な方によくある話ですが、旦那様は人を愛することと人を尊重することの区別がつかないお方だったのでしょう」
使用人というものは、どの家でも主人に対して辛辣だな、とサキは思った。
「マルノ様を慰めるために用意されたのがこの小劇場なのです。体調が比較的よい日に、マルノ様はこの劇場でかつての栄光を再現しておられました。周囲に椅子を巡らせてはありますが、実際に観客を集めたことはございません。常に観客は旦那様おひとりでした。あの巨大な椅子に座って、マルノ様の舞を毎日眺めておられたのです。そしてそのまま、マルノ様の最期を看取ることになりました」
言葉を切って、バンドは目を伏せる。
「『私がマルノを殺したのだ』旦那様は何度も仰いました。それから何年経っても、この劇場をそのままにされていたのです。そして一週間前、この舞台の大椅子に腰掛けて亡くなっておられました」
サキはグリムという人間に対する評価を改めた。思いの他、繊細な人だったらしい。中途半端な繊細さだけど。
それはともかく、今聞いた話から判断する限り、議長の死は自害だった可能性も除外できないのではないだろうか。
「あちらにマルノ様の肖像がございます」
恭しい動作で、バンドは小劇場から見て右手の壁を示した。壁には議長の体格にあわせた特注品らしい、巨人サイズの鎧兜にサーベル、斧と言った武具類が陳列されている他に、数枚の絵が金具で固定されていた。その中にほぼ等身大と思われる婦人の正面像があった。
サキは混乱する。
たしかに美人だ。物静かな月の美女。だが、何かおかしい。既視感を覚える。十数年前なら、サキに面識はあるはずのない女性なのに。
戸惑いながら肖像画から視線を逸らすと、別の混乱が襲ってきた。
マルノ・カルカの肖像を除くと、壁に飾られているのは小品の静物画・動物画ばかりだった。今後も追加する予定なのか、額と額の間にはかなりの隙間がある。水瓶、花瓶、うさぎの走り描き・・・だが、これらのマチエール、このタッチはーーーー
「おーいバンド、こっちに来てくれ」
戸惑いは、フェルミの呼びかけに破られた。
先にも述べたが、肖像画の反対側の壁寄りに棚が並んでいる。棚から少し距離を置いて暖炉があり、棚と暖炉の中間地点に巨大なソファーと書き物机がある。先ほどからフェルミが棚を、ギティングスとカザルスが暖炉の近くで何やら調べていた。
「この棚、空っぽだが本棚で間違いないか」
フェルミに問われて、家宰は棚の近くに歩いて行く。サキも着いて行く。
フェルミが示した棚は、間仕切りの間隔から判断する限り、本の収納を用途として用意されたものに見えた。
「おっしゃる通り、こちらは本棚にございます」
旦那様はそちらの机で書き物をされる際、この本棚なら辞典の類を取り出しておられました」
「本は、棚いっぱいに並んでいたか」
「いいえ、まばらに全体の五分の一程度にございました。と言いますのも、この部屋は旦那様の本来の執務室でも書斎でもなく、それらの部屋は邸内の別の場所にございますので・・・こちらには一部の書物しかございません」
「五分の一程度の量なら」
フェルミはカザルスたちが依然、何かを調べている暖炉の方を指さした。
「あの暖炉で、いっぺんに燃やしてしまうこともできそうか?」
「可能かと思われます」
バンドは頷いた。
えーと、どういうことだ?首を傾げるサキに、隣に来ていたニコラが囁いた。
「本棚の書物の中に、重要な情報が記されていた。それを下手人が暖炉で消し去ったかもしれない、ということです」
「暖炉で・・・結構な手間ですよ」
サキは遠目に暖炉の大きさを確認する。本の冊数が正確にわからないので計算は難しいが、暖炉いっぱいに詰め込んでも一度で燃やすのは難しそうだ。
「本棚の書物すべてに手がかりが書いてあったとは考えにくいですから」
ニコラは書き物机に近付いた。
「『どこかに不利な情報が記されているかもしれない』と犯人が危惧したという話でしょう。おそらく書き物机の中にも、紙片や手紙の類は一つも見つからないと思います。全部燃やされてしまったのでしょう」
「ご推察の通りです」
フェルミが請け負った。
「書き物机の引き出しなのに、紙切れ一枚さえ入ってませんでした」
「所々、紙や書物の装丁を思わせる炭が混ざってる」
カザルスが暖炉を覗き込みながら大声を上げた。
「ギディングス、この灰とか炭とかを復元できないか?」
「無茶言わないでくださいよ」中佐が両手を上げる。
「バチカンの古書復元担当でも、この状態から生き返らせるのは無理な相談です」
色々一気に訪れて、頭の整理が難しい。サキは大事な事柄を思い出した。
「そうだ、ピストル!議長閣下を殺した小銃が特定できるって話でしたよね。それはどうなったんですか」
サキが話を振ると、バンドは無言で肖像画のある壁の方に移動した。武具類が陳列された壁の中から、銀色の拳銃を取り外し、恭しい手つきで両手に持って戻ってくる。
「半年前に、旦那様が王都の工房に発注された護身用の拳銃にございます。弾丸は後ろ込め式で、一発のみ入ります」
両手に乗せたまま掲げる。皆、バンドを取り囲んだ。
「旦那様が亡くなられているのを発見しました折り、螺旋階段の中途に落ちていたのを回収しました。そのとき弾丸は入っておりませんでした」
サキは拳銃をじっくりと眺めた。寸法は普通。一見、装飾性のない無骨な造りだが、少し注意すると、銃身に蔦を模した形で埋め込まれた螺鈿細工に気付く。乱暴に扱うと破損してしまいそうな精緻な飾りだ。
自殺はあり得ないか、とサキは考え直す。自分で自分の胸を打ち抜く芸当が可能だとしても、その拳銃が螺旋階段に落ちていた説明がつかない。議長の膂力なら死の直前に階段までピストルを放り投げることも可能かもしれないけれど、その場合、銃身の細工は粉々に砕けてしまうだろう。
犯人が螺旋階段から逃走する際に落としたか、不要と判断して捨てたというところだろうか。
「普段、この銃は壁にかざってあるのか?」 カザルスが銃身を触りながら訊く。
「今お見せしましたように、他の武具類と一緒に飾っております。このように」
一旦拳銃を書き物机に置き、肖像画の壁に戻ったバンドは、先ほどまでピストルがあった辺りを指差した。壁と似た色なので分かりにくいが、ピストルを挟んで固定するための金具が二本、壁から生えている。
「なお下の金具の先に、小さな穴がございます。弾丸はこの穴に差し込んで保管いたしております」
「弾丸の予備は?」
「地下の倉庫で保管しております。減りがないことは確認済みです」
「この拳銃、特注と言ったが、弾丸もか?」
カザルスの問いに、バンドはゆっくり頷いた。
「だとすると、やはり議長閣下の胸元をほじくり返してみるべきだろうな。弾丸を王都の工房に照合させれば、確実にこの拳銃で殺されたと証明できる・・・・」
カザルスは場の全員を見回した。
「情報が錯綜しつつある。バンド、手間かもしれないが、ここ一月くらいの議長閣下の行動を確認させてもらう」