少年兵の涙
文字数 5,992文字
「アーカベルグ週報」 十二月 十一日号六面
摂政殿下 友人の窮状に心を痛められる
前回の宮廷軍事評議会において確定したと思われた女流画家の処遇に対して、評議員より異議が提出された。文末にその概要を記す。
この論証は、先週、摂政殿下より提出された論証を覆すとまでは至らないものの、別の可能性を提示するという意味では意義が全くないとは言い切れないものである。
しかしながら筆者は、このような論拠を持ち出してきた評議員の判断に異を唱えたい。まだ十六歳の少女がひた隠しにしてきた出生の秘密が暴露されたのだ。この事実を持って彼女の有罪を確定させるのは、軍の意志決定機関であり、現時点で国政を掌握する立場にある評議会の品位を汚す結果になりはしないだろうか。目的を達成するためであれば手段を選ばないという姿勢を公に示す行為は、国民のみならず諸外国からの信頼をも低下させる愚考だと断定せざるを得ない。
閉会後、殿下は施設に収容されている女流画家を訪問された。開口一番、秘密が暴露されたことについて謝罪されたという。殿下ご自身の責任ではないにも関わらずだ。
お人柄を如実に示す挿話と言えよう。
文責:ピーター・ウッドジュニア
「蠅叩き新聞」 十二月 十一日号 三面
蛆虫以下の品性を露わにした評議員たち
もはや笑うしかない。女流画家を有罪にしたいがため、せっぱつまった宮廷軍事評議会が十数年以上前の醜聞を持ち出してきたのだから。
時の経過と共に洗い流され、忘れ去られていたに違いない個人の秘め事を、豚より潰れた汚物臭い鼻で嗅ぎつけ、さぞ重要な証拠であるかのように大衆へ見せつけたところで、白日にさらされるのは彼ら自身の下劣きわまりない精神だけだ。「我々は、肥だめにたかる蠅の幼虫にも劣る品性の持ち主です!」と声高に叫ぶのと何一つ変わらない。正義を気取り拳を掲げながら、毛穴から芋虫の屍骸のように薄汚い偽善が漏れ落ちていることに無自覚なのだろう。
以下に概要をまとめてあるが、ご病気の方、気の弱い方は読みとばしていただいても構わない。文面から、評議員たちの低脳ぶりが腐臭となって漂ってくるため、不快極まりないからだ。
執筆者:ジョン・ドゥ
「季刊政治哲学」 十二月号 七十頁
歴史とは、端的に表現するなら事実の回転体である。
表と裏、側面と正面、いずれが善でいずれが悪か、いずれが正でいずれが誤りかという判断は、事象を同じ時系列で体験した者たちだけに意味を有するもので、後世の人間にとっては等価値の対立構造に過ぎない。このように同時系列から後の時間に事象が加工され行く作用を「球体化」という言葉で定義するならば、今回の評議会で評議員たちはこの「球体化」を目論見、失敗したと言えるだろう。
ぎゃくに「球体化」に対立する概念、あるいは手法を「尖体化」と名付ける場合、この「尖体化」を試みているのが摂政殿下である。「尖体化」は事象の一点集中を指向する。点と化した事象に裏面や側面は存在しない。行為者はその状態を内部化するために「空洞精製」という思考形態を身につける必要があり、この「空洞精製」と「不可逆性暴力装置」を「反映暗転行動」の中で「自在連動化」する前に……(以下略)
論者:ジャン・バティスト・ベルナール・フォン・ラインシール
少年はアーカベルグ近郊の病院に収容されていた。
負傷した兵士は軍医の診察を受けた後、軽傷と判断されれば従軍を継続、重傷と見なされれば後方へ移送される。軍は負傷者専用の軍病院を王都に保有してはいるが、重傷者はなるべく早く手厚い治療を受けることが望まれるため、軍病院ではなく戦場に程近い病院に運び込まれる例も多い。
つまり戦役から一ヶ月が経過した時点で、戦場の近くで治療を続けているその少年兵の容態は、あまり芳しいものではないという見立てになる。
サキが病院を訪れたのは、評議会翌日の夕方だった。サキは少年の名前さえ知らなかったため、問い合わせに時間を要したのだ。胸部に重傷を負った少年、という情報だけで入院先を探したのだから、むしろ幸運に恵まれた方かもしれない。
病院といっても、王都にあるようなレンガ造りの立派な建物ではなかった。しっくい作りの民家が建ち並ぶ一角を、買い上げてそのまま治療施設に転用しているのだ。小さな村一つが病院の役割を果たしているようなもので、人手は足りているが新築費用のない都市近郊ではしばしば見られる形式らしい。
少年が収容されているのもそうした民家の一つだった。十二月の中旬、すでに炉には灯が点っている。炉から少し離れた位置に少年のベッドが設えてあった。
狭い小屋だが、来る途中で横目に見た同型の小屋には数台のベッドが並んでいた。僕がこの子に声をかけたのを見た誰かが気をつかってくれたのだろうか、とサキは訝る。
白い寝間着で眠る少年の顔は安らいで見える。
しかし前に見たときより明らかに頬はこけ、唇も下から歯の形が透けるほどに痩せ衰えていた。
「小康状態です」
炉で湯を沸かしていた看護婦が容態を語る。
「銃弾が心臓を逸れたおかげで、即死は免れましたけれど、なかなか傷口の熱を下げられませんでした。一昨日になってようやく熱は収まりましたが」
看護婦の視線は、枯れ枝のような少年の手に向いている。
「熱が下がった、というより、むしろ熱を出す機能さえ失われた、という状態です。これ以上、手の施しようがありません」
申し訳ありません、と身を屈める看護婦に、気にすることはありません、と応じるサキ。やはり忖度をしてくれていたようだ。
王国一の名医のところへ連れて行ったなら、あるいは助かるかもしれない。
けれども自分の副官でも友人でもないこの少年に、そこまでの温情をかける行為は君主としても、個人としても正しくないように思われた。
看護婦は沸かした湯を持って別の小屋へ向かった。眠る少年兵を見下ろしながら、サキは今更ながら疑問を抱く。
この子に会ったところで、何が変わるというのだろう。
たしかに刺激は受けた。戦場で、僕はこの少年に感化された。身を挺して同僚を助けたその姿に、分析できない感情が芽生えて、前線へ出てやろうと決意したのだ。
その感情を見つめ直し、カヤを翻意させるほどの「信念」を組み立てるためにここへやってきた。
しかし、この少年と話したところで、何がわかるというのだろう。
(こんにちわ。僕は君が人を助けるのを見て心境が変化したんだけれど、それがどういうものなのか分からないんだ。いっしょに考えてくれるかい?)
バカか?
瀕死の負傷者に対して、迷惑すぎる。
浅慮を恥じたサキが、小屋を後にしようとしたとき、
「せっしょう、さま?」
弱々しい声に呼びかけられて、振り向くと少年が目を覚ましていた。
「・・・おはよう」
間の抜けた挨拶をサキは口にした。
「せっしょう、さま、ですよね」
少年はサキの方へ手を伸ばすが、すぐに下ろしてしまった。もう、筋力が足りないのだろう。
「起こしてすまなかったね」
サキはベッドに近付く。
「君が、気になってたんだ。それで、様子を観にきた。ひいきになってしまうから、本当はよくないんだけれど」
「やっぱり、あのとき、声をかけてくださった」
少年の発声は途切れ途切れだが聴き取りやすいものだった。
「夢じゃあ、夢じゃあなかったんだ―――」
少年の瞳から涙がこぼれた。痩せた頬から顎に流れるそれは、涙というより、感情のない、ただの液体に思われた。命の溶解液だ。
「ひいきついでだ。なにか、欲しいものはある?してもらいたいことは?」
サキが優しい言葉をかけたのは、少年の瞳に死を自覚した者の色合いを見たからだった。正直なところ、現在のサキに履行できる約束は限られている。だが兵卒の要求などたかがしれているだろうし、無理なら無理で構わない。どうせ死んでしまうのだから。
しかし少年の答えは、想像以上に無欲なものだった。
「何も要りません」
「遠慮しなくていいんだよ」
サキは少年の心情を推し量る。この少年は、たぶん、恵まれた人生を送ってきていない。貧民の子供に施しを与えようとするとき、明らかに空腹なのに「要らない」と断る子がいることを知っていた。舞い降りた幸運を信じられず、とっさに拒絶してしまうのだ。
「本当に、いらないんです」
けれども少年は、ゆっくりと頭を振った。
「せっしょうさまには、もう、じゅうぶんすぎるくらい頂戴しました」
「僕から?」
サキには覚えがない。この少年に会ったのはあの戦場が初めてのはずだ。
「こんなこと、せっしょうさまに言っても何もならないけれど」
少年は譫言のように話す。
「おれ、生まれたときから邪魔ものだったんです。きょうだいがうじゃうじゃ生まれる家で、その子らを世話させるためにまた子供を作るようなどうしようもない親に育てられて、俺、頭が悪いから、ずっと怒られっぱなしだった。役立たず、お前なんか産まない方がよかった。死んじまえって・・・それで、兵隊に出される家を金で肩代わりするって誘いがあったとき、親は、俺を選んだんです」
不正行為を白状しているわけだが、今はどうでもいい。
「軍隊も、うまくやれるわけはないってわかってた。でも戦争になって、これで楽になれるって喜びました。ずっと死にたいと思ってたけど、自分で死ぬのは怖いから、敵に殺してもらいたかったんです」
では、あの同僚をかばった動作は、自殺の一種だったのか。サキは訊ねようとしたが、
「だから、はじめてだったんです」
少年の目が、これまでになく輝いた。
「何が?」
「言ってもらえたことがです。『死ぬな』って。『生きろ』って。せっしょうさま、声をかけてくれたでしょう?」
「それは」
それは、修辞句みたいなものだ。戦場で、担架に近づいたら。瀕死の兵士と眼があったなら。サキと似たような立場にいるものだったら、そういう言葉をかけるに決まっている。作法みたいなものだ。
「うれしかった」
少年の頬を、再び液体が伝う。
「死ねって、要らないって、消えちまえって、ずっと言われ続けてたおれが、生まれてはじめて『生きろ』って言ってもらえたんです。この国で一番偉い人が、俺に、『生きろ』って―――――うれしかった。ああよかった。おれ、生まれてきてよかったんだ。死ななくてもいいんだって―――本当に」
サキは恐ろしくなった。綺麗な瞳だ。戦場で遠眼鏡から眺めたときは、もっと濁った色だった。
「だからもう、何も要らない。死んでもいい」
「矛盾している」
「そうだと思います。俺、頭悪いから」
少年は微笑んだ。
「でも、俺にとっては本当なんです。俺、きっと、笑って死ねる。せっしょうさま、本当にありがとうございます」
摂政府に戻ったサキだったが、少年の痩せた頬が、きれいな瞳が頭から離れない。
夕食も喉を通らない。向かいの席で、ニコラが眉を顰めている。
無理矢理でも胃に放り込もうと食材を吟味していると、フランケンが部屋へ入ってきた。
「件の医療院より連絡がございました」耳打ちする。
「今しがた、亡くなった、とのことです」
「そうか」
サキは食卓を離れる。
あいつ、最後に笑ったのだろうか。
神様の設計は完璧だ。とくに眠りという機能を設けたことは素晴らしい。戸惑い、迷い、不機嫌――――全部くるんで、朝まで棚上げにしてくれる。
でもそのありがたい眠りに、飛び込めない夜があるのは問題だな、とサキは布団の中で不平をこぼした。設計に比べて、製造はお粗末だ。製造は神様じゃなく、安い業者に請け負わせたんじゃないか?
あの少年の言葉、涙、笑顔がぐるぐると取り付いている。
人がこの世を去るとき、あそこまで綺麗な心で逝けるものなのか。
サキは戦場を知った。山積みの死体を見た。だが彼らがどのような心境で死んでいったのかという点を深く考えはしなかった。苦痛、後悔、憎しみ。そんなものだろうと決めつけていたのだ。
自分はどうだろう。人生に幕が降りる際、あの少年のように満ち足りた気持ちで眠れるものだろうか。
たぶん無理だ、とサキは思う。数十年後か、明日かはわからないが、死にたくない、死にたくない、と繰り返すに決まっている。
あの少年は端から見れば不幸な人生だったかもしれないが、最後に満足して生涯を終えることができたのだ。
彼に安らぎを与えたのは、サキの何気ない一言だった。
自分が善行を成したとは思わない。それでも、一人の人生を、少なくとも本人にとっては価値あるものとして締めくくらせることができたのだ。その事実は誇らしい。結局、カヤを翻意させる助けにはならなかったけれど、見舞いに行ってよかった――――
ようやく微睡みが訪れる。無意識の渦に、サキは沈んでいった。
「違うだろうが!」
闇の中で、サキは自分の頬を殴った。
この軟弱者が!
いい話にしてうやむやに終わらせるんじゃないっ。お前は道具を見つけに少年に会いに行ったんだろうが!生きる気力をカヤに思い出させるきっかけだ。いい気持ちで流すな。拾い上げろ。
自分自身に叱咤され、サキは闇の中を歩き回った。光を見たのだ。あの少年が同僚をかばったときと、サキに感謝を述べたとき。サキに感銘を与えたのは同じ種類の光だった。
いつの間にか寝室を出ていた。よろよろと廊下を歩く。背後で客室の扉が開く音がした。
「具合が悪いのですか、サキ」
姉の気遣わしげな声がする。
「だいじょうぶ。むしろ爽快ですから」
夜でも摂政府の廊下にはところどころ明かりが灯っている。美しい橙色の蛾が飛び回っていた。灯火に飛び込むかと思ったが、直前ですりぬけ、闇へと消えた。
「カヤは、偽っていたんです」
振り返り、サキは告げた。
「偽っていた」
ニコラはオウム返しに言う。
「姉上は言いましたよね。僕の信念を見つけ出して、カヤにぶつけるしかないって。でもそんなの、一朝一夕で見つかるものじゃありません」
肯定も否定もせず、姉はニコラを眺めている。
「僕は中途半端です。自分の気持ちさえ理解できない。でも、だからこそ判ることもある。僕の中途半端と同じように、カヤも中途半端なんです」
「それは、わたしにはない発想でした」
ニコラは感心するように眼を細めた。
「では、どのようにして彼女を翻意させますか」
「翻意させるんじゃない。カヤは死にたいなんて本当は思っていないんです。そこをつっついてやります」
摂政殿下 友人の窮状に心を痛められる
前回の宮廷軍事評議会において確定したと思われた女流画家の処遇に対して、評議員より異議が提出された。文末にその概要を記す。
この論証は、先週、摂政殿下より提出された論証を覆すとまでは至らないものの、別の可能性を提示するという意味では意義が全くないとは言い切れないものである。
しかしながら筆者は、このような論拠を持ち出してきた評議員の判断に異を唱えたい。まだ十六歳の少女がひた隠しにしてきた出生の秘密が暴露されたのだ。この事実を持って彼女の有罪を確定させるのは、軍の意志決定機関であり、現時点で国政を掌握する立場にある評議会の品位を汚す結果になりはしないだろうか。目的を達成するためであれば手段を選ばないという姿勢を公に示す行為は、国民のみならず諸外国からの信頼をも低下させる愚考だと断定せざるを得ない。
閉会後、殿下は施設に収容されている女流画家を訪問された。開口一番、秘密が暴露されたことについて謝罪されたという。殿下ご自身の責任ではないにも関わらずだ。
お人柄を如実に示す挿話と言えよう。
文責:ピーター・ウッドジュニア
「蠅叩き新聞」 十二月 十一日号 三面
蛆虫以下の品性を露わにした評議員たち
もはや笑うしかない。女流画家を有罪にしたいがため、せっぱつまった宮廷軍事評議会が十数年以上前の醜聞を持ち出してきたのだから。
時の経過と共に洗い流され、忘れ去られていたに違いない個人の秘め事を、豚より潰れた汚物臭い鼻で嗅ぎつけ、さぞ重要な証拠であるかのように大衆へ見せつけたところで、白日にさらされるのは彼ら自身の下劣きわまりない精神だけだ。「我々は、肥だめにたかる蠅の幼虫にも劣る品性の持ち主です!」と声高に叫ぶのと何一つ変わらない。正義を気取り拳を掲げながら、毛穴から芋虫の屍骸のように薄汚い偽善が漏れ落ちていることに無自覚なのだろう。
以下に概要をまとめてあるが、ご病気の方、気の弱い方は読みとばしていただいても構わない。文面から、評議員たちの低脳ぶりが腐臭となって漂ってくるため、不快極まりないからだ。
執筆者:ジョン・ドゥ
「季刊政治哲学」 十二月号 七十頁
歴史とは、端的に表現するなら事実の回転体である。
表と裏、側面と正面、いずれが善でいずれが悪か、いずれが正でいずれが誤りかという判断は、事象を同じ時系列で体験した者たちだけに意味を有するもので、後世の人間にとっては等価値の対立構造に過ぎない。このように同時系列から後の時間に事象が加工され行く作用を「球体化」という言葉で定義するならば、今回の評議会で評議員たちはこの「球体化」を目論見、失敗したと言えるだろう。
ぎゃくに「球体化」に対立する概念、あるいは手法を「尖体化」と名付ける場合、この「尖体化」を試みているのが摂政殿下である。「尖体化」は事象の一点集中を指向する。点と化した事象に裏面や側面は存在しない。行為者はその状態を内部化するために「空洞精製」という思考形態を身につける必要があり、この「空洞精製」と「不可逆性暴力装置」を「反映暗転行動」の中で「自在連動化」する前に……(以下略)
論者:ジャン・バティスト・ベルナール・フォン・ラインシール
少年はアーカベルグ近郊の病院に収容されていた。
負傷した兵士は軍医の診察を受けた後、軽傷と判断されれば従軍を継続、重傷と見なされれば後方へ移送される。軍は負傷者専用の軍病院を王都に保有してはいるが、重傷者はなるべく早く手厚い治療を受けることが望まれるため、軍病院ではなく戦場に程近い病院に運び込まれる例も多い。
つまり戦役から一ヶ月が経過した時点で、戦場の近くで治療を続けているその少年兵の容態は、あまり芳しいものではないという見立てになる。
サキが病院を訪れたのは、評議会翌日の夕方だった。サキは少年の名前さえ知らなかったため、問い合わせに時間を要したのだ。胸部に重傷を負った少年、という情報だけで入院先を探したのだから、むしろ幸運に恵まれた方かもしれない。
病院といっても、王都にあるようなレンガ造りの立派な建物ではなかった。しっくい作りの民家が建ち並ぶ一角を、買い上げてそのまま治療施設に転用しているのだ。小さな村一つが病院の役割を果たしているようなもので、人手は足りているが新築費用のない都市近郊ではしばしば見られる形式らしい。
少年が収容されているのもそうした民家の一つだった。十二月の中旬、すでに炉には灯が点っている。炉から少し離れた位置に少年のベッドが設えてあった。
狭い小屋だが、来る途中で横目に見た同型の小屋には数台のベッドが並んでいた。僕がこの子に声をかけたのを見た誰かが気をつかってくれたのだろうか、とサキは訝る。
白い寝間着で眠る少年の顔は安らいで見える。
しかし前に見たときより明らかに頬はこけ、唇も下から歯の形が透けるほどに痩せ衰えていた。
「小康状態です」
炉で湯を沸かしていた看護婦が容態を語る。
「銃弾が心臓を逸れたおかげで、即死は免れましたけれど、なかなか傷口の熱を下げられませんでした。一昨日になってようやく熱は収まりましたが」
看護婦の視線は、枯れ枝のような少年の手に向いている。
「熱が下がった、というより、むしろ熱を出す機能さえ失われた、という状態です。これ以上、手の施しようがありません」
申し訳ありません、と身を屈める看護婦に、気にすることはありません、と応じるサキ。やはり忖度をしてくれていたようだ。
王国一の名医のところへ連れて行ったなら、あるいは助かるかもしれない。
けれども自分の副官でも友人でもないこの少年に、そこまでの温情をかける行為は君主としても、個人としても正しくないように思われた。
看護婦は沸かした湯を持って別の小屋へ向かった。眠る少年兵を見下ろしながら、サキは今更ながら疑問を抱く。
この子に会ったところで、何が変わるというのだろう。
たしかに刺激は受けた。戦場で、僕はこの少年に感化された。身を挺して同僚を助けたその姿に、分析できない感情が芽生えて、前線へ出てやろうと決意したのだ。
その感情を見つめ直し、カヤを翻意させるほどの「信念」を組み立てるためにここへやってきた。
しかし、この少年と話したところで、何がわかるというのだろう。
(こんにちわ。僕は君が人を助けるのを見て心境が変化したんだけれど、それがどういうものなのか分からないんだ。いっしょに考えてくれるかい?)
バカか?
瀕死の負傷者に対して、迷惑すぎる。
浅慮を恥じたサキが、小屋を後にしようとしたとき、
「せっしょう、さま?」
弱々しい声に呼びかけられて、振り向くと少年が目を覚ましていた。
「・・・おはよう」
間の抜けた挨拶をサキは口にした。
「せっしょう、さま、ですよね」
少年はサキの方へ手を伸ばすが、すぐに下ろしてしまった。もう、筋力が足りないのだろう。
「起こしてすまなかったね」
サキはベッドに近付く。
「君が、気になってたんだ。それで、様子を観にきた。ひいきになってしまうから、本当はよくないんだけれど」
「やっぱり、あのとき、声をかけてくださった」
少年の発声は途切れ途切れだが聴き取りやすいものだった。
「夢じゃあ、夢じゃあなかったんだ―――」
少年の瞳から涙がこぼれた。痩せた頬から顎に流れるそれは、涙というより、感情のない、ただの液体に思われた。命の溶解液だ。
「ひいきついでだ。なにか、欲しいものはある?してもらいたいことは?」
サキが優しい言葉をかけたのは、少年の瞳に死を自覚した者の色合いを見たからだった。正直なところ、現在のサキに履行できる約束は限られている。だが兵卒の要求などたかがしれているだろうし、無理なら無理で構わない。どうせ死んでしまうのだから。
しかし少年の答えは、想像以上に無欲なものだった。
「何も要りません」
「遠慮しなくていいんだよ」
サキは少年の心情を推し量る。この少年は、たぶん、恵まれた人生を送ってきていない。貧民の子供に施しを与えようとするとき、明らかに空腹なのに「要らない」と断る子がいることを知っていた。舞い降りた幸運を信じられず、とっさに拒絶してしまうのだ。
「本当に、いらないんです」
けれども少年は、ゆっくりと頭を振った。
「せっしょうさまには、もう、じゅうぶんすぎるくらい頂戴しました」
「僕から?」
サキには覚えがない。この少年に会ったのはあの戦場が初めてのはずだ。
「こんなこと、せっしょうさまに言っても何もならないけれど」
少年は譫言のように話す。
「おれ、生まれたときから邪魔ものだったんです。きょうだいがうじゃうじゃ生まれる家で、その子らを世話させるためにまた子供を作るようなどうしようもない親に育てられて、俺、頭が悪いから、ずっと怒られっぱなしだった。役立たず、お前なんか産まない方がよかった。死んじまえって・・・それで、兵隊に出される家を金で肩代わりするって誘いがあったとき、親は、俺を選んだんです」
不正行為を白状しているわけだが、今はどうでもいい。
「軍隊も、うまくやれるわけはないってわかってた。でも戦争になって、これで楽になれるって喜びました。ずっと死にたいと思ってたけど、自分で死ぬのは怖いから、敵に殺してもらいたかったんです」
では、あの同僚をかばった動作は、自殺の一種だったのか。サキは訊ねようとしたが、
「だから、はじめてだったんです」
少年の目が、これまでになく輝いた。
「何が?」
「言ってもらえたことがです。『死ぬな』って。『生きろ』って。せっしょうさま、声をかけてくれたでしょう?」
「それは」
それは、修辞句みたいなものだ。戦場で、担架に近づいたら。瀕死の兵士と眼があったなら。サキと似たような立場にいるものだったら、そういう言葉をかけるに決まっている。作法みたいなものだ。
「うれしかった」
少年の頬を、再び液体が伝う。
「死ねって、要らないって、消えちまえって、ずっと言われ続けてたおれが、生まれてはじめて『生きろ』って言ってもらえたんです。この国で一番偉い人が、俺に、『生きろ』って―――――うれしかった。ああよかった。おれ、生まれてきてよかったんだ。死ななくてもいいんだって―――本当に」
サキは恐ろしくなった。綺麗な瞳だ。戦場で遠眼鏡から眺めたときは、もっと濁った色だった。
「だからもう、何も要らない。死んでもいい」
「矛盾している」
「そうだと思います。俺、頭悪いから」
少年は微笑んだ。
「でも、俺にとっては本当なんです。俺、きっと、笑って死ねる。せっしょうさま、本当にありがとうございます」
摂政府に戻ったサキだったが、少年の痩せた頬が、きれいな瞳が頭から離れない。
夕食も喉を通らない。向かいの席で、ニコラが眉を顰めている。
無理矢理でも胃に放り込もうと食材を吟味していると、フランケンが部屋へ入ってきた。
「件の医療院より連絡がございました」耳打ちする。
「今しがた、亡くなった、とのことです」
「そうか」
サキは食卓を離れる。
あいつ、最後に笑ったのだろうか。
神様の設計は完璧だ。とくに眠りという機能を設けたことは素晴らしい。戸惑い、迷い、不機嫌――――全部くるんで、朝まで棚上げにしてくれる。
でもそのありがたい眠りに、飛び込めない夜があるのは問題だな、とサキは布団の中で不平をこぼした。設計に比べて、製造はお粗末だ。製造は神様じゃなく、安い業者に請け負わせたんじゃないか?
あの少年の言葉、涙、笑顔がぐるぐると取り付いている。
人がこの世を去るとき、あそこまで綺麗な心で逝けるものなのか。
サキは戦場を知った。山積みの死体を見た。だが彼らがどのような心境で死んでいったのかという点を深く考えはしなかった。苦痛、後悔、憎しみ。そんなものだろうと決めつけていたのだ。
自分はどうだろう。人生に幕が降りる際、あの少年のように満ち足りた気持ちで眠れるものだろうか。
たぶん無理だ、とサキは思う。数十年後か、明日かはわからないが、死にたくない、死にたくない、と繰り返すに決まっている。
あの少年は端から見れば不幸な人生だったかもしれないが、最後に満足して生涯を終えることができたのだ。
彼に安らぎを与えたのは、サキの何気ない一言だった。
自分が善行を成したとは思わない。それでも、一人の人生を、少なくとも本人にとっては価値あるものとして締めくくらせることができたのだ。その事実は誇らしい。結局、カヤを翻意させる助けにはならなかったけれど、見舞いに行ってよかった――――
ようやく微睡みが訪れる。無意識の渦に、サキは沈んでいった。
「違うだろうが!」
闇の中で、サキは自分の頬を殴った。
この軟弱者が!
いい話にしてうやむやに終わらせるんじゃないっ。お前は道具を見つけに少年に会いに行ったんだろうが!生きる気力をカヤに思い出させるきっかけだ。いい気持ちで流すな。拾い上げろ。
自分自身に叱咤され、サキは闇の中を歩き回った。光を見たのだ。あの少年が同僚をかばったときと、サキに感謝を述べたとき。サキに感銘を与えたのは同じ種類の光だった。
いつの間にか寝室を出ていた。よろよろと廊下を歩く。背後で客室の扉が開く音がした。
「具合が悪いのですか、サキ」
姉の気遣わしげな声がする。
「だいじょうぶ。むしろ爽快ですから」
夜でも摂政府の廊下にはところどころ明かりが灯っている。美しい橙色の蛾が飛び回っていた。灯火に飛び込むかと思ったが、直前ですりぬけ、闇へと消えた。
「カヤは、偽っていたんです」
振り返り、サキは告げた。
「偽っていた」
ニコラはオウム返しに言う。
「姉上は言いましたよね。僕の信念を見つけ出して、カヤにぶつけるしかないって。でもそんなの、一朝一夕で見つかるものじゃありません」
肯定も否定もせず、姉はニコラを眺めている。
「僕は中途半端です。自分の気持ちさえ理解できない。でも、だからこそ判ることもある。僕の中途半端と同じように、カヤも中途半端なんです」
「それは、わたしにはない発想でした」
ニコラは感心するように眼を細めた。
「では、どのようにして彼女を翻意させますか」
「翻意させるんじゃない。カヤは死にたいなんて本当は思っていないんです。そこをつっついてやります」