老兵の牙
文字数 3,063文字
螺旋階段を下り切ったゼマンコヴァは、足音を頼りにいばら荘の洞窟部分を進んでいる。フェルミの姿は見えない。正面に曲がり角が見える。自分がフェルミなら、曲がり角の奥で待ちかまえるだろうと老人は予想した。そうして隙を探る。この環境で、自分が隙をつくりそうな状況はどのような場合か想像した。
ちらちらと床を眺めながら歩みを進める。衰え著しいこの身だが、同年輩に比べると筋力と視力には恵まれていた。
少し手前にある床の段差に気付いた。階段というほど明確ではなく、僅かに浮き上がっている。不注意な老人ならつまずくかもしれない。
ゼマンコヴァは、わざとつま先を段差にぶつけた。靴が鈍い音を立てた後、曲がり角へ向けて弾丸を放つ。
曲がり角から半身を覗かせたフェルミが、こちらへ向けて撃ったのとほぼ同時だった。
ゼマンコヴァの弾はフェルミの頭の上をすり抜け、フェルミの弾も老人の左側を通過した。
「読まれていたとは。お見事です」
フェルミはすぐに姿を消した。声が遠ざかる。
「ですが俺なら命中させていましたね。竜騎兵で鳴らしたにしては、お粗末だ。お年ですかな、やはり」
「小童が」
ゼマンコヴァは口元を歪ませた。決闘というより、これは戦闘に近い。もはや立つことはあるまいと諦めていた、戦場だ。
最上階で、サキは壁沿いを走り続けている。正対する位置にギディングス。互いに拳銃を構え、相手が隙を見せたら撃ち込んでやる構えだ。広い部屋なので、ちゃんと当てられるかどうか不安だった。拳銃はあくまで近距離戦闘の武器なのだ。
出し抜けにギディングスが撃った。上方から壁のかけらが落ちてくる。随分逸れたみたいだ。相手も緊張しているのだろうか。
再びギディングスの射撃。今度はサキの遙か前方の絨毯に穴が空いた。続けざまにもう一発。サキからみて右前方のイスが穿たれる。
これはもう、下手とか緊張しているとかいう程度じゃない。
戸惑いながら、サキは足を止める。ギディングスも正面で停止した。
「おいギディングス」
サキは呼びかける。
「当てる気ないんだろ、僕に」
「もうちょっと小さい声でお願いします」
ギディングスが咎めるように眉を顰める。
「フェルミ大佐が真下にいるかもしれないので」
「……殺す気ないんだな、僕を」
「そうですね」
拳銃を下ろし、年若い評議員は髪の毛をいじる。
「反対だったら、どうして採決で言わなかったんだよ」
「反対しにくい雰囲気だったんですよ。怖かったんです」
なるほど、ゼマンコヴァがフェルミをこの場から離したのはこういうわけだったか、とサキは感心する。採決の場にいなかったはずなのに、よく見抜いたものだ。まあ、この男がわかりやすいだけかもしれないけれど。
「というわけで、ゼマンコヴァ評議員がフェルミ評議員を始末してくれたら、万々歳なんです」いけしゃあしゃあとギディングスは言う。
「ここで様子を見ましょう。そっちの机、座ってもいいですか?」
「うん、まあ、どうぞ」
そもそもサキの家でも何でもないのだ。
ギディングスは議長の書き物机に腰を下ろし、軍服のポケットから小振りなブリキ缶を取り出した。蓋を開いて、何やらかじっている。
「なに、それ」
「クッキーですよ。マリオン評議員からもらったんです」
さくさくと小気味いい音がする。
「殿下も食べたいですか?」
竜騎兵に入隊して間もない頃、ゼマンコヴァは射撃訓練にてこずっていた。銃の扱い方は覚えた。馬を宥めながら射撃体制をとるコツも身につけた。にも関わらず、的を前にすると手が震えて止まらないのだ。
「人を撃つのが怖いのか」
教官に訊かれた。強面だが口調は穏やかな教官だった。
「たまにいるんだよ。お前みたいなやつが。戦場だけじゃない。訓練でさえ、撃てなくなる。たいてい、まじめな奴だな」
「すみません」
ゼマンコヴァは頭を下げる。「せっかく引き立ててもらって、お金のかかる訓練までしてもらってるのに……強くなりたいです。自動人形みたいに、ひとりでに動いて人を殺せるような仕組みになってしまいたいです」
「そんなものになる必要はない」
教官は笑った。
「人の心は捨てないでいい。家族と過ごす時間、町に出かける時間、戦争以外のほとんどの時間で使うものだからな。戦争だって、二十四時間人殺しをしているわけじゃあない。どんなに優秀な兵士でも、一度の戦場で百人も殺す機会はない。十人だって難しいところだ。人の心を忘れる時間なんて、ほんのわずかで構わない」
少年の頭を撫でた、大きな手の感触を今も覚えている。
「引き金を引く、一秒か二秒程度だけ冷血に変われ。それを何回か繰り返すだけだ。その瞬間だけ、鉄になれ。その程度だと思ったら、気が楽だろう?」
夕日に染まるいばら荘。もう十数分も早足で歩いているので、息を切らし、手が震え始めている。老いの残酷さをゼマンコヴァは嗤った。まさか、こんな理由で震えが止まらなくなってしまうとは。
(しかし、同じだな)
ゼマンコヴァは自分に言い聞かせる。
忘れたらいい。自分の肉体を忘れたらいい。引き金に指を乗せる刹那だけ、老いも、限界も忘れた兵器に己を変えるのだ。
曲がり角に近づいたゼマンコヴァは、暗闇の先にフェルミの気配を感じた。足腰の痛みを殺し、腹ばいに近い姿勢をとる。そのまま角へ近付く。壁を巻くように、低い姿勢のまま闇へ飛び込んだ。
フェルミの姿が現れ、同時に右手の拳銃が光った。
後方の壁が揺れる。こちらがこのような体勢で入ってくるとは予想していなかったのだろう。フェルミの弾丸は的を外したのだ。
床を滑り、摩擦で身体が停まった瞬間、ゼマンコヴァは引き金を引いた。
光と血の花が、フェルミの右肩に咲いた。
苦痛に顔を歪め、大佐は膝を折る。致命傷とは行かないまでも、もう右手で銃は撃てないだろう。
それでも、闘志は潰えていないようだ。床に膝をついていたのはほんの一瞬で、立ち上がり、こちらを睨みつけてくる。肩を撃たれても銃を取り落としていないことに老人は感心した。
「見上げた根性じゃの。しかし、勝負はついた」
銃を構えたままゼマンコヴァは前へ出る。
「老いぼれても、この距離で外すことはない。銃を捨てよ」
「私の負けのようですね」
フェルミは右手の銃をゼマンコヴァの足下近くまで転がした。まだ安心はできない。小振りな拳銃なら、軍服の中に隠し持てるからだ。
何かおかしい。なにか。
違和感の理由に気付いた。フェルミの目的は殿下を殺めること。にも関わらず、螺旋階段を降りてから、最上階へ遠ざかる方向へ移動を続けている。そこに意図があるとしたら―――
ゼマンコヴァは素早く周囲を確かめた。
視界の隅で、フェルミの左手が動く。床から生えた、金具のようなものに触っている。
次の瞬間、ゼマンコヴァの足下が割れた。
「なにッ」
落ちる。落ちる。落ちる。
背中に飛沫が当たる。反射的に手足をばたつかせたが、程なく足が着いた。
「水牢です。以前、お邪魔した折に議長から教えていただきました」
上空、暗闇を切り取った光の四角からフェルミの声が降ってくる。壁の構造は判らないが、とても上れそうな距離ではない。
「お見事です元帥。撃ち合いは貴方の勝ちで結構ですよ。俺は仕事を終わらせに行きます」
「きさまッ!」
闇に怒声を放ったが、答えは返って来なかった。
ちらちらと床を眺めながら歩みを進める。衰え著しいこの身だが、同年輩に比べると筋力と視力には恵まれていた。
少し手前にある床の段差に気付いた。階段というほど明確ではなく、僅かに浮き上がっている。不注意な老人ならつまずくかもしれない。
ゼマンコヴァは、わざとつま先を段差にぶつけた。靴が鈍い音を立てた後、曲がり角へ向けて弾丸を放つ。
曲がり角から半身を覗かせたフェルミが、こちらへ向けて撃ったのとほぼ同時だった。
ゼマンコヴァの弾はフェルミの頭の上をすり抜け、フェルミの弾も老人の左側を通過した。
「読まれていたとは。お見事です」
フェルミはすぐに姿を消した。声が遠ざかる。
「ですが俺なら命中させていましたね。竜騎兵で鳴らしたにしては、お粗末だ。お年ですかな、やはり」
「小童が」
ゼマンコヴァは口元を歪ませた。決闘というより、これは戦闘に近い。もはや立つことはあるまいと諦めていた、戦場だ。
最上階で、サキは壁沿いを走り続けている。正対する位置にギディングス。互いに拳銃を構え、相手が隙を見せたら撃ち込んでやる構えだ。広い部屋なので、ちゃんと当てられるかどうか不安だった。拳銃はあくまで近距離戦闘の武器なのだ。
出し抜けにギディングスが撃った。上方から壁のかけらが落ちてくる。随分逸れたみたいだ。相手も緊張しているのだろうか。
再びギディングスの射撃。今度はサキの遙か前方の絨毯に穴が空いた。続けざまにもう一発。サキからみて右前方のイスが穿たれる。
これはもう、下手とか緊張しているとかいう程度じゃない。
戸惑いながら、サキは足を止める。ギディングスも正面で停止した。
「おいギディングス」
サキは呼びかける。
「当てる気ないんだろ、僕に」
「もうちょっと小さい声でお願いします」
ギディングスが咎めるように眉を顰める。
「フェルミ大佐が真下にいるかもしれないので」
「……殺す気ないんだな、僕を」
「そうですね」
拳銃を下ろし、年若い評議員は髪の毛をいじる。
「反対だったら、どうして採決で言わなかったんだよ」
「反対しにくい雰囲気だったんですよ。怖かったんです」
なるほど、ゼマンコヴァがフェルミをこの場から離したのはこういうわけだったか、とサキは感心する。採決の場にいなかったはずなのに、よく見抜いたものだ。まあ、この男がわかりやすいだけかもしれないけれど。
「というわけで、ゼマンコヴァ評議員がフェルミ評議員を始末してくれたら、万々歳なんです」いけしゃあしゃあとギディングスは言う。
「ここで様子を見ましょう。そっちの机、座ってもいいですか?」
「うん、まあ、どうぞ」
そもそもサキの家でも何でもないのだ。
ギディングスは議長の書き物机に腰を下ろし、軍服のポケットから小振りなブリキ缶を取り出した。蓋を開いて、何やらかじっている。
「なに、それ」
「クッキーですよ。マリオン評議員からもらったんです」
さくさくと小気味いい音がする。
「殿下も食べたいですか?」
竜騎兵に入隊して間もない頃、ゼマンコヴァは射撃訓練にてこずっていた。銃の扱い方は覚えた。馬を宥めながら射撃体制をとるコツも身につけた。にも関わらず、的を前にすると手が震えて止まらないのだ。
「人を撃つのが怖いのか」
教官に訊かれた。強面だが口調は穏やかな教官だった。
「たまにいるんだよ。お前みたいなやつが。戦場だけじゃない。訓練でさえ、撃てなくなる。たいてい、まじめな奴だな」
「すみません」
ゼマンコヴァは頭を下げる。「せっかく引き立ててもらって、お金のかかる訓練までしてもらってるのに……強くなりたいです。自動人形みたいに、ひとりでに動いて人を殺せるような仕組みになってしまいたいです」
「そんなものになる必要はない」
教官は笑った。
「人の心は捨てないでいい。家族と過ごす時間、町に出かける時間、戦争以外のほとんどの時間で使うものだからな。戦争だって、二十四時間人殺しをしているわけじゃあない。どんなに優秀な兵士でも、一度の戦場で百人も殺す機会はない。十人だって難しいところだ。人の心を忘れる時間なんて、ほんのわずかで構わない」
少年の頭を撫でた、大きな手の感触を今も覚えている。
「引き金を引く、一秒か二秒程度だけ冷血に変われ。それを何回か繰り返すだけだ。その瞬間だけ、鉄になれ。その程度だと思ったら、気が楽だろう?」
夕日に染まるいばら荘。もう十数分も早足で歩いているので、息を切らし、手が震え始めている。老いの残酷さをゼマンコヴァは嗤った。まさか、こんな理由で震えが止まらなくなってしまうとは。
(しかし、同じだな)
ゼマンコヴァは自分に言い聞かせる。
忘れたらいい。自分の肉体を忘れたらいい。引き金に指を乗せる刹那だけ、老いも、限界も忘れた兵器に己を変えるのだ。
曲がり角に近づいたゼマンコヴァは、暗闇の先にフェルミの気配を感じた。足腰の痛みを殺し、腹ばいに近い姿勢をとる。そのまま角へ近付く。壁を巻くように、低い姿勢のまま闇へ飛び込んだ。
フェルミの姿が現れ、同時に右手の拳銃が光った。
後方の壁が揺れる。こちらがこのような体勢で入ってくるとは予想していなかったのだろう。フェルミの弾丸は的を外したのだ。
床を滑り、摩擦で身体が停まった瞬間、ゼマンコヴァは引き金を引いた。
光と血の花が、フェルミの右肩に咲いた。
苦痛に顔を歪め、大佐は膝を折る。致命傷とは行かないまでも、もう右手で銃は撃てないだろう。
それでも、闘志は潰えていないようだ。床に膝をついていたのはほんの一瞬で、立ち上がり、こちらを睨みつけてくる。肩を撃たれても銃を取り落としていないことに老人は感心した。
「見上げた根性じゃの。しかし、勝負はついた」
銃を構えたままゼマンコヴァは前へ出る。
「老いぼれても、この距離で外すことはない。銃を捨てよ」
「私の負けのようですね」
フェルミは右手の銃をゼマンコヴァの足下近くまで転がした。まだ安心はできない。小振りな拳銃なら、軍服の中に隠し持てるからだ。
何かおかしい。なにか。
違和感の理由に気付いた。フェルミの目的は殿下を殺めること。にも関わらず、螺旋階段を降りてから、最上階へ遠ざかる方向へ移動を続けている。そこに意図があるとしたら―――
ゼマンコヴァは素早く周囲を確かめた。
視界の隅で、フェルミの左手が動く。床から生えた、金具のようなものに触っている。
次の瞬間、ゼマンコヴァの足下が割れた。
「なにッ」
落ちる。落ちる。落ちる。
背中に飛沫が当たる。反射的に手足をばたつかせたが、程なく足が着いた。
「水牢です。以前、お邪魔した折に議長から教えていただきました」
上空、暗闇を切り取った光の四角からフェルミの声が降ってくる。壁の構造は判らないが、とても上れそうな距離ではない。
「お見事です元帥。撃ち合いは貴方の勝ちで結構ですよ。俺は仕事を終わらせに行きます」
「きさまッ!」
闇に怒声を放ったが、答えは返って来なかった。