宮廷軍事評議会
文字数 6,697文字
国王の住居であり王国の行政機能の中枢でもあるその宮殿は、一般に「冬宮」あるいは「冬の宮殿」と呼ばれている。
命名者は初代国王で、摂政府同様、数百年前の石塔にアーチの増築を施したものだ。初代はこの冬宮の他にも順に「春宮」「夏宮」「秋宮」と呼ばせる三つの離宮を建造するつもりでいたらしいのだが、冬宮の改装途中で熱が冷めてしまい、春宮以降は名のみの幻に終わった。
「しかしながら二番目の春宮に関しては、歴史の中で特別な意味を与えられました。実体ではなく、言い回しとして稀に使用されるのです」
家庭教師の言葉を、サキは思い出していた。あれは確か、三年前に男爵家の令嬢と駆け落ちした国語の先生だった。
「有力者の日記や非公式文書で多用されていますのが、『春宮へ移る』という表現です。冬宮を住居兼政務の場としている国王が、実在しない次の季節の宮殿へ移住する――つまり薨去を意味する言い回しとなります。広くは国王の親族や皇太子等にも使用される言葉です。言い回しはいくつかございますので憶えておいて下さい。」
教師は羊皮紙に例文を記して見せた。
「『春の宮殿へ移る』『離宮へ行く』『次の宮殿へ行く』『陛下もそろそろ、春宮へ移住されるお年頃ですな』『陛下にも困ったものです。この上は、春の宮殿に移っていただく他にございませんな』……」
「あの」
サキは遠慮がちに訊いた。
「この表現、使う機会はあるんでしょうか」
「ありますとも。きわどい表現で君主をあげつらうのは、貴族の嗜みでございますからね。それに」
教師は意味ありげに微笑した。
「お家柄を考えれば、使われる立場も考えられない話ではないか、と」
まさか、とサキは笑った。
今思い返すと、まるで笑えない。
冬宮の外観は、摂政府に似ている。古い建造物にアーチを継ぎ足すという作り方が同じなのだから当然ではあるのだが、素体となる塔の大きさが違う。
摂政府のそれに比べ四倍近く胴回りがあり、支えとなるアーチも五倍近い長さだ。表面積が広い分、各所の装飾がより精緻に彫り込まれているため、摂政府・冬宮と続けざまに眺める眼には、廉価版と豪華版の違いに見えてしまう。
冬宮の門を潜りながら、サキは想像する。歴代の摂政たちは、摂政府で数年を過ごしてからここへ移って国王に即位した。着実に実績を重ねた摂政であれば、自身の成長に合わせて住まいが豪華になったような手ごたえを感じただろう。無為に過ごした数年間であったなら、逆にお前にこの宮殿は相応しくないと嘲笑われているような心地だったのではないだろうか。
何も成し遂げていないサキは、当然、後者の気分だった。
廊下の敷物一つさえ、摂政府のそれに似た、しかし一段上の品に思われて、サキは歩みを躊躇った。
この先は白繭の間。国王と重臣たちが重大事に際して方策を練り上げるために使用される広間だ。
待ち受けているのは宮廷軍事評議会の面々。共和国軍の侵攻に関して、直接説明をしたいという。冬宮との連絡はすべてカザルス少将が受け持っていたため、サキは評議会の一人として面識がない。そのため、敵地に乗り込むような緊張を感じていた。
とはいえ、怖がっても仕方がない。この期に及んでサキを呼びつけたのは、王都まで数時間の距離に迫っているという共和国軍に対して、何かをするために形式上とはいえ摂政の承認を要するということだろう。利用されるのは承知の上で、こちらも利用してやるつもりで引き受けた地位なのだ。子供だからとなめられてなるものか、とサキは気を張った。
前を見据える。彫刻と目が合った。白繭の間の扉には、大口を開いた獅子が刻まれている。
扉の向こうにいる連中は軍隊で鍛えられた海千山千かもしれないが、サキと同じ人間であることには変わりないはずだ。
準備しておこう。「軍人」という言葉から想像できる限りのいかつい胸像を頭に描く。百くらいの恐ろしさを覚悟していれば、七十程度なら耐えきれるはずだ。傷まみれの大男をサキは用意した。
獅子に近づく。敬礼と共に、衛兵が扉を開いた。
百十……いや百十五、念のため百二十の強面をサキは練り上げる。
千五百がそこにいた。
扉の向こうにいたその人物は、するどい眼光、右頬の傷、海賊船長のようなごわごわの顎髭と、恐ろしい風貌ではあったがそれだけなら予想の内、百二十の範囲内だった。
予想を超越していたのは、その大きさだ。
中央の円卓から四人の評議員が立ち上がり、サキに敬礼を示したが、その男だけ縮尺が異なって見えた。
この状況をありのまま描き上げ、カヤに見せたならきっと酷評されるだろう。「サキ、遠近法が狂ってるよ」「この人、机の奥にいるのに、大きすぎる」「これじゃ巨人だよ」
しかし、そのままなのだ。立ち上がったその男の背丈は、軽く 7.3ルーデ(二メートル三十センチ)を超えている。巨体に相応しく、肩幅も、首回りも丸太のような寸法だ。
サキの拳より体積のありそうな眼玉がごろりと動き、こちらを睨め付けた。
「宮廷軍事評議会へようこそ、摂政殿下。議長のグリムと申します」
予想外に、落ち着いた声だった。グリムと名乗った巨人は再度敬礼する。その姿勢が僅かに揺らいだ時、サキは初めて気づいた。右膝より下が鉄製の義足になっている。戦傷だろうか。大砲でも砕けそうにない肉体なのに。
「こちらから、副議長のマリオン。書記のイオナ。参議のゼマンコヴァにございます」
右手を伸ばし、巨人は他の委員を紹介する。グリムの存在感の前では霞んでしまいそうな面々だったが、サキは彼らも注視しようと努力した。この場では巨人だけを相手取るわけではないからだ。
サキの父親くらいの年齢と思われるマリオンは、中肉中背に髭剃り跡が目立つ青白い顔、あまり似合わない紫の羽飾りを襟元に散りばめている。一見、気楽な遊び人風だが、小狡そうな目許が警戒心を抱かせる。
隣のイオナも同年配に見える。こちらは対照的に軍人らしい風貌の持ち主だ。髪を後ろに流し、額には深いしわが刻まれている。眼光も鋭く、サキが予想した百二十の軍人に近い。
巨人から最も離れた位置にいるゼマンゴヴァは、色落ちとひび割れの激しい肌を見る限り、九十をゆうに超える老人だ。肩を狭め、小刻みに震えている。寒さのせいか、持病があるのか定かではない。
四人とも軍服を身に着けている。階級章は全員、元帥をしめすもの。同じ軍服をまといながら、痩せ細ったゼマンゴヴァと、鋼の彫像のようなグリムとでは、別製品のようだ。
「……よろしくお願いいたします」
硬い声を出してしまった。気圧されているのは丸わかりだろうけれど、せめて率直さは貫こうとサキは心を固める。
「評議委員は十名いらっしゃると聞いておりましたが、他の方はどちらでしょうか」
サキが訊ねると、グリムは大げさに眉を寄せた。
「ご容赦下さい。何しろ急を要する事態ゆえ、説明や手続きを手早く済ませたいのです。そのため、席はお持ちでも、じっさい運営に関わっておられない方々にはご遠慮いただきました」
頷きつつ、意外に思う。グリムに眼が向かいがちだが、他の三人も影響力を持っているということか。巨人に気をとられすぎると危険かもしれない。
「それではおかけください。早速ではありますが、現在の危機的状況についてあらましをお伝えいたします」
「公国、いえ共和国軍の宣戦布告を受けて、数日前よりわが軍は主力を敵国との国境付近に展開しておりました。正規軍定員の四万二千のうち、四万弱という大盤振る舞いです。敵軍は正対する配置にて目立った動きを見せず、徒に時間が経過するばかり――という状況のはずでしたが」
円卓に重ねた共和国と王国の地図を指さしながら説明してくれるグリムだが、指が大きすぎて位置がわからない。現役時代、部下は大変だったろうなと同情しながら、サキはまあまあ落ち着いている自分に気付き、喜んだ。なにを怖がっていたのだろう。この男がいくら怪力でも、僕を捻じ伏せたり、殴ったりする資格はないのだから。
「三日前のことです。敵軍がドレーという北部国境近くの小都市を侵したとの一報が入りました。最初は気を散らすために小バエを送り込んだに過ぎないだろうとたかをくくっておりましたが、周辺を見晴らせていた斥候より、気がかりな情報が寄せられたのです。遠眼鏡で見た敵軍将官の風貌が、公国の食糧庁長官であったクローゼという男に似ているという報告です」
「クローゼ……」
サキには聞き覚えがない。そもそも敵国の軍人は歴戦の名将であるグロチウスくらいしか知らない。無知を悟られないよう、気の利いた反応を返そうと思案するうちに、
「まあ、ご存じないのも無理はありません」
言われてしまった。
「クローゼは能吏として知られていた人物です。一昨年、公国北部が干ばつに見舞われた折、軍の補給部隊と連携をとって素早く救援網を敷き、餓死者を最小限に抑えて内外から称賛されました。軍務経験もあったことから、革命には軍人として参じたようですが、その本領は糧食の確保や連絡線の構築にこそ発揮される人材であるはず」
話の流れが、サキにも判る。案外、この巨人は話し上手かもしれない。
「そのような人物が、敵主力とは別の位置にいたということは――」
「さよう。支流や幻惑ではなく、そちらこそが本命ではないのか?そう思い至り、斥候の数を三倍にした結果、恐ろしい絵図が浮かび上がりました。敵が打ち出したのは、合わせて一万五千から二万程度の兵力を可能な限り少人数に分割して送り込み、王都の手前で終結させるという奇策中の奇策です。遺憾なことに、こちらが確証を得た時点で手遅れでした。運河を使ったとしても、国境付近にいる正規軍は間に合いません。そもそも国境付近にも敵軍は配備されておりますからね。こちらへやってきた奴らに比べて練度は劣るでしょうが、すぐさま背中を晒しての退却は難しい」
それは情報収集に問題があったのでは、とサキは訝しむ。偵察の知識に疎いため、非難すべきか判断できななかったが、ここは威厳を示そうと決めた。
「失礼ながら、斥候の運用に手抜かりがあったのでは?」
「そのご意見は心外ですな!」
ひっ。異を唱えたのは、それまで黙りこくっていたイオナだ。不意を突かれ、サキはびくりと怯えを隠せなかった。
「こ、これ。殿下のお言葉ですぞ」
ゼマンコヴァが窘める。
「落着きたまえ。素人によくある勘違いだろう」
これはマリオンの言葉だ。
しろうと……礼を失した言い草と感じたが、どうやら間違っているのは自分らしい。広い国土で、侵入した敵軍の兵数を正確に把握するのは至難の業というのが常識であるようだ。
グリムは無言で肩をすくめ、「続けてよろしいかな?」と訊ねている。荷を運ぶ牡牛の背のようにうねる肩。サキは小さく頷いた。
うすうすは感付いていたが、なめられている。
「気付いたときには、国家の喉元に匕首を突き付けられておりました。こちらには持ち合わせが足りない。これはもう、笑うしかありません」
笑えない。
「現状、王都防衛に避ける兵力はどれくらいなのですか」
「正規軍騎兵・戦列歩兵が五百ずつ。連隊付属の大砲は九門となっております」
素人にも少ないと分かる数字だった。
「数を増やす方法はないんですか。予備役とかそういったものは」
「ご存じでしょうが、我が国の正規軍は基本的に志願制の形をとっております。残念ながら富める国家において兵隊というものは庶民の働き口としてあまり歓迎されないものでして、予備役も不足している状況なのです……そもそも予備役は全国に分散しておりますので、招集する時間がありません」
「しかもグロチウスなんですよね、敵の指揮官は」
サキはカザルスが来たときに教えてくれた情報を口にした。
「そちらも、斥候が確認しております。彼 の老将が出張る以上、全軍を指揮しているのは間違いないでしょう。
これは、意外な話ではなかった。王国と公国は、数年おきの間隔で干戈を交える関係だった。大半の戦役で優位に立っていたのは王国の方だったが、その差を削り取ってきたのがグロチウスの才覚だった。彼がいなければ、王国の版図は現在の三割程度広かっただろうと計算する公文書さえ編まれている程だ。
老将の名前は、サキの半分も生きていない幼児だって知っている。「いい子にしていないとグロチウスが攻めてくるよ」そんな脅し文句にさえ採用されているからだ。
今、彼について語るグリムの言葉にも、畏敬が込められているように思われた。
「数多の堅牢極まりない城塞群を陥落させてきた老将の経歴に対して、こちらの手持ちは余りに心もとない数字です。その上、王都は攻城戦を経験しておりません。城壁は建国以前の遺跡の面影を残すものばかり。一晩で落とされたとしても、さほど意外ではありません」
さっきから、他人事のように話す。
「前向きな話もいたしましょう。予想外な事柄ばかりですが、だからこそ、敵の目論見を量ることも容易いのです」
手のひらを、グリムは種明かしする手品師のように広げて見せる。
「このやり口では、一時的に王都を落としても、保つことは困難です。ならば占領それ自体が目的ではなく、我が国の首都を攻略したという事実が与える対外的な効果が狙いと思われます!」グリムが両の拳を握り、目の前で振り回すので、サキはびくびくと風圧に揺れた。
「喧嘩に例えてみましょう。路地裏で悪ガキ共に囲まれ多勢に無勢。そういうとき、一番手強そうなやつに狙いを定めて眉間に一撃を喰らわせる。上手くすれば盛大に出血させて、おそれをなした子分共は散り散りに逃げ去ってくれるかもしれません――まあ、私は殴り合いの経験に乏しいもので、あくまで比喩にございますが」
嘘つけ。口の隅っこで毒づきながら、サキは言葉を反芻する。
「眉間に一撃、が王都への急襲なのですね」
「さよう。たとえ数日で奪還されたとしても、『あの強国でさえ都を陥とされた』と脅威を諸国に植え付ける狙いがあるのでしょう」
巨人は両掌を波濤のように擦り合わせている。落ち着きのない人だ、子供みたいだ、とサキは評価する。父上に似たところがあるかもしれない。子供じみたこだわり、わがままを捨てないまま体だけ膨らんだ不格好な塊。
「その通りだとしたら、どうされるおつもりですか」
「どうもしません」
は?
さっきから、ほとんど口を挟まない他の委員がサキには不愉快だった。重大な間違いを見過ごして計算を続ける生徒を観察するかのように、マリオンは薄笑いを堪え、イオナはむっつりと押し黙り、ゼマンコヴァは物憂げに目を伏せている。
「どうもしません、というのは……」
「どうしようもないのです。ただこの王都を、蹂躙されるに任せる他にございません。とはいえ今なら逃げることは可能ですから、官界や商業組合に声をかけ、優先的に避難させるべき人材を選り抜かせております」
随分と諦めが早いな、とサキは訝しむ。少なくともグリムやイオナのような強面は徹底抗戦を唱えそうなものなのに。
それに、そういう対応でいいなら、どうして自分がわざわざ呼ばれたのだろう?
「すでに状況を察した市民もいるようです。間もなくこぞって退去を始めるでしょう。しかし手ぶらで逃げ出すならともかく、家財道具を運び出すには荷車等が足りません。馬車の類も確保できなければ徒歩で逃げるしかないでしょうが、それでは敵軍の包囲に引っかかるやもしれません。遺憾ながら、市民の何割かは――嬲り殺しの憂き目に遭うことでしょうな」
凄惨な予想を巨人は平然と告げた。
「それで、いいのですか?」
何か理不尽で、恐ろしい何かを予感したが、サキは尋ねずにいられない。
「実のところ、よくはないのです。革命思想は、我が国にも流し込まれております。育ちかけの腫瘍にすぎないもので、革命軍とも細糸の繋がり程度のささやかさですが、我々が民衆を半ば見捨てたと知れば、怒りと共に膨れ上がり、この国を喰い破るかもしれません。フランスでも革命が支配者側に牙を向いたのは、ルイ十六世一家が国外逃亡を図ったためと聞き及んでおります」
足元に、奈落への穴が開いたことをサキは悟った。
……いや、脅えすぎるな。そんな話はあり得ない。まだ君主の座に就いて一ヶ月も経っていない人間に、そんなのはあまりにも酷過ぎるじゃないか。
しかし巨人の口から、魔物のような犬歯がぎらりと覗いた。
「そこで殿下には――民衆を率い、革命軍の進行を食い止めていただきたいのです」
ひどすぎる。
命名者は初代国王で、摂政府同様、数百年前の石塔にアーチの増築を施したものだ。初代はこの冬宮の他にも順に「春宮」「夏宮」「秋宮」と呼ばせる三つの離宮を建造するつもりでいたらしいのだが、冬宮の改装途中で熱が冷めてしまい、春宮以降は名のみの幻に終わった。
「しかしながら二番目の春宮に関しては、歴史の中で特別な意味を与えられました。実体ではなく、言い回しとして稀に使用されるのです」
家庭教師の言葉を、サキは思い出していた。あれは確か、三年前に男爵家の令嬢と駆け落ちした国語の先生だった。
「有力者の日記や非公式文書で多用されていますのが、『春宮へ移る』という表現です。冬宮を住居兼政務の場としている国王が、実在しない次の季節の宮殿へ移住する――つまり薨去を意味する言い回しとなります。広くは国王の親族や皇太子等にも使用される言葉です。言い回しはいくつかございますので憶えておいて下さい。」
教師は羊皮紙に例文を記して見せた。
「『春の宮殿へ移る』『離宮へ行く』『次の宮殿へ行く』『陛下もそろそろ、春宮へ移住されるお年頃ですな』『陛下にも困ったものです。この上は、春の宮殿に移っていただく他にございませんな』……」
「あの」
サキは遠慮がちに訊いた。
「この表現、使う機会はあるんでしょうか」
「ありますとも。きわどい表現で君主をあげつらうのは、貴族の嗜みでございますからね。それに」
教師は意味ありげに微笑した。
「お家柄を考えれば、使われる立場も考えられない話ではないか、と」
まさか、とサキは笑った。
今思い返すと、まるで笑えない。
冬宮の外観は、摂政府に似ている。古い建造物にアーチを継ぎ足すという作り方が同じなのだから当然ではあるのだが、素体となる塔の大きさが違う。
摂政府のそれに比べ四倍近く胴回りがあり、支えとなるアーチも五倍近い長さだ。表面積が広い分、各所の装飾がより精緻に彫り込まれているため、摂政府・冬宮と続けざまに眺める眼には、廉価版と豪華版の違いに見えてしまう。
冬宮の門を潜りながら、サキは想像する。歴代の摂政たちは、摂政府で数年を過ごしてからここへ移って国王に即位した。着実に実績を重ねた摂政であれば、自身の成長に合わせて住まいが豪華になったような手ごたえを感じただろう。無為に過ごした数年間であったなら、逆にお前にこの宮殿は相応しくないと嘲笑われているような心地だったのではないだろうか。
何も成し遂げていないサキは、当然、後者の気分だった。
廊下の敷物一つさえ、摂政府のそれに似た、しかし一段上の品に思われて、サキは歩みを躊躇った。
この先は白繭の間。国王と重臣たちが重大事に際して方策を練り上げるために使用される広間だ。
待ち受けているのは宮廷軍事評議会の面々。共和国軍の侵攻に関して、直接説明をしたいという。冬宮との連絡はすべてカザルス少将が受け持っていたため、サキは評議会の一人として面識がない。そのため、敵地に乗り込むような緊張を感じていた。
とはいえ、怖がっても仕方がない。この期に及んでサキを呼びつけたのは、王都まで数時間の距離に迫っているという共和国軍に対して、何かをするために形式上とはいえ摂政の承認を要するということだろう。利用されるのは承知の上で、こちらも利用してやるつもりで引き受けた地位なのだ。子供だからとなめられてなるものか、とサキは気を張った。
前を見据える。彫刻と目が合った。白繭の間の扉には、大口を開いた獅子が刻まれている。
扉の向こうにいる連中は軍隊で鍛えられた海千山千かもしれないが、サキと同じ人間であることには変わりないはずだ。
準備しておこう。「軍人」という言葉から想像できる限りのいかつい胸像を頭に描く。百くらいの恐ろしさを覚悟していれば、七十程度なら耐えきれるはずだ。傷まみれの大男をサキは用意した。
獅子に近づく。敬礼と共に、衛兵が扉を開いた。
百十……いや百十五、念のため百二十の強面をサキは練り上げる。
千五百がそこにいた。
扉の向こうにいたその人物は、するどい眼光、右頬の傷、海賊船長のようなごわごわの顎髭と、恐ろしい風貌ではあったがそれだけなら予想の内、百二十の範囲内だった。
予想を超越していたのは、その大きさだ。
中央の円卓から四人の評議員が立ち上がり、サキに敬礼を示したが、その男だけ縮尺が異なって見えた。
この状況をありのまま描き上げ、カヤに見せたならきっと酷評されるだろう。「サキ、遠近法が狂ってるよ」「この人、机の奥にいるのに、大きすぎる」「これじゃ巨人だよ」
しかし、そのままなのだ。立ち上がったその男の背丈は、軽く 7.3ルーデ(二メートル三十センチ)を超えている。巨体に相応しく、肩幅も、首回りも丸太のような寸法だ。
サキの拳より体積のありそうな眼玉がごろりと動き、こちらを睨め付けた。
「宮廷軍事評議会へようこそ、摂政殿下。議長のグリムと申します」
予想外に、落ち着いた声だった。グリムと名乗った巨人は再度敬礼する。その姿勢が僅かに揺らいだ時、サキは初めて気づいた。右膝より下が鉄製の義足になっている。戦傷だろうか。大砲でも砕けそうにない肉体なのに。
「こちらから、副議長のマリオン。書記のイオナ。参議のゼマンコヴァにございます」
右手を伸ばし、巨人は他の委員を紹介する。グリムの存在感の前では霞んでしまいそうな面々だったが、サキは彼らも注視しようと努力した。この場では巨人だけを相手取るわけではないからだ。
サキの父親くらいの年齢と思われるマリオンは、中肉中背に髭剃り跡が目立つ青白い顔、あまり似合わない紫の羽飾りを襟元に散りばめている。一見、気楽な遊び人風だが、小狡そうな目許が警戒心を抱かせる。
隣のイオナも同年配に見える。こちらは対照的に軍人らしい風貌の持ち主だ。髪を後ろに流し、額には深いしわが刻まれている。眼光も鋭く、サキが予想した百二十の軍人に近い。
巨人から最も離れた位置にいるゼマンゴヴァは、色落ちとひび割れの激しい肌を見る限り、九十をゆうに超える老人だ。肩を狭め、小刻みに震えている。寒さのせいか、持病があるのか定かではない。
四人とも軍服を身に着けている。階級章は全員、元帥をしめすもの。同じ軍服をまといながら、痩せ細ったゼマンゴヴァと、鋼の彫像のようなグリムとでは、別製品のようだ。
「……よろしくお願いいたします」
硬い声を出してしまった。気圧されているのは丸わかりだろうけれど、せめて率直さは貫こうとサキは心を固める。
「評議委員は十名いらっしゃると聞いておりましたが、他の方はどちらでしょうか」
サキが訊ねると、グリムは大げさに眉を寄せた。
「ご容赦下さい。何しろ急を要する事態ゆえ、説明や手続きを手早く済ませたいのです。そのため、席はお持ちでも、じっさい運営に関わっておられない方々にはご遠慮いただきました」
頷きつつ、意外に思う。グリムに眼が向かいがちだが、他の三人も影響力を持っているということか。巨人に気をとられすぎると危険かもしれない。
「それではおかけください。早速ではありますが、現在の危機的状況についてあらましをお伝えいたします」
「公国、いえ共和国軍の宣戦布告を受けて、数日前よりわが軍は主力を敵国との国境付近に展開しておりました。正規軍定員の四万二千のうち、四万弱という大盤振る舞いです。敵軍は正対する配置にて目立った動きを見せず、徒に時間が経過するばかり――という状況のはずでしたが」
円卓に重ねた共和国と王国の地図を指さしながら説明してくれるグリムだが、指が大きすぎて位置がわからない。現役時代、部下は大変だったろうなと同情しながら、サキはまあまあ落ち着いている自分に気付き、喜んだ。なにを怖がっていたのだろう。この男がいくら怪力でも、僕を捻じ伏せたり、殴ったりする資格はないのだから。
「三日前のことです。敵軍がドレーという北部国境近くの小都市を侵したとの一報が入りました。最初は気を散らすために小バエを送り込んだに過ぎないだろうとたかをくくっておりましたが、周辺を見晴らせていた斥候より、気がかりな情報が寄せられたのです。遠眼鏡で見た敵軍将官の風貌が、公国の食糧庁長官であったクローゼという男に似ているという報告です」
「クローゼ……」
サキには聞き覚えがない。そもそも敵国の軍人は歴戦の名将であるグロチウスくらいしか知らない。無知を悟られないよう、気の利いた反応を返そうと思案するうちに、
「まあ、ご存じないのも無理はありません」
言われてしまった。
「クローゼは能吏として知られていた人物です。一昨年、公国北部が干ばつに見舞われた折、軍の補給部隊と連携をとって素早く救援網を敷き、餓死者を最小限に抑えて内外から称賛されました。軍務経験もあったことから、革命には軍人として参じたようですが、その本領は糧食の確保や連絡線の構築にこそ発揮される人材であるはず」
話の流れが、サキにも判る。案外、この巨人は話し上手かもしれない。
「そのような人物が、敵主力とは別の位置にいたということは――」
「さよう。支流や幻惑ではなく、そちらこそが本命ではないのか?そう思い至り、斥候の数を三倍にした結果、恐ろしい絵図が浮かび上がりました。敵が打ち出したのは、合わせて一万五千から二万程度の兵力を可能な限り少人数に分割して送り込み、王都の手前で終結させるという奇策中の奇策です。遺憾なことに、こちらが確証を得た時点で手遅れでした。運河を使ったとしても、国境付近にいる正規軍は間に合いません。そもそも国境付近にも敵軍は配備されておりますからね。こちらへやってきた奴らに比べて練度は劣るでしょうが、すぐさま背中を晒しての退却は難しい」
それは情報収集に問題があったのでは、とサキは訝しむ。偵察の知識に疎いため、非難すべきか判断できななかったが、ここは威厳を示そうと決めた。
「失礼ながら、斥候の運用に手抜かりがあったのでは?」
「そのご意見は心外ですな!」
ひっ。異を唱えたのは、それまで黙りこくっていたイオナだ。不意を突かれ、サキはびくりと怯えを隠せなかった。
「こ、これ。殿下のお言葉ですぞ」
ゼマンコヴァが窘める。
「落着きたまえ。素人によくある勘違いだろう」
これはマリオンの言葉だ。
しろうと……礼を失した言い草と感じたが、どうやら間違っているのは自分らしい。広い国土で、侵入した敵軍の兵数を正確に把握するのは至難の業というのが常識であるようだ。
グリムは無言で肩をすくめ、「続けてよろしいかな?」と訊ねている。荷を運ぶ牡牛の背のようにうねる肩。サキは小さく頷いた。
うすうすは感付いていたが、なめられている。
「気付いたときには、国家の喉元に匕首を突き付けられておりました。こちらには持ち合わせが足りない。これはもう、笑うしかありません」
笑えない。
「現状、王都防衛に避ける兵力はどれくらいなのですか」
「正規軍騎兵・戦列歩兵が五百ずつ。連隊付属の大砲は九門となっております」
素人にも少ないと分かる数字だった。
「数を増やす方法はないんですか。予備役とかそういったものは」
「ご存じでしょうが、我が国の正規軍は基本的に志願制の形をとっております。残念ながら富める国家において兵隊というものは庶民の働き口としてあまり歓迎されないものでして、予備役も不足している状況なのです……そもそも予備役は全国に分散しておりますので、招集する時間がありません」
「しかもグロチウスなんですよね、敵の指揮官は」
サキはカザルスが来たときに教えてくれた情報を口にした。
「そちらも、斥候が確認しております。
これは、意外な話ではなかった。王国と公国は、数年おきの間隔で干戈を交える関係だった。大半の戦役で優位に立っていたのは王国の方だったが、その差を削り取ってきたのがグロチウスの才覚だった。彼がいなければ、王国の版図は現在の三割程度広かっただろうと計算する公文書さえ編まれている程だ。
老将の名前は、サキの半分も生きていない幼児だって知っている。「いい子にしていないとグロチウスが攻めてくるよ」そんな脅し文句にさえ採用されているからだ。
今、彼について語るグリムの言葉にも、畏敬が込められているように思われた。
「数多の堅牢極まりない城塞群を陥落させてきた老将の経歴に対して、こちらの手持ちは余りに心もとない数字です。その上、王都は攻城戦を経験しておりません。城壁は建国以前の遺跡の面影を残すものばかり。一晩で落とされたとしても、さほど意外ではありません」
さっきから、他人事のように話す。
「前向きな話もいたしましょう。予想外な事柄ばかりですが、だからこそ、敵の目論見を量ることも容易いのです」
手のひらを、グリムは種明かしする手品師のように広げて見せる。
「このやり口では、一時的に王都を落としても、保つことは困難です。ならば占領それ自体が目的ではなく、我が国の首都を攻略したという事実が与える対外的な効果が狙いと思われます!」グリムが両の拳を握り、目の前で振り回すので、サキはびくびくと風圧に揺れた。
「喧嘩に例えてみましょう。路地裏で悪ガキ共に囲まれ多勢に無勢。そういうとき、一番手強そうなやつに狙いを定めて眉間に一撃を喰らわせる。上手くすれば盛大に出血させて、おそれをなした子分共は散り散りに逃げ去ってくれるかもしれません――まあ、私は殴り合いの経験に乏しいもので、あくまで比喩にございますが」
嘘つけ。口の隅っこで毒づきながら、サキは言葉を反芻する。
「眉間に一撃、が王都への急襲なのですね」
「さよう。たとえ数日で奪還されたとしても、『あの強国でさえ都を陥とされた』と脅威を諸国に植え付ける狙いがあるのでしょう」
巨人は両掌を波濤のように擦り合わせている。落ち着きのない人だ、子供みたいだ、とサキは評価する。父上に似たところがあるかもしれない。子供じみたこだわり、わがままを捨てないまま体だけ膨らんだ不格好な塊。
「その通りだとしたら、どうされるおつもりですか」
「どうもしません」
は?
さっきから、ほとんど口を挟まない他の委員がサキには不愉快だった。重大な間違いを見過ごして計算を続ける生徒を観察するかのように、マリオンは薄笑いを堪え、イオナはむっつりと押し黙り、ゼマンコヴァは物憂げに目を伏せている。
「どうもしません、というのは……」
「どうしようもないのです。ただこの王都を、蹂躙されるに任せる他にございません。とはいえ今なら逃げることは可能ですから、官界や商業組合に声をかけ、優先的に避難させるべき人材を選り抜かせております」
随分と諦めが早いな、とサキは訝しむ。少なくともグリムやイオナのような強面は徹底抗戦を唱えそうなものなのに。
それに、そういう対応でいいなら、どうして自分がわざわざ呼ばれたのだろう?
「すでに状況を察した市民もいるようです。間もなくこぞって退去を始めるでしょう。しかし手ぶらで逃げ出すならともかく、家財道具を運び出すには荷車等が足りません。馬車の類も確保できなければ徒歩で逃げるしかないでしょうが、それでは敵軍の包囲に引っかかるやもしれません。遺憾ながら、市民の何割かは――嬲り殺しの憂き目に遭うことでしょうな」
凄惨な予想を巨人は平然と告げた。
「それで、いいのですか?」
何か理不尽で、恐ろしい何かを予感したが、サキは尋ねずにいられない。
「実のところ、よくはないのです。革命思想は、我が国にも流し込まれております。育ちかけの腫瘍にすぎないもので、革命軍とも細糸の繋がり程度のささやかさですが、我々が民衆を半ば見捨てたと知れば、怒りと共に膨れ上がり、この国を喰い破るかもしれません。フランスでも革命が支配者側に牙を向いたのは、ルイ十六世一家が国外逃亡を図ったためと聞き及んでおります」
足元に、奈落への穴が開いたことをサキは悟った。
……いや、脅えすぎるな。そんな話はあり得ない。まだ君主の座に就いて一ヶ月も経っていない人間に、そんなのはあまりにも酷過ぎるじゃないか。
しかし巨人の口から、魔物のような犬歯がぎらりと覗いた。
「そこで殿下には――民衆を率い、革命軍の進行を食い止めていただきたいのです」
ひどすぎる。