黒繭家
文字数 4,494文字
「あの梯子はなんだ」
マリオンが喚いている。
「登っていったのは誰だ!中はどうなっている?」
何者かが梯子をかけて城内に侵入したという報告を受けて、カザルスはマリオン、イオナと共に窓の下にやってきた。近くにいた兵士によると、摂政殿下が構わなくていいと請け負ったらしい。
「誰かが殿下に加勢したのか」
マリオンが拳を震わせる。
「止むをえん。こちらも兵士を突入させろ」
「随分立派な梯子ですな」
聞こえないふりをして、カザルスは梯子を眺めた。日没に照らされてわかりにくいが、金メッキが施されているようだ。金箔の梯子なんて何の役に立つのだろう?式典、あるいは演劇……答えを探すうちに、カザルスは摂政殿下の、あるいは黒繭家の目論見を悟った。
「……なかなか面白いことを考えつきますな」
「何だ、何か始まるのか」
要領を得ない様子のマリオンに、カザルスは梯子の上を指さして示した。
「見ていればわかります。ほら」
文句を言いかけた様子のマリオンだったが、すぐに口をつぐんだ。
梯子の上に、太陽が現れたのだ。
本物ではない。本物は地平線に沈みかけている。精巧な模型か、騙し絵かも判別できないが、偽物の太陽が金の梯子の上で輝いている。
離れた位置にいる見物客たちも気付いたようだ。屋台を離れ、太陽の近くに集まってくる。
どよめきが上がる。
太陽が、三つに分かれたのだ。赤、青、黄色。梯子から離れ、ゆっくりと地面に下降してくる。着地の寸前、太陽は消えて、羽付きの妖精が三匹現れた。
直後、本物の太陽は地に沈み、周囲は深い藍色に包まれた。
一泊置いて、光の弾が地平から打ち上がる。空に咲いた花火に、群衆が歓声を上げる。光に照らされた妖精はそれぞれ太鼓、クラリネット、リュートを携えていた。リュートの妖精がリード役になって、演奏が始まった。
「なかなかの腕前だ」
イオナが賞賛する。
余韻を残さない、あっさりした演奏だった。静寂が訪れた直後、妖精たちの周囲に炎が生まれ、回転を始めた。夜に同化するような衣装をまとった黒子たちが、松明を手に走り回っているのだ。炎が途切れたとき、現れたのは、一人の美しい少女だった。服装は簡素だが、万人が美を認めざるを得ないような整った顔立ち。
「あれは殿下の姉君ではないか」
マリオンが指を上げて言う。
「カザルス、先程言ったな?黒繭を過小評価すべきではないと。何を始めるつもりなのだ?」
カザルスは返事をせず、ただ溜息をついた。彼にとって楽しい遊びの時間が、とうとう終わりを告げたのだ。
闇からはみ出した黒子が少女に拡声器を手渡した。少女の優美な印象を損ねない、百合の花弁を模した銀の拡声器だ。
「我が黒繭家は、数百年に渡って演劇『決闘の王子』を提供して参りました」
自己紹介すら省き、語り始める。少女の容姿と言葉には、有無を言わさず余人を引きつける魅力が備わっているようだ。
「『決闘の王子』の主人公は、当家の祖先である異邦の王子です。彼の側には護衛であり助言者でもあり友でもあった怪人、『孔雀男』が常に付き添っていたと伝えられています。この怪人に関して、みなさまは次のようにお考えでしょう。『孔雀と人間が混ざった怪人なんて、現実にはあり得ない存在だ。王子が実在したとしても、怪人の方は後世の創作にすぎないものだろう』と」
賛同を求めるように、少女は沈黙を挿む。すでに屋台が並んでいた区域は無人となり、人々は少女の周辺に集まっていた。
「それはある意味では正しく、ある意味では間違った認識です。孔雀男はたしかに存在していました。実体ではなく、ある種の概念として」
ざわめきが起こる。「あるしゅのがいねん? わからん」「おら、むずかしいことばはさっぱりだ」「いないの?いたの?」
「いるよ!くじゃくおとこはいるもん!」と顔を真っ赤にする子供も混ざっていた。
「国家には警察権というものが備わっています」
少女は説明を再開する。
「犯罪を捜査し、犯人を捕縛する権限です。本来は国家のみに与えられた役割ですが、当家はこの警察権を補完する権限を持っています」
顔を見合わせるマリオンとイオナを見て、カザルスは苦笑を漏らす。誰一人として、そんな話は聞いたことがないだろう。
「わかりやすく説明しますと、通常の警察権が働かない場合、あてにならない場合、今一歩で核心に届かない場合などに手助けしてさしあげる権利です。そのための人員も、当家に配備されています。人数は少ないものの、いずれも常人を凌ぐ洞察力、発想力、創造性に恵まれた秀才の集まりです。この集団のことを――」
拡声器から、五割増しの音量が放たれた。
「当家では『孔雀男』と呼んでいるのです」
先ほどよりも大きなざわめきが巻き起こった。孔雀男は実在した。個人ではなく集団として―――
「今回の議長殺害事件は、『孔雀男』たちにお誂え向きの犯罪でした。常識破りで、大がかりで、謎に包まれている。ですから平時の警察機構の手には負えず、宮廷軍事評議会の面々や、私の弟である摂政が乗り出す事態となったものの、全貌を把握するまでには至りませんでした。けれども『孔雀男』は謎の解明に成功したのです。たった今から、犯人の名前をお伝えします」
「やめさせろ!」
顔面蒼白となったマリオンが、近くの兵士に命じる。しかし兵士が駆けつける前に、少女は闇へと紛れた。
「お父様には『孔雀男』を呼び出していただきたいのです」
前々日、ニコラは父親に要求していた。
「議長閣下を殺害したのが誰なのかを私は知っています。けれども無位無冠の私がそれを告げたところで、民衆は信じてくれないかもしれません。民衆に信頼されているサキの言葉だったら聞いてもらえるでしょうが、あの子が離れた場所にいるような状況で犯人を告発しなければ民衆が収まらないような事態が発生するかもしれません。その場合、サキの代わりに説明できるのは」
意図を計りかねている風の黒繭家当主に、ニコラは声を大きくする。
「孔雀男しか考えられません。民衆は、ある部分でサキを『決闘の王子』と同一視しはじめています。それらしい理屈を並べれば、孔雀男も実在するものだと信じ込むはず。ですから用意していただきたいのです。民衆の求める、民衆の信じる、本物の孔雀男を」
「……面白そうな話だな」
父親の眼に浮かんだ興味の色を見て取って、ニコラは安心した。決闘の王子に関わることで、乗り気になった父親ほど信頼できるものはない。
「私は、父も祖父も多分同じだったが……家業を幻想の世界に足を突っ込んだものと見なしていた。民草の心を慰めるには有益にせよ、それ以上の効用など期待してはいなかった。しかし、できるかもしれん。幻で、現実に一太刀浴びせることも」
呟いた後、瞠目したまま固まっている。集中する際の仕草だった。
「俳優を確保しておく必要がありますね。いつ訪れるかはっきりしない危機のために、ずっと待機してもらうのは少々、気の毒ですが」
「いや」
眼を瞑り、父親は肩をいからせた。妙案を思いついた仕草だ。
「俳優は使わん」
カザルスは歌を聴いている。闇にまぎれた黒子の合唱だ。ソプラノ、バリトン、見事に唱和している。
あれは闇かな あれは雲かな
あれは邪悪か あれは病か
悲しみの時代 怯えの世界
それでも我らは此処に立つ
かけらの望みを胸に秘め
よろめきつつも進むとき
願いを受け止め 舞い降りる
神のかけらが 舞い降りる
過ちの糸を断つ男
炎の正義を持つ男
孔雀男 孔雀男 じゃくおとこ
おや、とカザルスは意外に思った。劇場なら、この歌の一番が終わった時点で怪人が姿を見せるはずだ。ところが少女が消えただけで、後は誰もいない。
闇の中に歌が繰り返されるだけだった。
あれは絶望 あれは悲惨
あれは失意 あれは陰鬱
夜明けは遠く吉兆も彼方
苦痛に汚れ 幻滅に錆びれ
荒野に救いを叫ぶとき
鋼の護りが舞い降りる
不断の意志を持つ男
孔雀男 じゃくおとこ
二番に入ってしまった、とカザルスはますます腑に落ちない。一番の終わりで孔雀男を登場させるべきだったろうに。どんなに豪華な衣装で、どれだけの名優を当てはめたか知らないが、盛り上がりを間違えているのではないだろうか。
あれは虫かな あれは芥か
あれは棒きれ 僕は石ころ
無限の回廊 果てなき地平
探求に疲れ 前進に倦み
踏み出す足を躊躇ったとき
援けの翼が舞い降りる
星の光で導く男
孔雀男 じゃくおとこ
三番に入った。カザルスは異変に気付く。一番に比べて、拍子が早くなっている。黒繭劇場の声楽家なら、調子を崩すことなど考えられない失敗だ。これは意図的に乱している。目論見があってしていることだ。
あれは愛かな あれは恋かな
四番。
あれは翼か あれは未来か
五番。
あれは孤独か あれは竜か
罪の牡牛か 大赦の鷲か
六番、七番、八番、九番……
夜の帳を裁ち切る男
時の寄生樹を枯らす男
黄金の蠅を飼い慣らす男
宝石の蜜を飲み干す男
孔雀男、じゃくおとこ、じゃく、くじゃく、じゃじゃじゃじゃく――――
「遊星奏法だ」
イオナが耳を手で覆う。
「なに、なんだって」
わけがわからない様子のマリオンも、同じ仕草をとった。
「呪術師の類が民衆を惑わせるのに多用したとされる音のペテンです。流行歌を何度も繰り返す。少しだけ、すこしずつ歌の一部をずらします。歌詞を削ったり、楽器を省いたり……聞き続けるうちに、聴衆の中に渇望のようなものが育ち始める。いつもの歌と違う、いつもの曲が聞きたい、という感じにです。飢餓感が極まったところで、無音にすると、聞こえるんですよ。頭の中に、ないはずの音楽が」
「それが、この場合、何に役立つというのだ?」
がなり立てるマリオンが硬直した。さっきまで少女とピエロがいた空間に、まぜこぜの色が浮かび上がっている。色染めのレンズに、松明の光を通しているのだろうか。暗闇に浮かび上がる、巨大なパレットだ。橙、赤、薄黄色、緑青――その配色にカザルスは見覚えがあった。この色は、演劇「決闘の王子」で多用される書割、模様を思わせる組み合わせだ。
パレットが膨らんだ。いばら荘の影、群衆が立つ地面、カザルスたちのいる天幕まで、色の洪水が押し寄せる。
音楽を繰り返し、色をあふれさせ、肝心の演劇は始まらず、役者も現れない。これがイオナの言う遊星奏法とやらの応用だとしたら、すべてを無にしたとき現れるのは。
「止めろ!」
マリオンが叫ぶ。カザルスと同時に察したらしい。
「誰でもいいからこれを止めさせろ。このままでは……」
手遅れだった。その瞬間が最高潮で、音も、光も零に還った。
静寂の中、人々は孔雀男を幻視した。
マリオンが喚いている。
「登っていったのは誰だ!中はどうなっている?」
何者かが梯子をかけて城内に侵入したという報告を受けて、カザルスはマリオン、イオナと共に窓の下にやってきた。近くにいた兵士によると、摂政殿下が構わなくていいと請け負ったらしい。
「誰かが殿下に加勢したのか」
マリオンが拳を震わせる。
「止むをえん。こちらも兵士を突入させろ」
「随分立派な梯子ですな」
聞こえないふりをして、カザルスは梯子を眺めた。日没に照らされてわかりにくいが、金メッキが施されているようだ。金箔の梯子なんて何の役に立つのだろう?式典、あるいは演劇……答えを探すうちに、カザルスは摂政殿下の、あるいは黒繭家の目論見を悟った。
「……なかなか面白いことを考えつきますな」
「何だ、何か始まるのか」
要領を得ない様子のマリオンに、カザルスは梯子の上を指さして示した。
「見ていればわかります。ほら」
文句を言いかけた様子のマリオンだったが、すぐに口をつぐんだ。
梯子の上に、太陽が現れたのだ。
本物ではない。本物は地平線に沈みかけている。精巧な模型か、騙し絵かも判別できないが、偽物の太陽が金の梯子の上で輝いている。
離れた位置にいる見物客たちも気付いたようだ。屋台を離れ、太陽の近くに集まってくる。
どよめきが上がる。
太陽が、三つに分かれたのだ。赤、青、黄色。梯子から離れ、ゆっくりと地面に下降してくる。着地の寸前、太陽は消えて、羽付きの妖精が三匹現れた。
直後、本物の太陽は地に沈み、周囲は深い藍色に包まれた。
一泊置いて、光の弾が地平から打ち上がる。空に咲いた花火に、群衆が歓声を上げる。光に照らされた妖精はそれぞれ太鼓、クラリネット、リュートを携えていた。リュートの妖精がリード役になって、演奏が始まった。
「なかなかの腕前だ」
イオナが賞賛する。
余韻を残さない、あっさりした演奏だった。静寂が訪れた直後、妖精たちの周囲に炎が生まれ、回転を始めた。夜に同化するような衣装をまとった黒子たちが、松明を手に走り回っているのだ。炎が途切れたとき、現れたのは、一人の美しい少女だった。服装は簡素だが、万人が美を認めざるを得ないような整った顔立ち。
「あれは殿下の姉君ではないか」
マリオンが指を上げて言う。
「カザルス、先程言ったな?黒繭を過小評価すべきではないと。何を始めるつもりなのだ?」
カザルスは返事をせず、ただ溜息をついた。彼にとって楽しい遊びの時間が、とうとう終わりを告げたのだ。
闇からはみ出した黒子が少女に拡声器を手渡した。少女の優美な印象を損ねない、百合の花弁を模した銀の拡声器だ。
「我が黒繭家は、数百年に渡って演劇『決闘の王子』を提供して参りました」
自己紹介すら省き、語り始める。少女の容姿と言葉には、有無を言わさず余人を引きつける魅力が備わっているようだ。
「『決闘の王子』の主人公は、当家の祖先である異邦の王子です。彼の側には護衛であり助言者でもあり友でもあった怪人、『孔雀男』が常に付き添っていたと伝えられています。この怪人に関して、みなさまは次のようにお考えでしょう。『孔雀と人間が混ざった怪人なんて、現実にはあり得ない存在だ。王子が実在したとしても、怪人の方は後世の創作にすぎないものだろう』と」
賛同を求めるように、少女は沈黙を挿む。すでに屋台が並んでいた区域は無人となり、人々は少女の周辺に集まっていた。
「それはある意味では正しく、ある意味では間違った認識です。孔雀男はたしかに存在していました。実体ではなく、ある種の概念として」
ざわめきが起こる。「あるしゅのがいねん? わからん」「おら、むずかしいことばはさっぱりだ」「いないの?いたの?」
「いるよ!くじゃくおとこはいるもん!」と顔を真っ赤にする子供も混ざっていた。
「国家には警察権というものが備わっています」
少女は説明を再開する。
「犯罪を捜査し、犯人を捕縛する権限です。本来は国家のみに与えられた役割ですが、当家はこの警察権を補完する権限を持っています」
顔を見合わせるマリオンとイオナを見て、カザルスは苦笑を漏らす。誰一人として、そんな話は聞いたことがないだろう。
「わかりやすく説明しますと、通常の警察権が働かない場合、あてにならない場合、今一歩で核心に届かない場合などに手助けしてさしあげる権利です。そのための人員も、当家に配備されています。人数は少ないものの、いずれも常人を凌ぐ洞察力、発想力、創造性に恵まれた秀才の集まりです。この集団のことを――」
拡声器から、五割増しの音量が放たれた。
「当家では『孔雀男』と呼んでいるのです」
先ほどよりも大きなざわめきが巻き起こった。孔雀男は実在した。個人ではなく集団として―――
「今回の議長殺害事件は、『孔雀男』たちにお誂え向きの犯罪でした。常識破りで、大がかりで、謎に包まれている。ですから平時の警察機構の手には負えず、宮廷軍事評議会の面々や、私の弟である摂政が乗り出す事態となったものの、全貌を把握するまでには至りませんでした。けれども『孔雀男』は謎の解明に成功したのです。たった今から、犯人の名前をお伝えします」
「やめさせろ!」
顔面蒼白となったマリオンが、近くの兵士に命じる。しかし兵士が駆けつける前に、少女は闇へと紛れた。
「お父様には『孔雀男』を呼び出していただきたいのです」
前々日、ニコラは父親に要求していた。
「議長閣下を殺害したのが誰なのかを私は知っています。けれども無位無冠の私がそれを告げたところで、民衆は信じてくれないかもしれません。民衆に信頼されているサキの言葉だったら聞いてもらえるでしょうが、あの子が離れた場所にいるような状況で犯人を告発しなければ民衆が収まらないような事態が発生するかもしれません。その場合、サキの代わりに説明できるのは」
意図を計りかねている風の黒繭家当主に、ニコラは声を大きくする。
「孔雀男しか考えられません。民衆は、ある部分でサキを『決闘の王子』と同一視しはじめています。それらしい理屈を並べれば、孔雀男も実在するものだと信じ込むはず。ですから用意していただきたいのです。民衆の求める、民衆の信じる、本物の孔雀男を」
「……面白そうな話だな」
父親の眼に浮かんだ興味の色を見て取って、ニコラは安心した。決闘の王子に関わることで、乗り気になった父親ほど信頼できるものはない。
「私は、父も祖父も多分同じだったが……家業を幻想の世界に足を突っ込んだものと見なしていた。民草の心を慰めるには有益にせよ、それ以上の効用など期待してはいなかった。しかし、できるかもしれん。幻で、現実に一太刀浴びせることも」
呟いた後、瞠目したまま固まっている。集中する際の仕草だった。
「俳優を確保しておく必要がありますね。いつ訪れるかはっきりしない危機のために、ずっと待機してもらうのは少々、気の毒ですが」
「いや」
眼を瞑り、父親は肩をいからせた。妙案を思いついた仕草だ。
「俳優は使わん」
カザルスは歌を聴いている。闇にまぎれた黒子の合唱だ。ソプラノ、バリトン、見事に唱和している。
あれは闇かな あれは雲かな
あれは邪悪か あれは病か
悲しみの時代 怯えの世界
それでも我らは此処に立つ
かけらの望みを胸に秘め
よろめきつつも進むとき
願いを受け止め 舞い降りる
神のかけらが 舞い降りる
過ちの糸を断つ男
炎の正義を持つ男
孔雀男 孔雀男 じゃくおとこ
おや、とカザルスは意外に思った。劇場なら、この歌の一番が終わった時点で怪人が姿を見せるはずだ。ところが少女が消えただけで、後は誰もいない。
闇の中に歌が繰り返されるだけだった。
あれは絶望 あれは悲惨
あれは失意 あれは陰鬱
夜明けは遠く吉兆も彼方
苦痛に汚れ 幻滅に錆びれ
荒野に救いを叫ぶとき
鋼の護りが舞い降りる
不断の意志を持つ男
孔雀男 じゃくおとこ
二番に入ってしまった、とカザルスはますます腑に落ちない。一番の終わりで孔雀男を登場させるべきだったろうに。どんなに豪華な衣装で、どれだけの名優を当てはめたか知らないが、盛り上がりを間違えているのではないだろうか。
あれは虫かな あれは芥か
あれは棒きれ 僕は石ころ
無限の回廊 果てなき地平
探求に疲れ 前進に倦み
踏み出す足を躊躇ったとき
援けの翼が舞い降りる
星の光で導く男
孔雀男 じゃくおとこ
三番に入った。カザルスは異変に気付く。一番に比べて、拍子が早くなっている。黒繭劇場の声楽家なら、調子を崩すことなど考えられない失敗だ。これは意図的に乱している。目論見があってしていることだ。
あれは愛かな あれは恋かな
四番。
あれは翼か あれは未来か
五番。
あれは孤独か あれは竜か
罪の牡牛か 大赦の鷲か
六番、七番、八番、九番……
夜の帳を裁ち切る男
時の寄生樹を枯らす男
黄金の蠅を飼い慣らす男
宝石の蜜を飲み干す男
孔雀男、じゃくおとこ、じゃく、くじゃく、じゃじゃじゃじゃく――――
「遊星奏法だ」
イオナが耳を手で覆う。
「なに、なんだって」
わけがわからない様子のマリオンも、同じ仕草をとった。
「呪術師の類が民衆を惑わせるのに多用したとされる音のペテンです。流行歌を何度も繰り返す。少しだけ、すこしずつ歌の一部をずらします。歌詞を削ったり、楽器を省いたり……聞き続けるうちに、聴衆の中に渇望のようなものが育ち始める。いつもの歌と違う、いつもの曲が聞きたい、という感じにです。飢餓感が極まったところで、無音にすると、聞こえるんですよ。頭の中に、ないはずの音楽が」
「それが、この場合、何に役立つというのだ?」
がなり立てるマリオンが硬直した。さっきまで少女とピエロがいた空間に、まぜこぜの色が浮かび上がっている。色染めのレンズに、松明の光を通しているのだろうか。暗闇に浮かび上がる、巨大なパレットだ。橙、赤、薄黄色、緑青――その配色にカザルスは見覚えがあった。この色は、演劇「決闘の王子」で多用される書割、模様を思わせる組み合わせだ。
パレットが膨らんだ。いばら荘の影、群衆が立つ地面、カザルスたちのいる天幕まで、色の洪水が押し寄せる。
音楽を繰り返し、色をあふれさせ、肝心の演劇は始まらず、役者も現れない。これがイオナの言う遊星奏法とやらの応用だとしたら、すべてを無にしたとき現れるのは。
「止めろ!」
マリオンが叫ぶ。カザルスと同時に察したらしい。
「誰でもいいからこれを止めさせろ。このままでは……」
手遅れだった。その瞬間が最高潮で、音も、光も零に還った。
静寂の中、人々は孔雀男を幻視した。