新たな難題
文字数 4,048文字
「頑張ったわね。私の宝物!」
甘い香水がサキを抱きしめる。炎のような赤毛、女性にしては大きく、力強い手のひら。軽やかに響くソプラノ。
平素からサキが苦手にしている諸要素だ。
侯爵邸に、母、クロアが戻ったのだ。
母ほど赤が似合う人はいない、とサキは常々思う。自信に満ちた瞳、ぴんと張りつめた背中、玄人はだしの歌声が想起させるのは、直情の色だ。
昼下がりの陽光を浴びる母の足下には、荒縄でぐるぐる巻きにされた夫ーーー黒繭家当主が横たわっていた。
「しょうがない人ね、まさか息子を生け贄に差し出すなんて! 」
ずぶり。ブーツの先で、横腹をつつく。侯爵は軽く呻いた。反省しなさい、ともう一度、こつり。星形の拍車が光るお気に入りのブーツは、黒繭家の北方領地に住む遊牧民族から譲り受けたもの。母にはその地の風土が肌に合うらしく、年に四分の一は彼らとともに羊を追いかけている。
「私は」
侯爵が弁解の言葉を吐く。
「この家を守りたかっただけだ。『決闘の王子』は我が家の伝統そのものなのだから。芝居の存続は何よりも優先されるべきなのだ」
「筋は通ってますわね」
母は膝を折り、夫を見下ろす。
「だから息子と引き替えにしてまで、お芝居の人たちをお守りになったのね。けれども私にとって、『家』の主成分は家族です。伝統も芸術も、引き継ぐ子供たちがいなければ意味を成しません」
立ち上がる。美しい姿勢には迷いが見えない。
「だから事の次第を聞いた後、たまたま手元にあった荷造りの紐をあなたに使うのも、私なりに筋が通ったふるまいですのよ。納得されまして?」
「……」
黒繭家当主は諦め顔で、何も言わない。
「それにしても、サキ! 」
母は息子に向き直り、頭を下げた。
「あなたに謝らなくてはいけないわ。旅先で、前線に立った少年摂政の話を最初にきいたとき、同姓同名の別人だと決めつけたくらいです。まさか貴方に、そこまでの意志と誠実さが備わっていたなんて!本当にごめんなさい。これからはあなたのこと、私のお腹に前向きさと勇気を忘れてきたのじゃないかしらなんて不思議がったりはしないわ」
(そんな風に思ってたのか……)
サキは笑えない。玉座へ誘われた時点で、この母親がケインに残っていたらどうなっていただろうか。母なら自分を殴り倒してでも、カザルスの提案には乗らせなかったかもしれない。しかし引き受けた後で逃げ出そうとしたならば、父親と同じ目に遭っていただろう。
公平な人だ。そのまっすぐさが羨ましく、時々、疎ましい。
アーカベルグの戦いから2週間余り。サキは侯爵邸に戻り無為な毎日を過ごしていた。結局、摂政府にいた期間は一ヶ月に満たなかった。書類の山に耽溺した数週間、戦場でふるえた数日間。どちらも夢のようだ。
母親が縛ったままの当主を屋敷の奥へ連れて行った後、サキはきまぐれに庭を眺めたくなり、バルコニーへ出た。先客が居る。ニコラが椅子に腰掛けて本を読んでいた。
霜の庭園に、サキは白い息を吐きかける。
「母上は苦手です」
サキがこぼすと、ニコラは頭一つ分だけ近寄る。同意はしないが聞くだけ聞いてあげます、という仕草だ。
「あの人が近くにいると、暖かい気持ちになって、前向きに生きてみようかなって思えてくるんです」
「……それは大好きなのでは?」
指摘に、答えられない。無難に育てられた子供なら、親を愛するのは自然なことだろう。しかし母上はいいとして、父上は?
「父上のことも、憎みすぎるのはいけませんよ」
先回りされた。
「父上だって、わたしたちがどうでもいいわけではないはずです。愛してくださっています。お芝居と秤にかけて、負ける程度には」
「それは、あまりうれしくないのでは……」
サキはバルコニーの手すりに指をかけるが、冷たさにたちまち引っ込めた。
「ないよりましなだけじゃないですか」
「そうですよ。お腹が空いているとき、量に文句をいいますか」
読書家の割に、姉の喩えは身も蓋もない。
「満ち足りたものしか受け付けないという考えは、愚かで傲慢ですよ」
「正しいとは思いますけどね……」
サキは庭先に手を伸ばす。ちらほら舞い始めた白い結晶には、届きそうで届かない。
「これからどうしますか」
姉が突然、話題を変えた。
「どうにもできませんよ」
サキはすっかり弱気になっている。
「どうせグリムやカザルスなんかが色々決めて、それに従うしかないんでしょう」
「捨て鉢になってはいけません」
ニコラは指先を弟に突きつける。
「君主の座に就いて権力をほしいままにする、という当初の目標ほどではないにせよ、今回頑張ったおかげで、あなたはそれなりに民の信望を得ています。評議会の人たちはあなたを警戒しているはずです。戦争の前より、ずっとです」
「ずっと」
サキは姿勢を正して姉を見た。その瞳に映る自分の姿は、額の傷ーーもう包帯も必要ないくらい癒えたーーーを除いて、一ヶ月前と変わらない。しかしその傷跡こそが、案外意味を持ってくるのかもしれなかった。
現在もサキは摂政の地位に留まっている。
評議会にとって自分の存在が邪魔になったなら、何らかの手段で引きずり下ろしにかかってくるだろう。逆に便利な駒と見なされたならば、即位を薦めてくるはずだ。
「とりあえずの方針は」
おそるおそると、サキは傷を撫でる。
「カザルスや評議会が何かを言ってきても、簡単には乗らないで、じっくり思案にふけります。今度は、姉上や母上にもきちんと相談します……父上にも」
「それがいいでしょうね」真似をしたいのか、姉もサキと同じように頭を触った。
「とは言え個人的には、カザルスにも評議会の連中にも、二度と会いたくないですけど」 サキがこぼすと、ニコラも頷いた。
「わたしもですよ。お会いしたら腐った果実を投げつけてしまうかもしれません」
姉なら、やりかねない。果物と聞いて、サキの視線は反射的に植物を探した。庭園の奥は常緑樹が列を成している。樹皮のこすれる音に目を留めると、切れ間から軍服が姿を現した。こちらへ歩いてくる。カザルスだ。
「……」
サキは姉としかめ面を見合わせる。姉は何かを握りたそうに片手を開閉させるが、残念ながら、この場に腐った果実はない。
「お久しぶりです、殿下!お怪我の具合はいかがですかな?」
陽気に声を張り上げ、カザルスは手を振った。負傷について訊いているにも関わらず、「ああ、負傷のことなんてどうでもいいんだな」と確信させるような軽薄な響きだった。
「お宅は、まるで迷路ですな」
バルコニーの下までやってきた。
「いや失礼、急を要する用件のため伺ったのですが、あのフランケンとかいう準尉ーーー執事に門前払いを喰らいまして。非礼ながら無断で立ち入らせていただきました」
「弟は、いません」
不機嫌を隠さない顔で、ニコラは言った。
「公女殿下、隣にいらっしゃるのはどなたですか」
律儀にカザルスは指摘する。サキも姉と同じ表情を作り、
「僕はいません」
「殿下、冗談が通じる状況ではないのです」
カザルスは指を振り子にした。
「国家が再び危難に見舞われようとしています。是非ともお力添えを願いたい」
「お前、ばかじゃないの」
怒りをたぎらせ、サキはなじった。
「なにをした?この一ヶ月、ぼくになにをした?言いくるめて死ぬような思いをさせて、用が済んだら安物の玩具同然に打ち捨てておいて!
「ふうむ」
カザルスは眉根をわずかに寄せた。
「たしかに我々は、殿下をだまくらかして利用しました」
「少しは建前で包めよっ!」
「しかしですな、この一ヶ月、まったく得るものがなかったとまでは仰りますまい。名声、権威、忠誠……容易には手に入らない宝石も転がり来たはずです」
ニコラと同じ見解を、カザルスは口にした。
「今それらが、水泡に帰すかもしれないのです」
真顔で肩をすくめ、あごで促す。
「どうか助力をお願いしたい。殿下ご自身の利益にも繋がることなのです」
気配を感じてサキが振り向くと、音もなく現れたフランケンが、姉に耳打ちしているところだった。
「サキ」
無念そうに、ニコラは首を振る。
「行くべきです」
「何かあったんですか」
「将軍が来ていること、母上に気づかれました」
カザルスを一瞥した後小声で、
「今、銃を探しているそうです」
「……」
あの母だ。撃つと決めたら、撃つだろう。その結果面倒な事態に発展することも承知の上で、撃つだろう。
「カザルス、お前一人で来ちゃいないよな」
「裏手にフェルミ大佐を待たせておりますが?」
聞こえていなかったのか、少将の返答は暢気そのものだった。
「じゃあダメだ。死体を隠せない……」
「はい?」
「いくよ……行けばいいんだろう。どこだか、何だか知らないけれど」
「ご安心を。地獄の果てへお連れするわけではございません。目と鼻の先のデジレですので」
デジレは王都の北西に広がる果樹園地帯だ。
デジレ街道を馬車で飛ばせば三時間ほどでたどり着くだろうけれど、距離の問題ではない。ここから三十分のアーカベルグで、サキはえらい目に遭わされたのだから。
とはいえ、母親の銃が人を殺すのも見たくない。
サキは観念してバルコニーの横手へ向かう。そこから林へ階段が伸びている。
「私も同行します」
仕事の速いフランケンに外套をまとわせながら姉が言った。
「明日までに帰らなかったら、街中に触れ回りなさい。殺されたに違いないと。評議会の差し金だと」
「悲しいですな。全く信用されていない!」
頭を叩いてカザルスが笑う。悲しいと口にしながら、「ああ、全然悲しくないんだな」とはっきり分かる口振りだ。
サキは強く誓った。今度はもう、騙されないぞ。絶対騙されないぞ。
しかし騙されるのだった。
甘い香水がサキを抱きしめる。炎のような赤毛、女性にしては大きく、力強い手のひら。軽やかに響くソプラノ。
平素からサキが苦手にしている諸要素だ。
侯爵邸に、母、クロアが戻ったのだ。
母ほど赤が似合う人はいない、とサキは常々思う。自信に満ちた瞳、ぴんと張りつめた背中、玄人はだしの歌声が想起させるのは、直情の色だ。
昼下がりの陽光を浴びる母の足下には、荒縄でぐるぐる巻きにされた夫ーーー黒繭家当主が横たわっていた。
「しょうがない人ね、まさか息子を生け贄に差し出すなんて! 」
ずぶり。ブーツの先で、横腹をつつく。侯爵は軽く呻いた。反省しなさい、ともう一度、こつり。星形の拍車が光るお気に入りのブーツは、黒繭家の北方領地に住む遊牧民族から譲り受けたもの。母にはその地の風土が肌に合うらしく、年に四分の一は彼らとともに羊を追いかけている。
「私は」
侯爵が弁解の言葉を吐く。
「この家を守りたかっただけだ。『決闘の王子』は我が家の伝統そのものなのだから。芝居の存続は何よりも優先されるべきなのだ」
「筋は通ってますわね」
母は膝を折り、夫を見下ろす。
「だから息子と引き替えにしてまで、お芝居の人たちをお守りになったのね。けれども私にとって、『家』の主成分は家族です。伝統も芸術も、引き継ぐ子供たちがいなければ意味を成しません」
立ち上がる。美しい姿勢には迷いが見えない。
「だから事の次第を聞いた後、たまたま手元にあった荷造りの紐をあなたに使うのも、私なりに筋が通ったふるまいですのよ。納得されまして?」
「……」
黒繭家当主は諦め顔で、何も言わない。
「それにしても、サキ! 」
母は息子に向き直り、頭を下げた。
「あなたに謝らなくてはいけないわ。旅先で、前線に立った少年摂政の話を最初にきいたとき、同姓同名の別人だと決めつけたくらいです。まさか貴方に、そこまでの意志と誠実さが備わっていたなんて!本当にごめんなさい。これからはあなたのこと、私のお腹に前向きさと勇気を忘れてきたのじゃないかしらなんて不思議がったりはしないわ」
(そんな風に思ってたのか……)
サキは笑えない。玉座へ誘われた時点で、この母親がケインに残っていたらどうなっていただろうか。母なら自分を殴り倒してでも、カザルスの提案には乗らせなかったかもしれない。しかし引き受けた後で逃げ出そうとしたならば、父親と同じ目に遭っていただろう。
公平な人だ。そのまっすぐさが羨ましく、時々、疎ましい。
アーカベルグの戦いから2週間余り。サキは侯爵邸に戻り無為な毎日を過ごしていた。結局、摂政府にいた期間は一ヶ月に満たなかった。書類の山に耽溺した数週間、戦場でふるえた数日間。どちらも夢のようだ。
母親が縛ったままの当主を屋敷の奥へ連れて行った後、サキはきまぐれに庭を眺めたくなり、バルコニーへ出た。先客が居る。ニコラが椅子に腰掛けて本を読んでいた。
霜の庭園に、サキは白い息を吐きかける。
「母上は苦手です」
サキがこぼすと、ニコラは頭一つ分だけ近寄る。同意はしないが聞くだけ聞いてあげます、という仕草だ。
「あの人が近くにいると、暖かい気持ちになって、前向きに生きてみようかなって思えてくるんです」
「……それは大好きなのでは?」
指摘に、答えられない。無難に育てられた子供なら、親を愛するのは自然なことだろう。しかし母上はいいとして、父上は?
「父上のことも、憎みすぎるのはいけませんよ」
先回りされた。
「父上だって、わたしたちがどうでもいいわけではないはずです。愛してくださっています。お芝居と秤にかけて、負ける程度には」
「それは、あまりうれしくないのでは……」
サキはバルコニーの手すりに指をかけるが、冷たさにたちまち引っ込めた。
「ないよりましなだけじゃないですか」
「そうですよ。お腹が空いているとき、量に文句をいいますか」
読書家の割に、姉の喩えは身も蓋もない。
「満ち足りたものしか受け付けないという考えは、愚かで傲慢ですよ」
「正しいとは思いますけどね……」
サキは庭先に手を伸ばす。ちらほら舞い始めた白い結晶には、届きそうで届かない。
「これからどうしますか」
姉が突然、話題を変えた。
「どうにもできませんよ」
サキはすっかり弱気になっている。
「どうせグリムやカザルスなんかが色々決めて、それに従うしかないんでしょう」
「捨て鉢になってはいけません」
ニコラは指先を弟に突きつける。
「君主の座に就いて権力をほしいままにする、という当初の目標ほどではないにせよ、今回頑張ったおかげで、あなたはそれなりに民の信望を得ています。評議会の人たちはあなたを警戒しているはずです。戦争の前より、ずっとです」
「ずっと」
サキは姿勢を正して姉を見た。その瞳に映る自分の姿は、額の傷ーーもう包帯も必要ないくらい癒えたーーーを除いて、一ヶ月前と変わらない。しかしその傷跡こそが、案外意味を持ってくるのかもしれなかった。
現在もサキは摂政の地位に留まっている。
評議会にとって自分の存在が邪魔になったなら、何らかの手段で引きずり下ろしにかかってくるだろう。逆に便利な駒と見なされたならば、即位を薦めてくるはずだ。
「とりあえずの方針は」
おそるおそると、サキは傷を撫でる。
「カザルスや評議会が何かを言ってきても、簡単には乗らないで、じっくり思案にふけります。今度は、姉上や母上にもきちんと相談します……父上にも」
「それがいいでしょうね」真似をしたいのか、姉もサキと同じように頭を触った。
「とは言え個人的には、カザルスにも評議会の連中にも、二度と会いたくないですけど」 サキがこぼすと、ニコラも頷いた。
「わたしもですよ。お会いしたら腐った果実を投げつけてしまうかもしれません」
姉なら、やりかねない。果物と聞いて、サキの視線は反射的に植物を探した。庭園の奥は常緑樹が列を成している。樹皮のこすれる音に目を留めると、切れ間から軍服が姿を現した。こちらへ歩いてくる。カザルスだ。
「……」
サキは姉としかめ面を見合わせる。姉は何かを握りたそうに片手を開閉させるが、残念ながら、この場に腐った果実はない。
「お久しぶりです、殿下!お怪我の具合はいかがですかな?」
陽気に声を張り上げ、カザルスは手を振った。負傷について訊いているにも関わらず、「ああ、負傷のことなんてどうでもいいんだな」と確信させるような軽薄な響きだった。
「お宅は、まるで迷路ですな」
バルコニーの下までやってきた。
「いや失礼、急を要する用件のため伺ったのですが、あのフランケンとかいう準尉ーーー執事に門前払いを喰らいまして。非礼ながら無断で立ち入らせていただきました」
「弟は、いません」
不機嫌を隠さない顔で、ニコラは言った。
「公女殿下、隣にいらっしゃるのはどなたですか」
律儀にカザルスは指摘する。サキも姉と同じ表情を作り、
「僕はいません」
「殿下、冗談が通じる状況ではないのです」
カザルスは指を振り子にした。
「国家が再び危難に見舞われようとしています。是非ともお力添えを願いたい」
「お前、ばかじゃないの」
怒りをたぎらせ、サキはなじった。
「なにをした?この一ヶ月、ぼくになにをした?言いくるめて死ぬような思いをさせて、用が済んだら安物の玩具同然に打ち捨てておいて!
「ふうむ」
カザルスは眉根をわずかに寄せた。
「たしかに我々は、殿下をだまくらかして利用しました」
「少しは建前で包めよっ!」
「しかしですな、この一ヶ月、まったく得るものがなかったとまでは仰りますまい。名声、権威、忠誠……容易には手に入らない宝石も転がり来たはずです」
ニコラと同じ見解を、カザルスは口にした。
「今それらが、水泡に帰すかもしれないのです」
真顔で肩をすくめ、あごで促す。
「どうか助力をお願いしたい。殿下ご自身の利益にも繋がることなのです」
気配を感じてサキが振り向くと、音もなく現れたフランケンが、姉に耳打ちしているところだった。
「サキ」
無念そうに、ニコラは首を振る。
「行くべきです」
「何かあったんですか」
「将軍が来ていること、母上に気づかれました」
カザルスを一瞥した後小声で、
「今、銃を探しているそうです」
「……」
あの母だ。撃つと決めたら、撃つだろう。その結果面倒な事態に発展することも承知の上で、撃つだろう。
「カザルス、お前一人で来ちゃいないよな」
「裏手にフェルミ大佐を待たせておりますが?」
聞こえていなかったのか、少将の返答は暢気そのものだった。
「じゃあダメだ。死体を隠せない……」
「はい?」
「いくよ……行けばいいんだろう。どこだか、何だか知らないけれど」
「ご安心を。地獄の果てへお連れするわけではございません。目と鼻の先のデジレですので」
デジレは王都の北西に広がる果樹園地帯だ。
デジレ街道を馬車で飛ばせば三時間ほどでたどり着くだろうけれど、距離の問題ではない。ここから三十分のアーカベルグで、サキはえらい目に遭わされたのだから。
とはいえ、母親の銃が人を殺すのも見たくない。
サキは観念してバルコニーの横手へ向かう。そこから林へ階段が伸びている。
「私も同行します」
仕事の速いフランケンに外套をまとわせながら姉が言った。
「明日までに帰らなかったら、街中に触れ回りなさい。殺されたに違いないと。評議会の差し金だと」
「悲しいですな。全く信用されていない!」
頭を叩いてカザルスが笑う。悲しいと口にしながら、「ああ、全然悲しくないんだな」とはっきり分かる口振りだ。
サキは強く誓った。今度はもう、騙されないぞ。絶対騙されないぞ。
しかし騙されるのだった。