老僕の教え
文字数 1,539文字
出陣の朝、最悪の気分でサキは目覚めた。
夢心地のまま出かけようと夜更かしするつもりでいたのだが、不覚にも眠り込んでしまったのだ。
五感が不必要なくらいさえ渡り、心臓のとくとくという波をいやでも意識してしまう。今日か明日にも永遠に停止しかねない心臓。
朝食をニコラと二人で済ませる。侯爵は顔を出さなかった。軽目のメニューで済ませた後、自室でフランケンに手伝わせて軍装を支度する。
執事に軍装とは不釣り合いに思えるが、フランケンは侯爵家の使用人の内、唯一の従軍経験者なのだ。
現・侯爵より十歳年長のフランケンは、先代(つまりサキの祖父)がオーストリア継承戦争に従軍した折、敵の弾丸から身を挺して守ったことから気に入られ、以来、二代に渡って執事を務めている。できれば今回も付いて来てほしかったが、すでに老境の執事を、当主でもない自分に付き合わせるのは、流石に気がひけた。
「ぼっちゃまに置かれましては、どうか旦那様を過度にお恨み差し上げることのないよう」
櫛を動かしながら、フランケンは憂いの表情をつくる。
「今度の旦那様のふるまい、確かに誉められたものではございませんでした。あのていたらくをご覧になっては、ぼっちゃまが旦那様をミミズの親類のように思われるのも無理もないことかもしれません」
「…いや、そこまで思ってないから」
「ですがぼっちゃま、世間を見渡しましても志のままに生きられる方は少のうございます。お父上は生まれてこの方、新雪のごとく曇りのない紳士たることを目指して研磨を重ねて来られました。そのご努力とお心意気はああなったところで嘘になるものではございません。ただ人の心というものは、そよかぜ程度のくだらなさでたやすく軋むものなのでございます」
こんなに饒舌なフランケンは初めてだ。サキは、執事やメイドが心の底から主人に信服しているなんて幻想は抱いていなかった。服従は給料の良さからくるものだと思っていた。
けれどもこのフランケンと父親の間には、それだけではない繋がりがあるということか。
「ですからお父上はミミズの親類などではございません。ミミズの親類の、少し上にございます」
「……フランケン、嫌いなのか父上のこと」
無言で老執事は軍服の上衣にブラシをかける。
「おお、それなりにお似合いでいらっしゃいますなぼっちゃま。カカシに着せるより数段
ましでございます」
「僕のことも嫌いだったりするの?」
無言でブラシをかけ続ける。ふと、サキは不自然に気付いた。
「フランケン、この軍服、どこにあったんだ」
「昨夜遅く、評議会よりお贈りいただいた品にございます」
「…そう、ぴったりだね」
軍服のデザインは昨日、グリム以外の評議会委員が身につけていたのと同じ。元帥の軍服から階級章を除いたもので、「元帥より偉い人」のために仕立てられる。そんなものがサキのサイズに合わせて用意されているのはあり得ないことで、今回の色々がある程度想定の範囲内だったことを隠すつもりもないようだ。
「頂上に登ったはずの僕が、使われて死地にやらされる」
サーベルを掲げながらサキは執事に言った。
「権威とか権力とか力とか。何だろうね。そんなの、存在するのかな」
「私めにはご返答しかねます」
フランケンは胸のポケットから小瓶を取り出し、中身を手のひらに垂らす。とろりとした琥珀色の液体を軍服になすりつけると、落ち着きのない新品のてらつきが押さえた輝きに変わった。黒繭家秘伝のつや消しだ。
「ですがぼっちゃま、あなたがこれから歩まれる先は未知の世界にございます。形の上とは言え、ひな鳥が5千の群れの長となる。そこからの景色は格別でございましょう。ならば何かを学べるかもしれませんな」
サキは小さく頷いた。ほんの少し、心が軽くなった。
夢心地のまま出かけようと夜更かしするつもりでいたのだが、不覚にも眠り込んでしまったのだ。
五感が不必要なくらいさえ渡り、心臓のとくとくという波をいやでも意識してしまう。今日か明日にも永遠に停止しかねない心臓。
朝食をニコラと二人で済ませる。侯爵は顔を出さなかった。軽目のメニューで済ませた後、自室でフランケンに手伝わせて軍装を支度する。
執事に軍装とは不釣り合いに思えるが、フランケンは侯爵家の使用人の内、唯一の従軍経験者なのだ。
現・侯爵より十歳年長のフランケンは、先代(つまりサキの祖父)がオーストリア継承戦争に従軍した折、敵の弾丸から身を挺して守ったことから気に入られ、以来、二代に渡って執事を務めている。できれば今回も付いて来てほしかったが、すでに老境の執事を、当主でもない自分に付き合わせるのは、流石に気がひけた。
「ぼっちゃまに置かれましては、どうか旦那様を過度にお恨み差し上げることのないよう」
櫛を動かしながら、フランケンは憂いの表情をつくる。
「今度の旦那様のふるまい、確かに誉められたものではございませんでした。あのていたらくをご覧になっては、ぼっちゃまが旦那様をミミズの親類のように思われるのも無理もないことかもしれません」
「…いや、そこまで思ってないから」
「ですがぼっちゃま、世間を見渡しましても志のままに生きられる方は少のうございます。お父上は生まれてこの方、新雪のごとく曇りのない紳士たることを目指して研磨を重ねて来られました。そのご努力とお心意気はああなったところで嘘になるものではございません。ただ人の心というものは、そよかぜ程度のくだらなさでたやすく軋むものなのでございます」
こんなに饒舌なフランケンは初めてだ。サキは、執事やメイドが心の底から主人に信服しているなんて幻想は抱いていなかった。服従は給料の良さからくるものだと思っていた。
けれどもこのフランケンと父親の間には、それだけではない繋がりがあるということか。
「ですからお父上はミミズの親類などではございません。ミミズの親類の、少し上にございます」
「……フランケン、嫌いなのか父上のこと」
無言で老執事は軍服の上衣にブラシをかける。
「おお、それなりにお似合いでいらっしゃいますなぼっちゃま。カカシに着せるより数段
ましでございます」
「僕のことも嫌いだったりするの?」
無言でブラシをかけ続ける。ふと、サキは不自然に気付いた。
「フランケン、この軍服、どこにあったんだ」
「昨夜遅く、評議会よりお贈りいただいた品にございます」
「…そう、ぴったりだね」
軍服のデザインは昨日、グリム以外の評議会委員が身につけていたのと同じ。元帥の軍服から階級章を除いたもので、「元帥より偉い人」のために仕立てられる。そんなものがサキのサイズに合わせて用意されているのはあり得ないことで、今回の色々がある程度想定の範囲内だったことを隠すつもりもないようだ。
「頂上に登ったはずの僕が、使われて死地にやらされる」
サーベルを掲げながらサキは執事に言った。
「権威とか権力とか力とか。何だろうね。そんなの、存在するのかな」
「私めにはご返答しかねます」
フランケンは胸のポケットから小瓶を取り出し、中身を手のひらに垂らす。とろりとした琥珀色の液体を軍服になすりつけると、落ち着きのない新品のてらつきが押さえた輝きに変わった。黒繭家秘伝のつや消しだ。
「ですがぼっちゃま、あなたがこれから歩まれる先は未知の世界にございます。形の上とは言え、ひな鳥が5千の群れの長となる。そこからの景色は格別でございましょう。ならば何かを学べるかもしれませんな」
サキは小さく頷いた。ほんの少し、心が軽くなった。