権威という刃
文字数 4,800文字
「号外、号外、号外!」
新聞売りが声を荒げている。
通称、「戦車の新聞売り」と呼ばれる彼らは、取材・執筆・印刷・販売の全工程を一人でこなす。大きな荷車を馬に牽かせ、売り物の新聞や活版印刷機といった商売道具と一緒に王都を巡り、号外を売りまくる個人出版社だ。印刷機を搭載した荷車が古代ローマの戦車を連想させるため、いつしかそんな物騒なあだ名が付けられた。
とはいえ一人で新聞業の全てを回すのはあまりに過酷。だから彼らの新聞は定期的に発行されるものではなく、特別な事件が発生した際だけ、庶民の要望に応えるように安値でばらまかれるものだった。
ようするに、大きなゴシップが巻き起こったときに一儲けを企む、ハイエナやシデムシの同類だ。
「号外!号外!」
「大事件大事件!」
「宮廷軍事評議会議長、赤薔薇家グリム閣下が何者かに殺害された!」
「下手人と目される人物は、なんと、アーカゲルグ戦役にも赴いていた、十六歳の女流画家だ!」
「現在、絵描きの少女は宮廷軍事評議会に連行の上、拘禁されている由、動機、議長閣下との関係等は一切不明!続報をまたれよ!」
「大事件 大事件!」
「号外 号外!」
ーーーうるさい。
摂政府の執務室。積み上げた書物をひっくりかえしながら、サキは毒づいた。
喉を枯らすつもりか。こんなところまで声が響いてくる。
今回、サキを取り囲んでいるのはどうでもいい決済文書の束ではない。王国の法律を記した各種法典、解説書の類だ。
過去の判例、国王による裁可の記録--------そうしたものを片っ端から吟味して、王国摂政が、国の機関の決定を覆す方法があるかどうかを探している。
目的はただ一つ。現在サキが行使しうる権限の限りを使用して、カヤを処刑から救うこと。
昨日、いばら荘を訪れたサキは、グリムの死体を最初に見つけたのが他ならぬカヤだったと知らされた。その後、カヤはカザルスたちの手によって拘留施設へ送られた。
厄介なのは、軍事法第三十七条に則り、カヤの処罰を担当するのが裁判官ではなく宮廷軍事評議会に決まっているというところだ。
あの戦役でカヤは従軍画家の身分を得て戦場へ赴いた。その身分は現在も継続しているため、軍属の範疇に含まれてしまうのだ。被害者のグリムも評議会所属である以上、事件は確実に評議会の管轄となる。そして評議会の審判と決定が下った際の運用に、具体的な日数は規定されていない。
つまり、今この瞬間にも、評議会はカヤの処刑を決定するかもしれない。その後、直ちに刑が執行されてもおかしくない状況なのだ。
サキはこの国の法律、各種規定の中から、その決定に待ったをかける何らかの根拠を見つけなければならない。サキも貴族の子弟、家庭教師から国法の運用については一通りの手ほどきは受けていた。しかしまさか、こんな手引き書を読むような感覚で法律をめくる機会が訪れようとは。
「君主になった場合の各種権限の行使方法」なんて便利な本が出版されていたらよかったのに。
空想に逃げ込みそうな心を、サキは懸命に留める。すると法の歴史を記した書物の中に、「君主の権限、その沿革について」という項目を発見した。
君主の権限、その沿革について
王朝の黎明期、国家とは各権力者集団の寄せ集めであった。各民族集団は構成員の人数だけ「旗」という票数を与えられ、集団間で意向が異なった場合、旗の数が多い集団の意向が優先される決まりになっていた。
この旗は基本的に集団に帰属するものであったが、ただ一人、国王には概念上の権利として六百旗が与えられており、危急時に国王が自身の判断のみで全軍を支配することが可能だった。
家庭教師にも、教わった覚えのない内容だった。自分には関係ないことと聞き流していたのかもしれない。期待に胸を膨らませてサキはページをめくる。
君主の権限、その沿革について(2)
この旗は現在でも、各種委員会と国家元首に設定されており、依然、行使が可能である。
ただし近年の国王は大権を振るう判断をよしとはせず、各種委員会は基本的に折衝によって方針の相違を擦り合わせているため、実際にこの制度が使用された例は少ない。あくまで非常時中の非常時に使用する権限と理解されている。
非常時!今こそ非常時だ!少なくとも僕にとっては。サキは興奮しながら法典を手に取った。効力は失われていないがあまり使われる例の少ない法律は、国家古法の項にまとめられている。
国家古法 第九条 非常大権
国家元首たる国王は、各司法・立法・行政機関の決定事項に不服ある場合、これらを覆す権利として概念上の票数六百を有する。
法律の本を読んでいてこんなに興奮するのは初めてだ。サキは宮廷軍事評議会に関する条文を探す。評議会の票数が国王のそれより少なければ、たとえカヤに死刑判決が下ったとしてなお、覆すことが可能になるのだ。
国家古法 第二十六条 軍政非常大権
宮廷軍事評議会は、各司法・立法・行政機関の決定事項に不服ある場合、これらを覆す権利として概念上の票数五百を有する。
「勝ったあ!」
サキは拳を高々と挙げた。これでカヤを救うことができる!
しかし、横目に映ってしまった。国家古法補足一条。
国家古法 補足一条 摂政非常大権
国王不在時の代理君主たる摂政は、各司法・立法・行政機関の決定事項に不服ある場合、これらを覆す権利として概念上の票数三百五十を有する。
「ああああああああ」
サキは本の上に顔面を落とした。
どうしてだよ・・・どうして国王と摂政で票数が違うんだよ・・・
概念上の票数は、国王が一位、宮廷軍事評議会が二位、摂政は三番目。国家古法を何度も読み返したが、この票数を覆す規定は載っていなかった。
「ただいま戻りました」
執務室の扉を開いて、ニコラが入ってきた。
「結果から言うと、芳しい成果は得られませんでした」
「そうですか。結果から言うと、僕も同じです」
サキは本から顔を離す。昨夜、黒繭家にカヤの父親である準男爵が恐慌をきたして飛び込んできた。宮廷軍事評議会より、議長殺害犯人として娘を拘留するとの通達が届いたため、力添えを頼みに訪れたのだ。ちょうど同時刻にサキたちがデジレから帰ってきたため、準男爵たちも逮捕に至る経緯を知ることができた。
一週間前、カヤは日帰りの予定でデジレに出かけたが、その日遅くに一週間ほどいばら荘に滞在すると便りをよこしたという。この少女の場合、描きたいものがあればどこへでも出かけ気が済むまで帰らないこともしょっちゅうだったため、その時点では不審には思わなかったとの話だった。おそらくバンドがカヤに薦めて手紙を書かせたのだろう。
昨夜から今に至るまで、侯爵と準男爵はそれぞれの持つコネクションを最大限に活用して、カヤの拘禁を解く方法を探っていた。
法律書と格闘することに忙しかったサキの代わりに、ニコラが進捗を確認していたのだが。
「役に立ちません。お父様も、準男爵も、このような状況に有用なツテは持っておられないことが判明しただけでした」
「そうですか。それはまあ、そうでしょうね」
君主の立場からすると、軍事裁判の容疑者を釈放できるようなコネが存在するようなら、それはそれで問題だ。
「僕の方も手詰まりです。摂政の資格では、評議会の採決を覆せない・・・このまま指をくわえて見ている他にないんでしょうか。カヤが有罪にされるのを」
「こうなっては最後の手段です」
ニコラは手を伸ばし、サキの手元にあった法典をめくる。
「国家基本法の第六条に記された権利を行使するしかありません」
「基本法ですか」
サキは首を傾げる、その名の通り、国家運営に関する基礎となる法律なので、最初に眼を通した。しかし有益な条文は見あたらなかったはずだ。
「『国家基本法六条。国家元首たる国王、あるいは国王不在時の代理君主たる摂政は、司法・立法・行政その他機関の決定事項に自らの意志を反映することを望む場合、これらに出席して意見を述べる権利を有する』・・・・だめですよ、これは。単なる『意見』です。この僕が評議会に出席することは認められているみたいですけど、裁決を停止できるわけじゃない」
「そうでもないのです。国家古法九条の非常大権は読んだのですね?あの『旗』は確かに強力な権限ですが、歴史上、乱用されたものではありません。歴代君主が自らの意を通すための武器としていたのは、むしろこちらの『意見』を述べる権利の方なのです」
ニコラは条文を指でなぞった。
「君主自ら各種機関を訪れて意見を述べる。軽く書いてありますが、意見された方が受ける重圧は並大抵のものではありません。記録から確認する限り、おおむね『意見』に沿った決定が成されています」
数学・科学だけではなく、法学までもこんなに詳しいとは。サキは改めて姉の博識に感心したが、
「けど、それは経験を積んだ君主の話でしょう?最近選ばれた、お飾りに過ぎないこの僕では、与えられる重圧なんて、たかが知れたものですよ。しかも相手は、この僕を選んだ当の評議会ですから」
「本当に、そう思っていますか?」
ニコラの目線は鋭いが、非難する類のものではなかった。
「サキ、あなたはもう単なるお飾りではありません。前線へ立って勝利に貢献しています。そのあなたが評議会に出席して意見を述べる行動を、意見を述べる『だけ』等と誰が軽視できるでしょうか」
サキは戦場の光景と、何故かあの少年の瞳を思い出した。
「やれるでしょうか、この僕に」
「できること、持っている武器はすべて試してみるべきです。ただし」
姉は伸ばした指をサキの鼻先に突きつけた。
「そうすることで、知りたくない話を聞いてしまうかもしれません。それは覚悟しておくべきでしょう」
「知りたく、ない?」
「カヤが抱えている事情です」
ニコラは少し声のトーンを落とす。
「私たちは、彼女がいばら荘を訪れていた理由を知りません」
「・・カヤが」
言いたくない言葉を、サキは口にする。
「議長の囲いものだったと言うのですか」
あの肖像画の、踊り子のように。
「サキも気づいていましたよね?あの部屋に飾ってあった何枚かの小品、あれはカヤの筆によるものでした」
気づかないはずがない。毎日のように彼女の絵を、筆さばきを眺めていたサキだ。
あの部屋が議長にとって神聖な空間だったとするなら、踊り子の肖像と並べてカヤの作品が飾ってあった事実に強い意味が宿る。芸術的才能に恵まれた、若い女性が議長の恋愛対象だとしたらーーーー
「かまいません」
サキは言い切った。
「カヤと議長の関係がどんなものだろうと、彼女を見捨てる理由にはならないと僕は考えます」
「なるほど。立派ですね」
ニコラは感心したように目を細くした。
「簡単な理屈ですよ」
サキは覚え書きに用意していた白紙を姉の前に差し出し、ペンで大きく円を描いた。
「この円が、カヤです」
「はい」
大きな円の中に、サキは小さな円を書き入れ、適当に塗りつぶした。
「それからこの塗りつぶした部分が、カヤと議長にまつわる色々とします」
「はい」
「もしも彼女と議長の関係が、僕にとって不愉快なものだったとしてもです」
サキは机の上にあったペーパーナイフを執って紙に切れ込みを入れ、小さい円を切り取った。
「こういうふうに、取り除いてしまえばいいんです。問題はありません!」
「・・・・はい」
理解できない、という風に眉を寄せた姉の態度が、サキには心外だった。
新聞売りが声を荒げている。
通称、「戦車の新聞売り」と呼ばれる彼らは、取材・執筆・印刷・販売の全工程を一人でこなす。大きな荷車を馬に牽かせ、売り物の新聞や活版印刷機といった商売道具と一緒に王都を巡り、号外を売りまくる個人出版社だ。印刷機を搭載した荷車が古代ローマの戦車を連想させるため、いつしかそんな物騒なあだ名が付けられた。
とはいえ一人で新聞業の全てを回すのはあまりに過酷。だから彼らの新聞は定期的に発行されるものではなく、特別な事件が発生した際だけ、庶民の要望に応えるように安値でばらまかれるものだった。
ようするに、大きなゴシップが巻き起こったときに一儲けを企む、ハイエナやシデムシの同類だ。
「号外!号外!」
「大事件大事件!」
「宮廷軍事評議会議長、赤薔薇家グリム閣下が何者かに殺害された!」
「下手人と目される人物は、なんと、アーカゲルグ戦役にも赴いていた、十六歳の女流画家だ!」
「現在、絵描きの少女は宮廷軍事評議会に連行の上、拘禁されている由、動機、議長閣下との関係等は一切不明!続報をまたれよ!」
「大事件 大事件!」
「号外 号外!」
ーーーうるさい。
摂政府の執務室。積み上げた書物をひっくりかえしながら、サキは毒づいた。
喉を枯らすつもりか。こんなところまで声が響いてくる。
今回、サキを取り囲んでいるのはどうでもいい決済文書の束ではない。王国の法律を記した各種法典、解説書の類だ。
過去の判例、国王による裁可の記録--------そうしたものを片っ端から吟味して、王国摂政が、国の機関の決定を覆す方法があるかどうかを探している。
目的はただ一つ。現在サキが行使しうる権限の限りを使用して、カヤを処刑から救うこと。
昨日、いばら荘を訪れたサキは、グリムの死体を最初に見つけたのが他ならぬカヤだったと知らされた。その後、カヤはカザルスたちの手によって拘留施設へ送られた。
厄介なのは、軍事法第三十七条に則り、カヤの処罰を担当するのが裁判官ではなく宮廷軍事評議会に決まっているというところだ。
あの戦役でカヤは従軍画家の身分を得て戦場へ赴いた。その身分は現在も継続しているため、軍属の範疇に含まれてしまうのだ。被害者のグリムも評議会所属である以上、事件は確実に評議会の管轄となる。そして評議会の審判と決定が下った際の運用に、具体的な日数は規定されていない。
つまり、今この瞬間にも、評議会はカヤの処刑を決定するかもしれない。その後、直ちに刑が執行されてもおかしくない状況なのだ。
サキはこの国の法律、各種規定の中から、その決定に待ったをかける何らかの根拠を見つけなければならない。サキも貴族の子弟、家庭教師から国法の運用については一通りの手ほどきは受けていた。しかしまさか、こんな手引き書を読むような感覚で法律をめくる機会が訪れようとは。
「君主になった場合の各種権限の行使方法」なんて便利な本が出版されていたらよかったのに。
空想に逃げ込みそうな心を、サキは懸命に留める。すると法の歴史を記した書物の中に、「君主の権限、その沿革について」という項目を発見した。
君主の権限、その沿革について
王朝の黎明期、国家とは各権力者集団の寄せ集めであった。各民族集団は構成員の人数だけ「旗」という票数を与えられ、集団間で意向が異なった場合、旗の数が多い集団の意向が優先される決まりになっていた。
この旗は基本的に集団に帰属するものであったが、ただ一人、国王には概念上の権利として六百旗が与えられており、危急時に国王が自身の判断のみで全軍を支配することが可能だった。
家庭教師にも、教わった覚えのない内容だった。自分には関係ないことと聞き流していたのかもしれない。期待に胸を膨らませてサキはページをめくる。
君主の権限、その沿革について(2)
この旗は現在でも、各種委員会と国家元首に設定されており、依然、行使が可能である。
ただし近年の国王は大権を振るう判断をよしとはせず、各種委員会は基本的に折衝によって方針の相違を擦り合わせているため、実際にこの制度が使用された例は少ない。あくまで非常時中の非常時に使用する権限と理解されている。
非常時!今こそ非常時だ!少なくとも僕にとっては。サキは興奮しながら法典を手に取った。効力は失われていないがあまり使われる例の少ない法律は、国家古法の項にまとめられている。
国家古法 第九条 非常大権
国家元首たる国王は、各司法・立法・行政機関の決定事項に不服ある場合、これらを覆す権利として概念上の票数六百を有する。
法律の本を読んでいてこんなに興奮するのは初めてだ。サキは宮廷軍事評議会に関する条文を探す。評議会の票数が国王のそれより少なければ、たとえカヤに死刑判決が下ったとしてなお、覆すことが可能になるのだ。
国家古法 第二十六条 軍政非常大権
宮廷軍事評議会は、各司法・立法・行政機関の決定事項に不服ある場合、これらを覆す権利として概念上の票数五百を有する。
「勝ったあ!」
サキは拳を高々と挙げた。これでカヤを救うことができる!
しかし、横目に映ってしまった。国家古法補足一条。
国家古法 補足一条 摂政非常大権
国王不在時の代理君主たる摂政は、各司法・立法・行政機関の決定事項に不服ある場合、これらを覆す権利として概念上の票数三百五十を有する。
「ああああああああ」
サキは本の上に顔面を落とした。
どうしてだよ・・・どうして国王と摂政で票数が違うんだよ・・・
概念上の票数は、国王が一位、宮廷軍事評議会が二位、摂政は三番目。国家古法を何度も読み返したが、この票数を覆す規定は載っていなかった。
「ただいま戻りました」
執務室の扉を開いて、ニコラが入ってきた。
「結果から言うと、芳しい成果は得られませんでした」
「そうですか。結果から言うと、僕も同じです」
サキは本から顔を離す。昨夜、黒繭家にカヤの父親である準男爵が恐慌をきたして飛び込んできた。宮廷軍事評議会より、議長殺害犯人として娘を拘留するとの通達が届いたため、力添えを頼みに訪れたのだ。ちょうど同時刻にサキたちがデジレから帰ってきたため、準男爵たちも逮捕に至る経緯を知ることができた。
一週間前、カヤは日帰りの予定でデジレに出かけたが、その日遅くに一週間ほどいばら荘に滞在すると便りをよこしたという。この少女の場合、描きたいものがあればどこへでも出かけ気が済むまで帰らないこともしょっちゅうだったため、その時点では不審には思わなかったとの話だった。おそらくバンドがカヤに薦めて手紙を書かせたのだろう。
昨夜から今に至るまで、侯爵と準男爵はそれぞれの持つコネクションを最大限に活用して、カヤの拘禁を解く方法を探っていた。
法律書と格闘することに忙しかったサキの代わりに、ニコラが進捗を確認していたのだが。
「役に立ちません。お父様も、準男爵も、このような状況に有用なツテは持っておられないことが判明しただけでした」
「そうですか。それはまあ、そうでしょうね」
君主の立場からすると、軍事裁判の容疑者を釈放できるようなコネが存在するようなら、それはそれで問題だ。
「僕の方も手詰まりです。摂政の資格では、評議会の採決を覆せない・・・このまま指をくわえて見ている他にないんでしょうか。カヤが有罪にされるのを」
「こうなっては最後の手段です」
ニコラは手を伸ばし、サキの手元にあった法典をめくる。
「国家基本法の第六条に記された権利を行使するしかありません」
「基本法ですか」
サキは首を傾げる、その名の通り、国家運営に関する基礎となる法律なので、最初に眼を通した。しかし有益な条文は見あたらなかったはずだ。
「『国家基本法六条。国家元首たる国王、あるいは国王不在時の代理君主たる摂政は、司法・立法・行政その他機関の決定事項に自らの意志を反映することを望む場合、これらに出席して意見を述べる権利を有する』・・・・だめですよ、これは。単なる『意見』です。この僕が評議会に出席することは認められているみたいですけど、裁決を停止できるわけじゃない」
「そうでもないのです。国家古法九条の非常大権は読んだのですね?あの『旗』は確かに強力な権限ですが、歴史上、乱用されたものではありません。歴代君主が自らの意を通すための武器としていたのは、むしろこちらの『意見』を述べる権利の方なのです」
ニコラは条文を指でなぞった。
「君主自ら各種機関を訪れて意見を述べる。軽く書いてありますが、意見された方が受ける重圧は並大抵のものではありません。記録から確認する限り、おおむね『意見』に沿った決定が成されています」
数学・科学だけではなく、法学までもこんなに詳しいとは。サキは改めて姉の博識に感心したが、
「けど、それは経験を積んだ君主の話でしょう?最近選ばれた、お飾りに過ぎないこの僕では、与えられる重圧なんて、たかが知れたものですよ。しかも相手は、この僕を選んだ当の評議会ですから」
「本当に、そう思っていますか?」
ニコラの目線は鋭いが、非難する類のものではなかった。
「サキ、あなたはもう単なるお飾りではありません。前線へ立って勝利に貢献しています。そのあなたが評議会に出席して意見を述べる行動を、意見を述べる『だけ』等と誰が軽視できるでしょうか」
サキは戦場の光景と、何故かあの少年の瞳を思い出した。
「やれるでしょうか、この僕に」
「できること、持っている武器はすべて試してみるべきです。ただし」
姉は伸ばした指をサキの鼻先に突きつけた。
「そうすることで、知りたくない話を聞いてしまうかもしれません。それは覚悟しておくべきでしょう」
「知りたく、ない?」
「カヤが抱えている事情です」
ニコラは少し声のトーンを落とす。
「私たちは、彼女がいばら荘を訪れていた理由を知りません」
「・・カヤが」
言いたくない言葉を、サキは口にする。
「議長の囲いものだったと言うのですか」
あの肖像画の、踊り子のように。
「サキも気づいていましたよね?あの部屋に飾ってあった何枚かの小品、あれはカヤの筆によるものでした」
気づかないはずがない。毎日のように彼女の絵を、筆さばきを眺めていたサキだ。
あの部屋が議長にとって神聖な空間だったとするなら、踊り子の肖像と並べてカヤの作品が飾ってあった事実に強い意味が宿る。芸術的才能に恵まれた、若い女性が議長の恋愛対象だとしたらーーーー
「かまいません」
サキは言い切った。
「カヤと議長の関係がどんなものだろうと、彼女を見捨てる理由にはならないと僕は考えます」
「なるほど。立派ですね」
ニコラは感心したように目を細くした。
「簡単な理屈ですよ」
サキは覚え書きに用意していた白紙を姉の前に差し出し、ペンで大きく円を描いた。
「この円が、カヤです」
「はい」
大きな円の中に、サキは小さな円を書き入れ、適当に塗りつぶした。
「それからこの塗りつぶした部分が、カヤと議長にまつわる色々とします」
「はい」
「もしも彼女と議長の関係が、僕にとって不愉快なものだったとしてもです」
サキは机の上にあったペーパーナイフを執って紙に切れ込みを入れ、小さい円を切り取った。
「こういうふうに、取り除いてしまえばいいんです。問題はありません!」
「・・・・はい」
理解できない、という風に眉を寄せた姉の態度が、サキには心外だった。