第93話 残像
文字数 975文字
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受話器を握りしめたまま、口のなかでつぶやく。
騒ぎたてる客の男。
懸命になだめる店員たち。
腰をほとんど直角に折り曲げて、深々と頭を下げる幸弥——
ほんの数時間前、目にした光景が、残像となって樹のまぶたに貼りついていた。
(お前……あればぁ、悔しがっちょったがやないか)
握りしめたこぶしが、小刻みに揺れていたのを、はっきりと覚えている。
幸弥はひたすら謝っているのに、客は容赦なく怒鳴りつづけた。店に飛びこんで、そいつを殴りつけたい衝動に駆られたけれど、そんなことをすれば、幸弥をさらなる窮地に追い込みかねないことぐらい、樹にも分かっていた。幸弥のためにしてやれることが何ひとつない以上、樹はそのまま立ち去るしかなかった。
祖父母が待つ家に帰り、夕飯を食い、風呂に入っても、幸弥の哀れな姿が頭から消えなかった。いてもたってもいられなくなって、家を飛びだし、公衆電話の受話器をとった。
屈辱的な場面を目にしたことは秘めておいた。何も知らないという
(もし、俺が、大﨑さんやったら、何もかんも、話してくれたがか……?)
卑屈な考えが頭に浮かび、なおさら惨めな気持ちになる。
幸弥にとっての、一番でありたい——
いつのころからか、樹はそんな大それた想いを抱くようになっていた。
幸弥が幸せでいてくれたなら、それで十分だったはずなのに……
そのときふいに、故郷の記憶がよみがえってくる。
あれは確か、台風一過の朝のことだった。
いつもは透きとおるほど清らかな沢の水が、泥の色に染まっているのを見て、「たまにはこういうがもえい」と、誠はぽつりと言ったのだ。
——あんまり綺麗すぎるがは、なんや嘘くさい気がするでにゃあ
そのことばの意味が、ようやく分かった気がした。
電話ボックスの隙間から、うすら寒い秋の夜風が吹きこんでくる。
樹は受話器を置くと、いつの間にやら冷え切った、サンダルをひっかけただけの素足を引きずるようにして、祖父母の家へ戻った。