第90話 煙草
文字数 801文字
いそいそと店を出ていく背中へ向けて、
「クリーニング代はお支払いしてありますよね?」
濡れネズミになった男へ、そう言ってやりたかった。
むろん、そんなことができるはずもないのだが……
「すみませんでした」
心底申し分ない思いで、幸弥は店長たちに頭を下げた。
「あのお客に渡したお金は、俺の給料から差っ引いてください」
「なんちゃじゃない」
店長は笑って首を横に振る。
「次から気ぃつけたらえいがで。あればぁ気難しい客は、
思いやりのことばに、かえって、幸弥はいたたまれなくなる。
大叔母の亡夫に義理がある店長は、幸弥を孫同然にかわいがってくれるけれど、ベテランの従業員たちが、それを快く思わないことには、気づいていないようだった。
「客もおらんき、ちぃと休憩してきぃや」
店長に言われて、幸弥は控室へ戻った。
ロッカーを開けて、白地に濃い青のラインが入った煙草の箱を取り出す。
「大手門の優等生は煙草らぁ知らんろう? これは一番軽いヤツやき、持っちょきや。客商売はストレスたまるでなぁ」
バイトを始めたばかりの幸弥に、先輩
火をつけようとしたとき、初めて自分の手が震えていることに気づいた。ライターを持つ手を、もう片方の手で支える。煙草をくわえたまま、思いきり息を吸いこむ。いがらっぽい味が口腔内に広がり、やがて体中に染みこんでゆく。
松本が言ったように、煙草を吸うと、不思議と気持ちが軽くなった。とは言え、喫煙が学校にバレでもしたら大変なことになる。中毒性があることも知っている。よほどのことがない限り、幸弥は手をつけないことにしていた。