第88話 涙
文字数 1,008文字
まるで悲鳴のような
顔を見られまいとするように、楠瀬はさっと背を向けた。片手で眼鏡を持ち上げ、もう片方の手の甲で、ぐいっと涙をぬぐう。
「わ、わた…わた…し、は……」
しゃくりあげ、つかえながらも、震える声が、必死に何かを伝えようする。
「ま、負け…とう…なかっ…た…だけ……」
ふいに、裏口のドアが勢いよく開いた。
「おはようさ~ん」
のんきな
「ありゃ……何な、痴話げんかか? 修羅場ながか?」
泣いている楠瀬と、戸惑う幸弥とを交互に見やって、松本は素っ頓狂な声をあげた。
楠瀬はバッグをひっつかむと、松本のわきをすり抜けて出ていった。
ひとり残された幸弥は、仕方なしに、ことのあらましを松本に説明する。
「そんなくだらんことやったがか? てっきり昼メロばりのドロドロ愛憎劇が観れる思うたに、つまらんねや」
冗談とも本気ともつかない調子で、松本はさも残念そうに言う。
「昼メロち…俺らぁ高校生ですよ。それに、俺も楠瀬さんも、そんなガラやないですき」
「やけんど、女はえいわなぁ。何やらかしたち、泣いたら許してもらえるがやき」
さらりと言い捨てた松本のことばが、引っつき虫のように、幸弥の心に引っかかる。
「涙は女の武器」などということばもある。松本が言うように、問題を起こしても泣けば済むと考えている女性は、世間にはざらにいるのかもしれない。それでも、なんとなく、楠瀬は違うのではないかという気がした。
——私は、負けとうなかっただけ……
楠瀬の訴えが、幸弥の耳にこだまする。
楠瀬は、いったい、誰に負けたくなかったのだろう……
自分の非を認めようとしない客か、
あるいは、周囲に言いくるめられて、主張を曲げそうになる自分自身だったのだろうか?
ふと気づけば、そんなことばかり考えていた。
(いかん。いっぺん頭を切り替えんと、俺までやらかしそうや……)
目を
まぶたに楠瀬の背中が浮かぶ。
震えながらも、ぐいと涙をぬぐった、その潔いうしろ姿が、まざまざとよみがえる。
その瞬間、幸弥は気づいた。
楠瀬の涙は、決して「逃げ」や「ごまかし」ではない。
自分を貫き通すため、自分の弱さと戦う者の、戦おうとする者の、涙だったのだ。