第89話 抗議
文字数 1,055文字
別に親しくしているわけではないけれど、似た者同士だと感じている楠瀬が辞めてしまうのは、なんだか心細い気がするのだ。
夕方から雨が降りだしたこともあって、客足はまばらだった。手持ちぶさたにしていると時間が経つのが遅く感じる。集中力も途切れがちで、何度もあくびをかみ殺した。
明日は定休日だから、提出期限の迫った課題をまとめて片づけてしまおう。そんなことを頭のすみで考えながら、客にお
「すみません!」
「何しゆうがや!」
幸弥の謝罪をかき消すように、客の怒声が店内に響く。
とっさにおしぼりで拭いたけれど、こぼれた水はテーブルからしたたり落ちて客のズボンを濡らしていた。
「メシ食うたら映画観よう思うちょったに、こんなびしょ濡れのズボンはいちょったら、風邪ひいてしまうやか!」
ベテランのパートが乾いたタオルを持って駆けつけ、濡れたズボンを丁寧に拭いてくれた。
「ほんまに申し訳ありませんでした。よう拭いちょきましたき、ご飯食べゆうあいだには、乾くと思いますき」
それでも、客の怒りはおさまらなかった。
「これぁ俺の
どう見ても安物の、ぺらぺらした生地のズボンを指さしながら、客の男がまくしたてる。
「ただの水やき、シミにはならん思いますよぉ」
ベテランパートは穏やかに言って、客を落ち着かせようとする。
様子をうかがっていた店長が、調理の手を休めて厨房から出てきた。
焦りと、恥ずかしさと、申し訳なさで、幸弥の顔は火を噴くように熱くなる。
「本当に、申し訳ありませんでしたぁ!」
むしろケンカ腰とも思えるような大声で言うと、幸弥は深々と頭を下げた。
腰を直角に曲げた、不自然な姿勢のまま、固まったように動かない。
(これでも、まだ、不足や言うがか……?)
幸弥は怒っていた。
自分のミスで、お客に迷惑をかけてしまった。それは重々承知しているし、すまないと思っている。しかし、ほかの店員にまで悪態をついたり、店長を巻きこむほどのことだろうか?
「あやまってすむがやったら、医者も警察もいらんわえ!」
この謝罪が、幸弥の精いっぱいの抗議であることに気づく様子もなく、客は
(いっそのこと、土下座しちゃおうか?)
ふと、そんな考えがよぎる。
しかし、すぐに思い直した。土下座では屈服の表明になってしまう。