第1話 目覚め

文字数 1,189文字

 暗がりのなかで目を覚ました(たつき)は不思議な感覚に襲われた。
 まだ半分眠っている頭で、違和感の正体を探る。暗闇に慣れてきた目が、見慣れない天井をとらえる。そういえば、いま寝ている布団も自分のとは違う。

 雨戸を開ける音が聞こえる。
 爽やかな朝の空気とともに、様々な匂いが室内に入りこんでくる。
 ご飯の炊ける甘い香り、干物を焼く香ばしい匂い、トースト、味噌汁、珈琲……
 実に食欲をそそる匂いだが、それらがいちどきに(ただよ)ってくるのは、なんだか妙な感じだ。

(そうか…俺ぁ、高知に来たがやった……)

 布団を抜けだし、洗面所で顔を洗うと、茶の間へ向かった。
 祖父の(しげる)が読みかけの新聞から顔をのぞかせて、樹に笑いかける。

「おはようさん。よう眠れたかや?」

「おはよう。家に()るがと変わらんばぁよう寝よったけん、目ぇ覚めたとき、ここがどこやら分からざった」

 茂の隣へ腰をおろす。ちゃぶ台の上には、すでに香ばしく焼けた鯖の干物とぬか漬けの皿が用意されていた。

「おなかすいたろう。おかわりはなんぼじゃちあるき、足るばぁ食べなさい」

 お盆を手に台所から出てきた祖母の(しょう)子が、湯気の立つ味噌汁の椀とご飯茶碗を樹の前に置く。

(コーヒーとトーストは、ウチやなかったがやにゃあ……)

 少し残念に思いながら、樹は味噌汁をすする。

 高知市は街全体がぎゅっと凝縮されているかのようだ。
 窓を開ければ、よその家の食卓の香りだけでなく、通りを走る車の排気ガスやアスファルトに積もった土埃の匂いまでもが流れこんでくる。表を行きかう人々の話し声も聞こえる。
 樹の生まれ育った荷緒(になお)の集落とは比べものにならないくらい、他人の生活の音や匂いが、ここでは手で触れられそうなほど身近にあふれていた。

「今日はちぃと出かけてくるけん。昼飯はいらんでぇ」

 樹が言うと、祥子は驚いたように目を丸くした。

「出かけるち、どこへ行くつもりぞね? あんたぁ、まだここいらに知り合いらぁおらんろう?」

 おるで、と答えようとした矢先、茂が横から口を挟んだ。

「いらん世話やきなや。樹はもう高校生ながぞ。どこへ行って誰と会うらぁて、いちいちかいち、探りをいれんじゃちえいき」

 とたんに祥子は牙をむく。

「何を無責任なこと言いゆうぞね! このくらいの年頃が一番キケンながやき。親元を離れゆうあいだは、私らぁがしっかり監督しちょかんといかんが!」

「おおの、朝からやかましいこと……」

 茂はおどけた顔で樹を振り返る。
 祖父母のあいだでは、こんなやり取りは日常茶飯事なのだ。

 茂と祥子は、樹の母方の祖父母だ。
 母の(あき)子と祥子は気性がそっくりだった。誰に対してもはっきりとものを言い、世話焼きで、口やかましい。
 血のつながりはないものの、父の(たもつ)も茂とよく似ている。ふたりとも嫁の扱いをよく心得ていて、たいていのことは笑って聞き流しているおかげで、両家の平穏は保たれているのだ。
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登場人物紹介

明神樹(みょうじんたつき)


高知県西部、幡多地区にある西方町の集落、荷緒(になお)で生まれ育った。世間離れしたところもあるが、器が大きく他者をありのままに受け入れる性格。幼いころから好きだった野球を捨てたことを今も悔やんでいる。もう二度と後悔しないよう、自分の気持ちに正直に生きようとするが、そのために親友の誠を悲しませてしまう。

水田幸弥(みずたゆきや)


高知市にほど近い南野市在住。ものごころつく前に亡くした実父の写真を母の再婚相手に燃やされたせいで、父の顔を思い出すことができない。中一の県大会で樹と対戦し敗れるが、おおらかな樹に亡き父の面影を重ね、慕うようになる。学業、スポーツともに優れた秀才だが精神面は幼く、やや情緒不安定。

樋口誠(ひぐちまこと)


樹の地元の仲間で無二の親友。樹の幸弥への想いに気づき、受け入れられず苦しむ。繊細で聡明。仲間たちに密かな劣等感を抱いている。秘密主義で親友の樹にさえ容易に本心を明かさないが、姉のように慕う千代子にだけは心を開く。望みはないと知りつつ、岡林への想いを断ち切れずにいる。

木戸佑介(きどゆうすけ)


地元、荷緒(になお)の仲間。誠と同じ一条高に通う。中学時代、岡林と交際していた。破局後、誠も岡林を好きなことを知り、友情と愛情の板挟みになる。真面目で誠実だが不器用で空回りしがち。小心な自分が嫌で、強くなりたいと願っている。

安岡堅悟(やすおかけんご)


地元、荷緒の仲間。無鉄砲だが仲間思いで情に厚い性格。三人兄弟の末っ子。兄たちの母校でもある西方高に通い、勉学は二の次でバイトと遊びに精を出す。

間崎耕太郎(まさきこうたろう)


地元、荷緒の仲間。酪農も営む農家の跡取り息子で、一条農業高校に通う。天真爛漫なムードメーカー。

間崎千代子(まさきちよこ)


耕太郎の五歳上の姉。独立心と知的好奇心に満ちた姉御肌で情報通。弟たちからの信頼が厚い。誠にとっては胸のうちをさらけ出せる唯一の存在。

岡林文枝(おかばやしふみえ)


一条女子高の生徒。暴力的な父親のせいで男性に恐怖心を抱いており、誠の想いに応えることができない。中学時代、温和な平和主義者の佑介とは互いに惹かれ合って交際したが、自信を喪失した佑介から一方的に別れを切り出された。おとなしそうな見た目に反して芯が強く、自分を曲げない性格。

徳弘大河(とくひろたいが)


東条高の生徒。中学時代、幸弥とテニス部でペアを組んでいた。こだわりが強く他人の気持ちに頓着しないため幸弥をしばしば怒らせるが、根は裏表のない真正直な性格。

大﨑正則(おおさきまさのり)


東条高の生徒。中学時代に幸弥が初めてペアを組んだ相手であり、最も尊敬する先輩。不器用で融通の利かないところもあるが、誠実で愛情深い。長所、短所を含めて、誰よりも幸弥を理解している。

明神保(みょうじんたもつ)


樹の父。子煩悩な愛妻家。飄々とした好人物だが、昔ながらの価値観を捨て去ることができない。誠の父とは兄弟のようにして育つ。誠から実の父親以上に慕われていたが、高知市の高校への進学を反対したことで信頼を失った。長男の潮(うしお)には家を継がせ、次男の樹には自分の好きな道へ進んでほしいと願っている。

明神昭子(みょうじんあきこ)


樹の母。戦後すぐに満州で生まれた。乳飲み子の自分を連れて日本へ引き上げた祥子に、感謝の気持ちを持ちつつも反発する。気丈で意思が強く、荷緒の集落に嫁いでからも幡多弁に直すことなく土佐弁で通している。子どもに甘い保に代わり、息子たちを厳しく育てる。

田中茂(たなかしげる)


昭子の父であり、樹の祖父。おおらかな性格で賑やかなことが好き。戦時中、開拓団として家族とともに満州へ渡ったが、現地で徴兵。終戦後、自分が不在のなか、子どもたちを連れて日本へ引き上げた祥子に感謝の気持ちを抱いている。

田中祥子(たなかしょうこ)


樹の祖母。終戦直後の満州で昭子を生み、翌年、昭子と兄の正(ただし)を連れて日本へ引き上げた。女丈夫だが元々はお嬢さん育ちでおっとりした一面もある。性格の似ている昭子とはよく衝突する。孫たちにとっては愛情深く優しい祖母。

明神潮(みょうじんうしお)


樹の兄。弟想いで温厚な性格。野球をやりたい一心で強豪校に進んだが、選手層の厚さに阻まれ、ろくにボールに触れることさえできなかった。野球部とテニス部のあいだで揺れる樹に、競技人口が少なくチャンスの多いテニスを勧めたことを内心では後悔している。

水田信子(みずたのぶこ)


幸弥の母。幸弥の父とは大手門高のテニス部で出会う。卒業後に幸弥を身ごもり、叔母が管理するアパートに親子で暮らす。幸弥の父が亡くなった後も身の回りの品を処分せず、偲ぶよすがにしていた。生活のため再婚した相手は泥酔して幸弥を暴行。再婚相手との間にはすでに三人の子がおり離婚もできず、泣く泣く幸弥を叔母に預けた。

竹内恭子(たけうちやすこ)


信子の叔母。幸弥にとっては大叔母に当たるが「おばちゃん」と呼ばれている。亡き夫の残したアパートで生計を立てる。管理人を兼ねて一階に住み、信子一家には二階の一室を貸している。信子の再婚相手に乱暴された幸弥を引き取り、ともに暮らす。陽気な働き者で困難をものともしない性格。

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