第6話 まなざし
文字数 1,133文字
「お前の都合がえいがやったら、今から渡しに行きたいがやけんど……」
とっさに、
同じアパート内とはいえ、別々に暮らすふたりが一緒にいられる機会はほとんどなかった。入学式や卒業式といった行事のときだけ、母は幸弥のために仕事を休んでくれるのだ。
「あんまり時間はないがやけんど、びっとなら大丈夫や。こっちまで来れるか? 俺も駅まで出るき。汽車やのうて、路面電車の方ぞ」
電話を切ると、幸弥は母に向かって言った。
「ちぃと出てくるわ。じきに
ほんの一瞬、寂しげに顔を曇らせたものの、信子はすぐに穏やかな笑みを浮かべた。母がうなずくのを見届けた幸弥は部屋を飛び出し、自転車で駅へと急ぐ。
(こいつ…父さんの生まれ変わりながやろうか……)
初めてそんな思いを抱いたのは、中二の春、試合会場へ向かう電車のなかで樹を見かけたときだ。
人混みのなかで、樹の横顔は頭ひとつ飛びぬけていた。
——あんたのお父さんはねぇ、びっと日本人離れした、素敵なひとやったがよ……
耳の奥で母の声がした。
——ローマ鼻、いうてねぇ。綺麗な形の鼻をしちょったが
吸い寄せられるように見入っていると、ふいに樹がこちらを向いた。
驚きと喜びの入り混じった目で、樹は幸弥を見つめ返した。
その目には既視感があった。
夢のなかで、じっと幸弥を見つめていた、いまは亡き父のまなざし——
その瞬間、幸弥のなかで、樹は父になった。
ばかげた話だと分かっている。
それでも、幸弥は信じていた。
信じることで、救われていた。
父が亡くなったのは、幸弥が二歳のときだ。
父のことは何ひとつ覚えていない。今となっては、顔すらも分からない。
信子と再婚した義理の父が、亡父の写真をアルバムごと焼いてしまったのだ。
むっつりと押し黙る義父の姿を思い出したとたん、胸が苦しくなった。
酒に酔った義父にのしかかられた、あの日の恐怖がよみがえり、身体が震えだす。
幸弥はあわてて自分に言い聞かせた。
(大丈夫…あいつは結局、何もできざったがやき……)
アパートの一階にある大叔母の部屋へ、幸弥は間一髪で逃げおおせた。それ以来、幸弥は大叔母と暮らしている。今はもう、怖がる必要はないのだ。
気持ちが落ち着いてくるにつれて、幸弥の思いはしだいに母へと移っていった。
(可哀そうな、母さん……)
母が本当に愛しているのは、亡き父と自分だけ。
幸弥はそう独り決めしていた。
愛したひとの息子からは引き離され、好きでもない男と、そいつとのあいだにできた子どもらと暮らす信子が、幸弥には憐れでならなかった。