第38話 他所者(よそもの)

文字数 1,160文字

——あの人は他所(よそ)モンやけんねぇ……

 祖母の声がする。
 幼い愛子が怯えたように誠を見つめる。

(大丈夫や…兄ちゃんがおるけん)

 安心させるように、妹の瞳を見つめ返すと、縁側で茶飲み話に興じる祖母の声が届かぬところへ、そっと手を引いて行く。

 小学校の高学年になるまで、誠は自分の母親の名を知らなかった。
 家のなかでも外でも、母を下の名前で呼ぶ者など、誰もいなかったのだ。

言霊(ことだま)……)

 遠ざかってゆく祖母の声を聞きながら、誠は胸のなかでつぶやく。
 祖母の言う「あの人」や「他所モン」もまた、呪いのことばではないのか?

 家の裏手へ回って、勝手口から台所へ入ると、そこには母がいた。
 小ぶりの包丁を手に、一心不乱に虎杖(いたどり)の皮をむく母の姿を見たとき、誠の身体が震えた。
 
 真っ黒い(もや)が、陽炎(かげろう)のように立ちのぼっている。
 それは憎悪だった。
 母は虎杖の皮と実の境い目に包丁をねじ込むと、生皮をはがすように、一気にめくりあげる。
 鮮やかな(つや)を帯びた地肌が、まるで緑色の血にまみれているかのようで、危うく悲鳴をあげそうになる。

 しかし、声をあげたのは誠ではなかった。

 誠の背中に、隠れるようにしがみついた愛子の口から、悲痛な泣き声が漏れる。
 とっさに、誠は愛子の頭をかかえるようにして抱きしめた。
 なぜだか、誰にも聞かれてはいけないような気がした。

 母は、一度も振り返らなかった。
 ふたりが入ってきたことも、愛子が泣いていることも、気づいていないはずがないのに……

 誠には分かっていた。
 母にとっては、自分も愛子も、祖母の側の人間なのだ。

 懸命に愛子を慰めながら、心の底では、誠も一緒に泣きたかった。
 地団駄を踏み、わぁわぁと声をあげて、涙が涸れ果てるまで泣きたかった。
  
 誰かに呼ばれた気がした。
 暗闇から這い出るように、ゆっくりとまぶたを開く。
 目に飛びこんできたのは、心配そうに誠を見やる、あの親切な店員の顔だ。

「すんません。つい、眠ってしもうて……」

 立ち上がろうとしたが、体がこわばって思うように動けない。

「かまん、かまん。まだ寝ちょったち、かまんがで。やけんど、あんまり遅うなってもいかんかねや。今日中に、西方(にしがた)まで帰るがやろう?」

「いや、高知の友達ん()に泊まるがです」

「そりゃえいなぁ。ゆっくり遊んできぃや」

 店員に礼を言って、誠はガソリンスタンドを出た。

 社長たちばかりではない。見ず知らずの他人までが、こんなにも優しくしてくれる……
 俺は恵まれているのだ。ありがたいことだ。そう自分に言い聞かせたとたん、洪水のように、悲しみがあふれだす。

 痛みを振り払うかのように、ギアをあげる。
 五速に入れたときには、誠は、もうどこにも存在しなかった。
 思考も、感情も持たない、ただ、一陣の風となって、樹のいる高知へ向かって走りつづける。
 
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登場人物紹介

明神樹(みょうじんたつき)


高知県西部、幡多地区にある西方町の集落、荷緒(になお)で生まれ育った。世間離れしたところもあるが、器が大きく他者をありのままに受け入れる性格。幼いころから好きだった野球を捨てたことを今も悔やんでいる。もう二度と後悔しないよう、自分の気持ちに正直に生きようとするが、そのために親友の誠を悲しませてしまう。

水田幸弥(みずたゆきや)


高知市にほど近い南野市在住。ものごころつく前に亡くした実父の写真を母の再婚相手に燃やされたせいで、父の顔を思い出すことができない。中一の県大会で樹と対戦し敗れるが、おおらかな樹に亡き父の面影を重ね、慕うようになる。学業、スポーツともに優れた秀才だが精神面は幼く、やや情緒不安定。

樋口誠(ひぐちまこと)


樹の地元の仲間で無二の親友。樹の幸弥への想いに気づき、受け入れられず苦しむ。繊細で聡明。仲間たちに密かな劣等感を抱いている。秘密主義で親友の樹にさえ容易に本心を明かさないが、姉のように慕う千代子にだけは心を開く。望みはないと知りつつ、岡林への想いを断ち切れずにいる。

木戸佑介(きどゆうすけ)


地元、荷緒(になお)の仲間。誠と同じ一条高に通う。中学時代、岡林と交際していた。破局後、誠も岡林を好きなことを知り、友情と愛情の板挟みになる。真面目で誠実だが不器用で空回りしがち。小心な自分が嫌で、強くなりたいと願っている。

安岡堅悟(やすおかけんご)


地元、荷緒の仲間。無鉄砲だが仲間思いで情に厚い性格。三人兄弟の末っ子。兄たちの母校でもある西方高に通い、勉学は二の次でバイトと遊びに精を出す。

間崎耕太郎(まさきこうたろう)


地元、荷緒の仲間。酪農も営む農家の跡取り息子で、一条農業高校に通う。天真爛漫なムードメーカー。

間崎千代子(まさきちよこ)


耕太郎の五歳上の姉。独立心と知的好奇心に満ちた姉御肌で情報通。弟たちからの信頼が厚い。誠にとっては胸のうちをさらけ出せる唯一の存在。

岡林文枝(おかばやしふみえ)


一条女子高の生徒。暴力的な父親のせいで男性に恐怖心を抱いており、誠の想いに応えることができない。中学時代、温和な平和主義者の佑介とは互いに惹かれ合って交際したが、自信を喪失した佑介から一方的に別れを切り出された。おとなしそうな見た目に反して芯が強く、自分を曲げない性格。

徳弘大河(とくひろたいが)


東条高の生徒。中学時代、幸弥とテニス部でペアを組んでいた。こだわりが強く他人の気持ちに頓着しないため幸弥をしばしば怒らせるが、根は裏表のない真正直な性格。

大﨑正則(おおさきまさのり)


東条高の生徒。中学時代に幸弥が初めてペアを組んだ相手であり、最も尊敬する先輩。不器用で融通の利かないところもあるが、誠実で愛情深い。長所、短所を含めて、誰よりも幸弥を理解している。

明神保(みょうじんたもつ)


樹の父。子煩悩な愛妻家。飄々とした好人物だが、昔ながらの価値観を捨て去ることができない。誠の父とは兄弟のようにして育つ。誠から実の父親以上に慕われていたが、高知市の高校への進学を反対したことで信頼を失った。長男の潮(うしお)には家を継がせ、次男の樹には自分の好きな道へ進んでほしいと願っている。

明神昭子(みょうじんあきこ)


樹の母。戦後すぐに満州で生まれた。乳飲み子の自分を連れて日本へ引き上げた祥子に、感謝の気持ちを持ちつつも反発する。気丈で意思が強く、荷緒の集落に嫁いでからも幡多弁に直すことなく土佐弁で通している。子どもに甘い保に代わり、息子たちを厳しく育てる。

田中茂(たなかしげる)


昭子の父であり、樹の祖父。おおらかな性格で賑やかなことが好き。戦時中、開拓団として家族とともに満州へ渡ったが、現地で徴兵。終戦後、自分が不在のなか、子どもたちを連れて日本へ引き上げた祥子に感謝の気持ちを抱いている。

田中祥子(たなかしょうこ)


樹の祖母。終戦直後の満州で昭子を生み、翌年、昭子と兄の正(ただし)を連れて日本へ引き上げた。女丈夫だが元々はお嬢さん育ちでおっとりした一面もある。性格の似ている昭子とはよく衝突する。孫たちにとっては愛情深く優しい祖母。

明神潮(みょうじんうしお)


樹の兄。弟想いで温厚な性格。野球をやりたい一心で強豪校に進んだが、選手層の厚さに阻まれ、ろくにボールに触れることさえできなかった。野球部とテニス部のあいだで揺れる樹に、競技人口が少なくチャンスの多いテニスを勧めたことを内心では後悔している。

水田信子(みずたのぶこ)


幸弥の母。幸弥の父とは大手門高のテニス部で出会う。卒業後に幸弥を身ごもり、叔母が管理するアパートに親子で暮らす。幸弥の父が亡くなった後も身の回りの品を処分せず、偲ぶよすがにしていた。生活のため再婚した相手は泥酔して幸弥を暴行。再婚相手との間にはすでに三人の子がおり離婚もできず、泣く泣く幸弥を叔母に預けた。

竹内恭子(たけうちやすこ)


信子の叔母。幸弥にとっては大叔母に当たるが「おばちゃん」と呼ばれている。亡き夫の残したアパートで生計を立てる。管理人を兼ねて一階に住み、信子一家には二階の一室を貸している。信子の再婚相手に乱暴された幸弥を引き取り、ともに暮らす。陽気な働き者で困難をものともしない性格。

高橋麻子(たかはしあさこ)


一条女子高の生徒で岡林の友人。明朗快活で積極的。中学時代、樹に交際を迫ったこともあるが、今は誠に関心を寄せている。大胆な言動のわりに、古風で純情な一面を持つ。

川村守(かわむらまもる)


西城高の生徒で樹の部活仲間。山間部の錦村出身。祖父は地元の有力者。地元への愛着が強く、柔軟な思考の持ち主。仲間うちで樹とは一番気が合っている。

井上凌平(いのうえりょうへい)


西城高の生徒で樹の部活仲間。自分の生まれ育った環境を基準に物事を判断する傾向があり、地方出身者や肉体労働者を軽視している。

森道彦(もりみちひこ)


西城高の生徒で樹の部活仲間。周りに流されやすい性格。片田舎の農家の息子であることに、漠然と引け目を感じている。

楠瀬泰子(くすのせたいこ)


幸弥のバイト仲間。樹と同じ西城高校の生徒だが、交流はない。無口で感情を表に出さず、幸弥とともにバイト先では浮いた存在。

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