第28話 無蓋列車
文字数 1,011文字
ある母親が、他人である
母乳を分け与えられたことで、昭子は生き延びて帰国を果たし、結婚して、
その事実の残酷さに、気持ちが沈んでゆく。
戦争にまつわる悲惨な話を、知らなかったわけではない。
小学校時代、夏休みの登校日には全校生徒が体育館に集められ、集落の年寄りたちから当時の話を聞かされた。けれど、それらはあまりにも自分たちの日常とかけ離れ過ぎていて、彼らの語る世界のなかに自分を当てはめることは難しかった。
だが戦争は、決して、遠い昔の寓話などではなかったのだ。
もしも母乳をもらえなかったなら、死んでいたのは昭子だったかもしれない。
昭子がいなければ、樹と潮もいない。
人と人との運命は、互いに複雑に絡み合い、ときに、どちらかを犠牲にするのだろうか?
それを決定づけるのは、いったい、何のだろう……
引き揚げが決まったとき、自分の着物をすべてほどいて、昭子のおむつにした。
近所を回って、集められるだけの傘を集めた。
それから毛糸玉とかぎ針。荷物はほぼ、それだけだった。
赤ん坊の昭子を背負い、幼い
引き揚げ者を乗せた貨物列車は、延々と荒野を走りつづけた。
昭子のおむつが汚れると、投げ捨てて新しいものに換えた。
幾日も雨が降りつづいたとき、屋根のない列車は吹きさらしだった。
強風に煽られて傘が壊れると、投げ捨てて別の傘をさした。
そうやって、自分たちは日本に帰ってきたのだと、祥子は繰り返し孫たちに語った。
「誰っちゃあ、貸してやらざったと……」
黙って話を聞いていた昭子は、祥子が部屋を出ていったあと、誰にともなくつぶやいていた。
夜が
夢のなかで、果てしなく広がる荒野を、疲れ果てた人々を乗せた列車が走っていた。
雨が渇いた大地を叩き、砂煙をあげる。
灰色にかすむ世界は、昼なのか夜なのかさえ分からない。
無蓋列車に、大粒の雨が容赦なく降りそそぐ。
そのなかに、傘をさす祥子の姿があった。
赤ん坊の昭子を背におぶい、幼い正をひしと胸に抱きながら、
闘う者の目で、祥子は雨に煙る地平線を見据えていた。