第149話 ゾーン

文字数 705文字

 深く息を吐いて開始線まで戻る。
(どうしたら……)
 颯来の『秘策』も通じなかった。構える前に千城の方に目を移す。千城は真直ぐ颯来を見ていた。思わず目を逸らす。
(彦は今まで本気ではなかった? 全力ではない?)
 逃げた視線の先には愉香がいる。
『ドキッ』
 心臓が大きく鼓動した。愉香の瞳が颯来を見つめているのがはっきり分かる。
 二階応援席とは距離がある。しかし颯来には場面を切り取ってズームアップしたように愉香の顔が見える。
(愉香……よーく見てろよ)

 千城の颯来を射る目は、今までのどんな時とも違っていた。見せたことのない目だ、はっきり『敵』としてみているのが分かる。しかし種類は違えど、それは颯来も同様だった。
 今、颯来の前で構えているのは、同じ高校で同級生の、目標でありライバル、仲間であり、そして同じ女を好きになった千城武彦ではない。
 颯来がここに立つ理由、弱かったあの日の自分、それを超えるための最大の壁。それがここにある、亡き先生に誓った約束が目の前にいる。友と出会い、弱き心、狭き心を鍛えてきた。
(勝負だ!)
 千城が突いて来る、突きの二連打、三連打。これほど突ける高校生は他にいるまい。躱しきれずに胴に当たる。分かっている、これは一本を取るためではない、崩すためにある。
 颯来の体勢が崩れたところへ千城は面に飛び込む。
(もっと引き付けろ)
 千城の竹刀を払うことなく自身の竹刀の峰を滑らす。さっきと違い切り落とさず右手側へ引き寄せる。
(豊橋戦を思い出せ、峰に沿わせて離すな、彦の竹刀を自由にさせてはいけない)
 竹刀がまるで自身の手と同じような感覚に研ぎ澄まされている。
「竹刀が……颯来の竹刀から離れない?」
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