義父の3回忌 

文字数 2,062文字

3年前の今日、ダディンのお父さんが亡くなった。心臓発作だった。

突然だった。義父は何年も前に心臓バイパスの手術を受けて、心臓に2本バイパスが入っていたのだけれど、その後は発作を起こすこともなく安定していた。だから誰も予期していなかった。

だけど私は、彼はどこかで虫の知らせとでもいうのかな、自分の死を知っていたんじゃないかと思うんだ。

亡くなった1週間前が義父の誕生日だった。

夫から、自分の両親は家族の絆を大切にするので、何か家族の記念日には必ず全員が集まらなければならないのだと聞かされていたから、ずっと私もその意向に沿うように努めていた。だけど次第に独断的で威圧的な義母の態度が、ただでさえ外国暮らしがストレスだった自分には耐え難いものになっていった。事あるごとに召集がかかるファミリーイベントもストレスで、初めてその年、義母のバースデーパーティーを欠席したのだった。

義父のバースデーパーティーの数日前、義父から私に直接電話がかかってきた。日曜のパーティーは自分にとってとても重要なので、どうしても私とメェにも来て欲しいのだ、と。義父は無口な人で、超がつくほど電話嫌いで、家に電話がかかってきても無視して出ないほどだったから、自分から誰かに電話をかけるなんてあり得ないくらい珍しいことだった。

もちろん、行った。子どもたち4人とその家族全員が義父の家に集まって、彼の誕生日を祝ったのだった。その1週間後に義父は亡くなったのだ。

その夜のことは今でもはっきりと覚えている。

当時3歳だった娘の隣に添い寝をして絵本を読み聞かせて、いつものように寝かしつけようとしていた。メェは哺乳瓶をだらだらと飲んではいたものの瞼は閉じかけ、そろそろ眠くなりかけていた。

突然、娘がマントラを唱え始めのだった。オン・マニ・ペメ・フンOM MANI PADME HUM、と。

娘がこんなふうにマントラを唱えるなんて、なかったことだった。私と一緒に地元のチベット仏教寺院に行くこともあったから、そのマントラ自体は知っていたはずだけど、それにしてたって…。訝りつつ、なんとなく時計を見たら8時半近かった。

それから間もなく玄関のドアベルが鳴り、誰か女性の声がした。バタバタ物音がして、ドアが閉まる音がした。

やっと娘を寝かしつけて寝室から出たら、夫の姿がなかった。車もなくなっていた。

もしかして…と留守録を再生してみたら、女性の悲鳴の後に
「Oh my God! Oh my God! Darling, Darling!」と叫ぶ声がして、そうしてプツンと切れた。

ただ事でないのはわかったけれども、悲鳴に近いヒステリックな声なので、電話の主が誰なのかはわからなかった。声の感じから、もしかして夫の親友の奥さんかも…とも思った。

混乱しつつも、娘は眠っているし、車は夫が乗っていってしまったし…。とりあえず私は自分の1番落ち着く場所、書斎に行った。パソコンを立ち上げ、小説にかかった。こういうときは自分の現実ではなく、自分のキャラクターたちが創り上げる世界に飛び込んでしまうに限る。

ふと、背後のドアに誰かが立った気配がした。ドアが軋んで、振り返るとき書棚に飾った自分の家族の写真に目が行った。ダディンとメェと、私。

ふいに人生は儚い。今、家族と呼んでいる人たちと過ごせる時間も限られている。今、大切にしなければ、あっという間に終わってしまうって、強烈な感覚に襲われた。

なんとなく義父がそこにいるような気がした。同時に、彼が亡くなったのだと悟ったのだった。その、部屋に誰かがいる、見られているという感覚は暫く続いていた。

真夜中近く夫が戻って来た。夫は焦燥しきった様子で、父親が亡くなったことを告げた。

義父は夕食を電子レンジに入れてからバスルームに行き、そのまま戻ってこなかったのだそうだ。義父母は二人でテレビを見ていたのだが、夫が30分経っても戻ってこないので不審に思った義母が、バスルームで倒れている彼を見つけた。救急隊員の話では強烈な心臓発作で、即死だったそうだ。苦しまずに逝ったというのが、残された家族のせめてもの救いとなった。

私たちは娘を起こして、夫の実家に向かった。着いたときには遠方に住む夫の妹ファミリー以外、全員が集まっていた。

義父はベッドに横たわり、安らかに、ほんとうに眠っているみたいだった。亡くなっていても、見えなくても、私は彼の存在をはっきりと感じていた。

胸の内でもう何年も自分の中でわだかまっていた想いを義父に伝えて、謝り、そして彼の最後の誕生日にああして電話をかけてきてくれたことに感謝を伝えた。あの日行かなければ、きっと後悔したことだろう。

それからもお葬式とお別れパーティーが終わるまで、私は彼の存在を頻繁に感じていた。そう感じていたのは、もちろん私だけではなかった。

あれから3年の月日が流れた。私たちは義父を偲んで、義母が裏庭に建てた天使の石像の蝋燭に火を灯した。

その夜ディナーを終えても、庭の木の下で蝋燭の炎は燃えつづけていた。

2208年8月7日
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