命の樹とザリガニ

文字数 2,747文字

地元のチベット仏教寺院では子どもの仏教教室Dharma Clubが月1で日曜日に開かれる。毎回テーマやイベントを変えて、瞑想の仕方や仏法を子どもたちに楽しく教えてくれるので、ウチの子たちも時々参加している。

今月は子どもたちが地元の陶芸家と一緒に創った「Tree of Life―命の樹」というアートのお披露目と「Saving Lives―放生会」だった。命の大切さを学ぶ機会である放生会は、ウチの子たちのお気に入りだ。

ダルマクラブには大勢の子どもたちが集まっていた。窓側の壁1面に飾られた陶芸画「命の樹」は垂れ幕で覆われていた。7月8月にDharmaクラブで行われた陶芸の制作には、残念ながらウチの子たちは日本へ一時帰国していたため関われなかったのだけれど、総勢80人近い子どもたちが陶芸家のUさんに教わって木の枝や葉、鳥や動物たちを作ったのだそうだ。それをUさんが工房で焼き上げて、壁画として一つにまとめあげたのだという。

親たちもかなり参加しているのでぎゅうぎゅう詰めの会場に、6人のチベット僧が入ってきた。祝祷はお坊さんがあげてくれるそうで、なかなか本格的である。

陶芸家のUさんに主宰者のM先生から謝辞とプレゼントが贈られた。Uさんがリボンを切ると、壁一面にカラフルな大樹が現れた。のびのびと張った枝々に、子どもたちが作ったあでやかな葉っぱが開き、小鳥やイモリ、虫やポッサム、モンバットやカンガルー、たくさんの生き物たちが遊んでいる。幹に坐しているのは、黄金に輝く仏陀。お日さまの光を浴びて、ハッピー・ツリーだ。

その樹を前に陶芸家のUさんは、私たちがたとえば光合成や呼吸を通していかに木々に助けられているか、木の大切さについて話し始めた。

その後をM先生が続ける。この樹にたくさんの命が宿っているように、この世界にもたくさんの命が(自分だけではなく)息づいている。たくさんの命に、私たちは助けられて生きているのだ。だから私たちも何かを考え、話し、行動するときにはハッピーに考えて、ハッピーに話して、ハッピーな行動をしましょう、と。自分自身がこの命の樹のような幸せの大樹となって、虫や鳥やみんなを幸せにできるように。種を撒いて、水をあげて、大きく高く陽光へと伸びるように、自分を育ててゆきましょう、と。

「ではこれから命の樹の祝祷にあたって、特別ゲストを紹介しましょう」と、M先生。水槽3つに入れられたザリガニが紹介された。

魚釣りの餌用に売られていたザリガニを買ってきたのだと、子どもたちに説明した。本来ならこのザリガニたちは、釣針の先に刺されて身悶えながら死ぬはずだったこと(針先でもがき動き続けるからザリガニは魚の餌として好まれるのだそうで…)。その残酷な運命から彼らには逃れる術がなかったこと。けれど私たちにはこのザリガニを助けることができるのだ。これからお坊さんたちと一緒にザリガニの幸福を祈り、それから裏の公園の湖に逃がしてあげましょう、と。

それからチベット僧が祝祷や瞑想について簡単に説明してくれた。僧侶たちが祈祷を始めると、部屋中に低く野太い読経をする声が響き渡った。

部屋に白光が現れて、部屋中を満たしてゆくとイメージするようにと、M先生のガイダンスが入る。光が自分に、皆に、ザリガニたちに降り注ぎ、私たちのハートに入って全身を満たし、広がって、公園にいる全ての生き物、人たちに、どこまでもどこまでも伸びてゆく。このやさしい光を私たちはいつでもみんなに差し出すことができるのだ、と。

ほんとうに平和で温かな光が部屋中に溢れてゆくようだった。うちの娘も座って目を閉じで、ひたすらに両手を合わせていた。ちなみにムゥの方はザリガニが紹介される前に奇声を発し、ダディンとともに退場してしまったのだけれど。

その後、ザリガニが1匹ずつプラスチックの容器に入れられて子どもたちに手渡された。私の預かったザリガニは2匹だったが、娘のザリガニの半分ほどの大きさしかない子どもだった。

ザリガニの入った容器を抱え、僧侶や皆の後に続き、寺院を出て、裏の公園まで歩いた。メェもそうだが、子どもたちは皆ザリガニの入った容器を落とさないように両手で大切そうに抱えているので、なかなか歩が進まない。ほぼ牛歩、いや亀歩きである。外はぽかぽかと晴れ渡り、素晴らしくいいお天気だ。陽光を浴び緑の中を歩いてゆくのは気持ち良かった。

湖の岸辺に屈み、私はもう1度この双子(とは限らないけれど)のザリガニのために祈った。今までザリガニを可愛いと思ったことはなかったのだけど、こうして向き合っていると、なんだか可愛らしい。この子たちのために祈れば祈るほど、2匹のザリガニがこの世に稀にみる貴重で大切な存在に思えてくる。ザリガニって、なんて愛らしいんだろう。

元気で生き延びて大きくなれるようにとか、心から語りかけて、2匹のザリガニをそうっと湖に離した。暫くザリガニは水面下でじ~っとしていたけれども、そのうち2匹とももぞもぞと歩き始めた。

隣を見れば、メェはまだ腰を屈め、容器を両手で抱えて、ザリガニに見入っている。ようやっと湖に離した後も、ザリガニが藻の陰に消えて見えなくなるまで眺めていた。そうして彼女は言ったのだった。

「ママ、メェのザリガニはね、ハサミが一つなかったんだよ。だからハサミがなくても生きていけるように、長いことお祈りしなくちゃならなかったんだよ」と。

胸の奥が熱くなった。数年前、彼女がまだ幼稚園児だったころ、このイベントに連れてきたことがあった。そのときも彼女のザリガニはハサミが一つなかったのだった。そしてそのときメェは自分のザリガニのハサミがなかったことで、泣いた。ザリガニのことを思って泣いたのか、自分の元に来たザリガニが皆と違っていたことが哀しかったのかは分からないけれど。その彼女が今はハサミが欠けているぶん長く祈ったという。自分よりもザリガニの視点に立っていることが、そうしてささやかでも自分にも何かできるのではないかと考えてくれたことが、とてつもなく嬉しかった。

いつの時代もそうなのだろうが、この世には無力感が溢れている。だけど無力感に圧倒されてしまったら、私たちは実際、力を失ってしまうだろう。たとえどんなささやかなことであろうとも、自分にも他者のために何かできるのだと思えることは、とても重要なんじゃなかろうか。とりわけ子どもたちに、小さな自分たちにも何かできるんだ、と実感できるような機会を与えてあげることは大切だと思うんだ。

陽光の下、ゆったりと前を歩いてゆく僧侶たちの袈裟を眺めながら、子どもたちに、そして大人の私にまでこういう機会を与えてくれる存在をとても嬉しく思った。

 2009/10/11
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