心の学び場
文字数 2,983文字
地元のチベット仏教センターでは月に1度、子どもたちの仏教教室「ダーマクラブDharma Club」が開かれる。息子の方は家で遊んでいたいというので、娘を連れて参加してきた。
お天気も悪く寒かったせいか、子どもたちの数もいつもより少なくて20人ほどだった。教えてくれるのはチベット仏教を何十年も勉強しているというJ先生で、小学校の先生でもある。
まず輪になって、それぞれ自己紹介をしてから短い瞑想をした。いつもならこの後、子どもたちの年齢によって3グループに分かれるのだけど、今日は人数が少ないので2グループに。8歳のメェは小学生の子どもたちに混じった。
子どもたちのためのシンプルな仏教教室ながら、大人が聞いてもなかなか面白いの。子どもの教育に役立つ実践的なインスピレーションもいろいろともらえるので、私も時間があるときにはメェに付き添いがてら参加することにしている。
今日のテーマは「怒り」のコントロールだった。
まず先生が仏教の絵本を読み聞かせた。リトル・ブッダが怒りまくる友だちに穏やかに対応するってお話である。それから子どもたちと怒りについて話し合った。
怒っている人はどんなふうに見える?
素敵? 近寄りたくない? 恐い?
怒っているときはどんな気持ち?
イライラする? 哀しい? ハッピー?
あなたが誰かに怒ったとき、何をしている?
その人に怒鳴る? やさしくする? 攻撃する?
その後、相手はどうする?
褒めてくれる? 怒鳴り返す?
それでその後、どんなことが起こるのかな?
何かいいこと? 嫌なこと?
怒りは、ほんとうにあなたをハッピーにしてくれた?
怒りは、ずっと続くの?
それとも、そのうち収まるもの?
怒りは、あなた自身なの?
怒りをコントロールするには、どうすればいい?
怒ったとき、どうすれば怒りを鎮められるかな?
誰かがあなたのことを怒ったら、どうする?
怒鳴り返す? 逃げる? どうして怒っているのか尋ねる?
子どもたちは、怒りという感情について話し合ってゆく。そして自分の中の怒りと向き合い、怒りの経験を探り、怒りに対する対処法を考えてゆくんだ。
それから怒りを観察・分析するためのシートが配られた。さっきみんなと話し合って考えたことをもとに、それぞれが考えを纏めてゆく。言葉に記すことで、怒りに対する理解を深めてゆくのだ。
子ども用にアレンジされたものとはいえ、こういう観察と分析によるアプローチはチベット仏教のエッセンスである。これも仏教が宗教と言うより心理学だといわれる所以だろう。
メェは自分より2、3歳年上の女の子と組んでシート作業にいそしんでいる。そんな娘の後ろ姿を眺めながら、私も自分の怒りについて考えてみた。私は怒りをコントロールできているんだろうか? 怒りに振り回されたりしていないか?とか。
私はもともと怒りっぽい人間である。20代のころは短気のうえ忍耐力にも欠けて、瞬間湯沸かし器タイプだったナ。自分でもあのころから比べればだいぶマシになったとは思う。とはいえ、いやぁ、まだまだだなぁ~。
ただ子どもを叱るときには、怒らないように気をつけている。教育は怒りからではなく愛と英知からされなければならないって、有名な金言を守ろうとして。もちろん怒った振りはするけれど、決して心は怒らないように。ワンちゃんたちの躾けも同様ですよね。
これも言うは易し、行うは―で、実践するのは難しい~。とりわけ忙しいときに支離滅裂な我儘難題を突き付けてギャーギャー泣き喚く息子や、エラソーに生意気な言い訳を並べ立てては逆切れする娘、さっきトイレに行かせたのに、しら~とおしっこを床にしてしまう愛犬チャー君とかを前にしては。演技じゃなくてほんと~に声が震えてしまったりして。それでもなんとか怒らずに叱れているかな、とは思う。
私の場合、怒りのコントロールについて、練習の場を多々提供してくれているのは間違いなく夫である。ダディンが「お靴にお砂が入った~」とむずがるムゥの靴を脱がせて、その靴を食卓の上にのせてしまうときとか(ちなみに以前は、ひぇ~、なんて不衛生なの~っ!?と青筋立ったものだけど、日本人ママ友たちの話からすると、靴を食卓に置いてしまうオージーダディや義父母は何もうちのダディンや義母だけではないらしい…)。彼が真顔でハッタリをかましたりとか、私がとてもそんな気温じゃないと言っているのに、子どもたちを海やプールに連れ出して風邪をひかせてしまうときなんか―。日々ささやかながら、けれど確実に私の忍耐が試される場を提供してくれているんだ。
怒りからではなく愛と英知から話し合わなくてはならない。そう頭ではわかっていても、心は直ちにキーッ!!! だから言ったのに~、あんたって奴は~っ!!と、ほぉら、怒りで声も指先もピキビキッと震えているでしょう。彼なしに私の忍耐や怒りのコントロールに関する学びの場はなかったかもしれない。そう考えれば感謝、なのかなぁ…て、違うか。
さて、怒りのレポートを完成させた子どもたち。今度はJ先生の作ったゲームを始める。
一人がメッセージの入った箱を手にして、みんなで音楽に合わせて歩く。音楽が止まったとき、箱を手にした子が箱の中から紙を1枚抜き取って、向き合っている子にその言葉を投げかける。
箱の中には2種類の紙が入っていて、ピンクの紙には「君はやさしい人だね~」とか「一緒に遊ぼう?」とかポジティヴな言葉が記されている。緑の紙には「君にはムカつくよ!」とか「君なんか嫌いだ、向こうへ行け!」とかネガティヴな言葉が。それを感情こめて相手に伝える。
言われた子は、その言葉を受け取ってもいいし、拒否してもいい。受け取った子は箱ごと受け取って、次のメッセージを誰かに手渡すってゲームである。
ゲームを通して子どもたちはコミュニケーションを学べるようになっている。たとえば何がポジティヴで、何がネガティヴな言葉なのかを認識してゆく。
そうして、それに続く結果(いわゆるカルマですねぇ)を学ぶ。
また、他者から投げられたネガティヴな言動は、受け取らなくてもよいのだ、とゲームを通して練習してゆくんだ。
誰かにネガティヴな言葉を言ったらどうなるか? 人から言われたネガティヴな言葉も、いちいち真に受けて気にしたり、傷つく必要もない。そういうことをきちんと認識していることは大切だから。
ゲームの後、時間が余ったので絵本のぬり絵をした。今日の話にあった、怒っている人と平常心の人のオーラを色で表現して区別しようとしていた。その後は小さい子のクラスも交じって、みんなでモーニング・ティー(ほとんどランチの時間だったけど)を楽しんだ。
ソーセージロールをほおばる娘を眺めながら、ふと思う。私は子どものころピアノや習字、通信学習や塾なんて習い事を (わたしの希望でなかったことは別として) いろいろさせてもらった。けれど自分の心と向き合ったり、人の心を考えたり、心について学ぶ場はほとんどなかった。
もちろん、それは人生の中で日々学んでゆくことではあるのだけれど、あの莫大な時間をかける偏差値的教育を思うとき、もっと心についての学習の場があっても良かったな~と思う。
こういう場がいつの日か娘や子どもたちの力になるだろうことを願いつつ。
2010/6/20
お天気も悪く寒かったせいか、子どもたちの数もいつもより少なくて20人ほどだった。教えてくれるのはチベット仏教を何十年も勉強しているというJ先生で、小学校の先生でもある。
まず輪になって、それぞれ自己紹介をしてから短い瞑想をした。いつもならこの後、子どもたちの年齢によって3グループに分かれるのだけど、今日は人数が少ないので2グループに。8歳のメェは小学生の子どもたちに混じった。
子どもたちのためのシンプルな仏教教室ながら、大人が聞いてもなかなか面白いの。子どもの教育に役立つ実践的なインスピレーションもいろいろともらえるので、私も時間があるときにはメェに付き添いがてら参加することにしている。
今日のテーマは「怒り」のコントロールだった。
まず先生が仏教の絵本を読み聞かせた。リトル・ブッダが怒りまくる友だちに穏やかに対応するってお話である。それから子どもたちと怒りについて話し合った。
怒っている人はどんなふうに見える?
素敵? 近寄りたくない? 恐い?
怒っているときはどんな気持ち?
イライラする? 哀しい? ハッピー?
あなたが誰かに怒ったとき、何をしている?
その人に怒鳴る? やさしくする? 攻撃する?
その後、相手はどうする?
褒めてくれる? 怒鳴り返す?
それでその後、どんなことが起こるのかな?
何かいいこと? 嫌なこと?
怒りは、ほんとうにあなたをハッピーにしてくれた?
怒りは、ずっと続くの?
それとも、そのうち収まるもの?
怒りは、あなた自身なの?
怒りをコントロールするには、どうすればいい?
怒ったとき、どうすれば怒りを鎮められるかな?
誰かがあなたのことを怒ったら、どうする?
怒鳴り返す? 逃げる? どうして怒っているのか尋ねる?
子どもたちは、怒りという感情について話し合ってゆく。そして自分の中の怒りと向き合い、怒りの経験を探り、怒りに対する対処法を考えてゆくんだ。
それから怒りを観察・分析するためのシートが配られた。さっきみんなと話し合って考えたことをもとに、それぞれが考えを纏めてゆく。言葉に記すことで、怒りに対する理解を深めてゆくのだ。
子ども用にアレンジされたものとはいえ、こういう観察と分析によるアプローチはチベット仏教のエッセンスである。これも仏教が宗教と言うより心理学だといわれる所以だろう。
メェは自分より2、3歳年上の女の子と組んでシート作業にいそしんでいる。そんな娘の後ろ姿を眺めながら、私も自分の怒りについて考えてみた。私は怒りをコントロールできているんだろうか? 怒りに振り回されたりしていないか?とか。
私はもともと怒りっぽい人間である。20代のころは短気のうえ忍耐力にも欠けて、瞬間湯沸かし器タイプだったナ。自分でもあのころから比べればだいぶマシになったとは思う。とはいえ、いやぁ、まだまだだなぁ~。
ただ子どもを叱るときには、怒らないように気をつけている。教育は怒りからではなく愛と英知からされなければならないって、有名な金言を守ろうとして。もちろん怒った振りはするけれど、決して心は怒らないように。ワンちゃんたちの躾けも同様ですよね。
これも言うは易し、行うは―で、実践するのは難しい~。とりわけ忙しいときに支離滅裂な我儘難題を突き付けてギャーギャー泣き喚く息子や、エラソーに生意気な言い訳を並べ立てては逆切れする娘、さっきトイレに行かせたのに、しら~とおしっこを床にしてしまう愛犬チャー君とかを前にしては。演技じゃなくてほんと~に声が震えてしまったりして。それでもなんとか怒らずに叱れているかな、とは思う。
私の場合、怒りのコントロールについて、練習の場を多々提供してくれているのは間違いなく夫である。ダディンが「お靴にお砂が入った~」とむずがるムゥの靴を脱がせて、その靴を食卓の上にのせてしまうときとか(ちなみに以前は、ひぇ~、なんて不衛生なの~っ!?と青筋立ったものだけど、日本人ママ友たちの話からすると、靴を食卓に置いてしまうオージーダディや義父母は何もうちのダディンや義母だけではないらしい…)。彼が真顔でハッタリをかましたりとか、私がとてもそんな気温じゃないと言っているのに、子どもたちを海やプールに連れ出して風邪をひかせてしまうときなんか―。日々ささやかながら、けれど確実に私の忍耐が試される場を提供してくれているんだ。
怒りからではなく愛と英知から話し合わなくてはならない。そう頭ではわかっていても、心は直ちにキーッ!!! だから言ったのに~、あんたって奴は~っ!!と、ほぉら、怒りで声も指先もピキビキッと震えているでしょう。彼なしに私の忍耐や怒りのコントロールに関する学びの場はなかったかもしれない。そう考えれば感謝、なのかなぁ…て、違うか。
さて、怒りのレポートを完成させた子どもたち。今度はJ先生の作ったゲームを始める。
一人がメッセージの入った箱を手にして、みんなで音楽に合わせて歩く。音楽が止まったとき、箱を手にした子が箱の中から紙を1枚抜き取って、向き合っている子にその言葉を投げかける。
箱の中には2種類の紙が入っていて、ピンクの紙には「君はやさしい人だね~」とか「一緒に遊ぼう?」とかポジティヴな言葉が記されている。緑の紙には「君にはムカつくよ!」とか「君なんか嫌いだ、向こうへ行け!」とかネガティヴな言葉が。それを感情こめて相手に伝える。
言われた子は、その言葉を受け取ってもいいし、拒否してもいい。受け取った子は箱ごと受け取って、次のメッセージを誰かに手渡すってゲームである。
ゲームを通して子どもたちはコミュニケーションを学べるようになっている。たとえば何がポジティヴで、何がネガティヴな言葉なのかを認識してゆく。
そうして、それに続く結果(いわゆるカルマですねぇ)を学ぶ。
また、他者から投げられたネガティヴな言動は、受け取らなくてもよいのだ、とゲームを通して練習してゆくんだ。
誰かにネガティヴな言葉を言ったらどうなるか? 人から言われたネガティヴな言葉も、いちいち真に受けて気にしたり、傷つく必要もない。そういうことをきちんと認識していることは大切だから。
ゲームの後、時間が余ったので絵本のぬり絵をした。今日の話にあった、怒っている人と平常心の人のオーラを色で表現して区別しようとしていた。その後は小さい子のクラスも交じって、みんなでモーニング・ティー(ほとんどランチの時間だったけど)を楽しんだ。
ソーセージロールをほおばる娘を眺めながら、ふと思う。私は子どものころピアノや習字、通信学習や塾なんて習い事を (わたしの希望でなかったことは別として) いろいろさせてもらった。けれど自分の心と向き合ったり、人の心を考えたり、心について学ぶ場はほとんどなかった。
もちろん、それは人生の中で日々学んでゆくことではあるのだけれど、あの莫大な時間をかける偏差値的教育を思うとき、もっと心についての学習の場があっても良かったな~と思う。
こういう場がいつの日か娘や子どもたちの力になるだろうことを願いつつ。
2010/6/20