第110話
文字数 3,271文字
「うちで、須美子さんと同居する事にしたの。あの人も一人で寂しいから、置いて欲しいって。勿論、同居するんだから、ヘルバー代は要らないって言うのよ。逆に部屋代とか生活費を払うって。その代りに、余所へヘルバーの仕事に出るそうよ」
思いがけない母の言葉に、芹歌は二の句が継げない。
「じゃぁ、私の世話は誰が?って思うでしょう?それは大丈夫。私は引き続き、ゆう君と須美子さんの助けを借りて、ちゃんと歩けるように頑張るから。今だって、時間は多少は掛るけど、身の回りのちょっとした事なら自分で出来るのよ?」
「あ、あの、本気なの?」
やっと言葉が出るようになった。
他人と住むなんて、信じられない話しだ。
「本気よ。それとね。須美子さんや、神永君がいない昼間はね。自宅で英会話教室を開くつもりなの。それなら私でも出来る仕事でしょ?ひとりで寂しい思いをしなくて済むし、お金にもなるし、一石二鳥じゃない?」
「だ、けど……」
何と言ったら良いのかわからなくて、芹歌は真田へ顔を向ける。
真田も驚いたように目を瞠 っていたが、芹歌の視線を受けて静かに微笑んだ。
「それがいいってお母さんがおっしゃるなら、いいんじゃないのかな?」
「ええ?でも。そんな簡単にいく?私、心配だわ」
「大丈夫よ。須美子さんとは長いでしょ?気心が知れてるし、ずっと私の我がままに上手に付き合ってきてくれた、あの人よ?私は信用してるの。それにね。この案は、ゆう君の提案なのよ。私、ゆう君から聞いて、コレだ!って思ったわ。さすがよね、ゆう君」
「芹歌さん……」
落ち着いた声音だった。
「他人の僕が、さしでがましい事をしてすみません。ですが、どうすれば実花さんにとって一番いいのか、僕も考えた結果です。自分の足で歩こうと頑張りだした実花さんが、このまま日本に残って自立しようって思ってる。その気持ちを大事にしてあげたかった」
「神永君……」
せつなそうな表情で見つめられて、胸がジンとした。
「ゆう君はね。これからもうちに遊びに来てくれるのよ。近くに引っ越して来て、頻繁に私たちの様子を見てくれるの。勿論、足の訓練も引き続きやってくれるって。だから、あなたの留守中、あなたのピアノを彼に貸してあげてもいいわよね?」
「あ……、の……」
頭の中が混乱しだした。
それで良いのだろうか、と思う気持ちと、良かったと安堵する気持ちがせめぎ合っている。
「お母さんね。ゆう君にそばにいて欲しいのよ。本当は、あなたのお婿さんになってくれれば一番嬉しいんだけど、そういうわけにもいかなくなっちゃったでしょ?でも、ゆう君は息子みたいなものなの。ゆう君も本当に天涯孤独になっちゃったし。須美子さんも同じ。だから寂しい者同士3人で、助け合って生きてくのよ」
実花は晴れ晴れとするような笑顔で、そう言った。
「神永君は……、それで、いいの?」
「勿論です。芹歌さんがいないのは寂しいけれど、これで実花さんとまでお別れしたら、僕はちょっと自分の人生に自信が持てなくなりそうなんです。互いに助け合える人がいるって、幸せです。血の繋がりはないけど、須美子さんと3人、新しい家族だと思って頑張っていきますよ。だから、あなたは安心して渡欧して、あなたの人生で、幸せになって下さい」
「神永君、ありがとう……」
彼の想いがまだ自分にある事を感じた。
当然だろう。そんなに早くに切り替えられるなら、あんなにも執着はしなかったろうし、こんなに寂しそうな顔もしない。
「私、彼の事を思い出すたびに、胸が痛くなるの……」
真田は芹歌を抱く手に力を込めた。
「そうだな。それは、仕方ないと思ってる。いい奴だし、寂しい奴でもあるよな。俺がいなかったら、お前と幸せになってたかもしれないんだ。だからこそ、俺は、お前を幸せにする。絶対に。俺を選んだ事を後悔なんてさせやしない」
「幸也さん……。ありがとう」
優勝記念コンサートの後は、渡欧の準備に追われた。
二人が住む場所はドイツのデュッセルドルフだ。
ライン川の河畔に面した美しい街で工業が盛んだ。
日本人を始めとして外国企業が多く、治安も安定していて住みやすい。
気候も一年を通して安定している。
優勝した事で、その後、何かと忙しくて実際に渡欧するまでに時間がかかった。
その前に、久美子が先に渡米した。
「私は向こうで一人で頑張って来る。芹歌、真田さんと幸せにね」
見送りに来ないでくれと言われたので、芹歌も真田も空港まで行かなかったが、ただ一人、片倉は見送りに行ったようだ。
二人の間にどんな時間があったのかは分からないが、きっと笑顔で別れたに違いない。
そしてその片倉は、久美子が旅だった後に婚約者と結婚した。
「悪いね、一足お先に独身とサヨナラするよ」
そう言って、地元で身内だけの地味な結婚式を挙げた。
華やかな片倉に似つかわしくないと思ったが、本人は「葬式みたいなものだから、地味でいいの」と悪態をつくような口ぶりで笑っていた。
そして、渡欧の3日前に、芹歌と真田は結婚式を挙げて入籍した。
籍だけ入れて渡欧するつもりだったが、真田の母親である麻貴江がそれを許さなかった。
「一生に一度の事なのよ?しないと、後悔するわよ?芹歌ちゃん!」
もう殆ど、強引だった。
仕方が無いので任せたが、想像以上に盛大で、芹歌はただただ花嫁人形になって笑顔で座り続けていた時間だったと、後になって思う。
だが、真田はとても素敵だった。
いつも素敵だとは思うが、この時は最高の男ぶりで、彼の姿を見る度にポォっとなって、長い時間、正視できずにいたのだった。
芹歌自身も真田が選んだドレスに身を包み、彼の傍にいられる事が最高に幸せだった。
これからもこうしてずっと、一緒にいられるのだ。
披露宴も終わり、二人は疲れた体を近くのホテルで休め、翌日はディズニーランドへ出かけた。初めてのデートだ。
二人ともに、訪れるのは初めてだったので、勝手が全く分からずに何度も迷った。
音楽から離れて、純粋に恋人と楽しむ時間も幸せなんだな、と実感する。
そんな時間を2日に渡って楽しんだ後、旅立ちの日となった。
芹歌にとって、日本を離れるのは久しぶりだ。
真田の国際コンクールの時に一緒に渡欧したが、あの時はコンクールの為だけだったし、終わればすぐに帰国したので観光らしい観光もしていない。
それにあの時は、ソリストと伴奏者の関係でしかなかった。お互いに心はコンクールの事で一杯だったのだ。
だが今は違う。
音楽の為に渡欧するが、それは自分だけの為ではなく、共に奏で合う為だった。
二人で広い世界に挑戦する。それが嬉しくもあり、怖くもあった。
皆の見送りを受けた後、二人で手を繋いで搭乗ゲートをくぐる。
「芹歌……」
「はい……」
「やっと一緒に歩いていけるけど」
「そうですね」
「いいことばかりじゃ、無いと思う」
「ん……」
確かにそうだろう。今はとても幸せだが、この先の事は分からない。
「だけど……、何があっても、信じ合おう。他の誰も信じられなくなっても、俺は芹歌だけは信じてる。だから、芹歌も俺だけは信じつづけて欲しい」
「そうする。信じつづける。だけど私、おニブだから」
わざとそう言うと、真田は笑った。
「あはは、そうだな。でも大丈夫。それはよく分かってる。ちゃんと通じるように、言葉を尽くすよ。それでも駄目だったら、音楽だな。この最終兵器があれば、大丈夫だろ?」
「そうだね」
芹歌は真田の手を強く握りながら、笑った。
そう。最終兵器があれば、大丈夫。
音楽があれば、必ず通じ合える。今までもそうだった。
飛行機に乗り込む時、神永が歌うセレナーデが聞えて来た気がした。
随分と聴かされて、ウンザリもしたが、今は耳に心地良く蘇って来る。
――芹歌さんの幸せを祈ってます。
そう歌ってくれているようだった。
「芹歌……」
真田が手を伸ばす。
その手を取って飛行機へと向かう。
これから共に奏でる音を、世界が待ってくれているような気がして、芹歌の心は躍った。
The End.
思いがけない母の言葉に、芹歌は二の句が継げない。
「じゃぁ、私の世話は誰が?って思うでしょう?それは大丈夫。私は引き続き、ゆう君と須美子さんの助けを借りて、ちゃんと歩けるように頑張るから。今だって、時間は多少は掛るけど、身の回りのちょっとした事なら自分で出来るのよ?」
「あ、あの、本気なの?」
やっと言葉が出るようになった。
他人と住むなんて、信じられない話しだ。
「本気よ。それとね。須美子さんや、神永君がいない昼間はね。自宅で英会話教室を開くつもりなの。それなら私でも出来る仕事でしょ?ひとりで寂しい思いをしなくて済むし、お金にもなるし、一石二鳥じゃない?」
「だ、けど……」
何と言ったら良いのかわからなくて、芹歌は真田へ顔を向ける。
真田も驚いたように目を
「それがいいってお母さんがおっしゃるなら、いいんじゃないのかな?」
「ええ?でも。そんな簡単にいく?私、心配だわ」
「大丈夫よ。須美子さんとは長いでしょ?気心が知れてるし、ずっと私の我がままに上手に付き合ってきてくれた、あの人よ?私は信用してるの。それにね。この案は、ゆう君の提案なのよ。私、ゆう君から聞いて、コレだ!って思ったわ。さすがよね、ゆう君」
「芹歌さん……」
落ち着いた声音だった。
「他人の僕が、さしでがましい事をしてすみません。ですが、どうすれば実花さんにとって一番いいのか、僕も考えた結果です。自分の足で歩こうと頑張りだした実花さんが、このまま日本に残って自立しようって思ってる。その気持ちを大事にしてあげたかった」
「神永君……」
せつなそうな表情で見つめられて、胸がジンとした。
「ゆう君はね。これからもうちに遊びに来てくれるのよ。近くに引っ越して来て、頻繁に私たちの様子を見てくれるの。勿論、足の訓練も引き続きやってくれるって。だから、あなたの留守中、あなたのピアノを彼に貸してあげてもいいわよね?」
「あ……、の……」
頭の中が混乱しだした。
それで良いのだろうか、と思う気持ちと、良かったと安堵する気持ちがせめぎ合っている。
「お母さんね。ゆう君にそばにいて欲しいのよ。本当は、あなたのお婿さんになってくれれば一番嬉しいんだけど、そういうわけにもいかなくなっちゃったでしょ?でも、ゆう君は息子みたいなものなの。ゆう君も本当に天涯孤独になっちゃったし。須美子さんも同じ。だから寂しい者同士3人で、助け合って生きてくのよ」
実花は晴れ晴れとするような笑顔で、そう言った。
「神永君は……、それで、いいの?」
「勿論です。芹歌さんがいないのは寂しいけれど、これで実花さんとまでお別れしたら、僕はちょっと自分の人生に自信が持てなくなりそうなんです。互いに助け合える人がいるって、幸せです。血の繋がりはないけど、須美子さんと3人、新しい家族だと思って頑張っていきますよ。だから、あなたは安心して渡欧して、あなたの人生で、幸せになって下さい」
「神永君、ありがとう……」
彼の想いがまだ自分にある事を感じた。
当然だろう。そんなに早くに切り替えられるなら、あんなにも執着はしなかったろうし、こんなに寂しそうな顔もしない。
「私、彼の事を思い出すたびに、胸が痛くなるの……」
真田は芹歌を抱く手に力を込めた。
「そうだな。それは、仕方ないと思ってる。いい奴だし、寂しい奴でもあるよな。俺がいなかったら、お前と幸せになってたかもしれないんだ。だからこそ、俺は、お前を幸せにする。絶対に。俺を選んだ事を後悔なんてさせやしない」
「幸也さん……。ありがとう」
優勝記念コンサートの後は、渡欧の準備に追われた。
二人が住む場所はドイツのデュッセルドルフだ。
ライン川の河畔に面した美しい街で工業が盛んだ。
日本人を始めとして外国企業が多く、治安も安定していて住みやすい。
気候も一年を通して安定している。
優勝した事で、その後、何かと忙しくて実際に渡欧するまでに時間がかかった。
その前に、久美子が先に渡米した。
「私は向こうで一人で頑張って来る。芹歌、真田さんと幸せにね」
見送りに来ないでくれと言われたので、芹歌も真田も空港まで行かなかったが、ただ一人、片倉は見送りに行ったようだ。
二人の間にどんな時間があったのかは分からないが、きっと笑顔で別れたに違いない。
そしてその片倉は、久美子が旅だった後に婚約者と結婚した。
「悪いね、一足お先に独身とサヨナラするよ」
そう言って、地元で身内だけの地味な結婚式を挙げた。
華やかな片倉に似つかわしくないと思ったが、本人は「葬式みたいなものだから、地味でいいの」と悪態をつくような口ぶりで笑っていた。
そして、渡欧の3日前に、芹歌と真田は結婚式を挙げて入籍した。
籍だけ入れて渡欧するつもりだったが、真田の母親である麻貴江がそれを許さなかった。
「一生に一度の事なのよ?しないと、後悔するわよ?芹歌ちゃん!」
もう殆ど、強引だった。
仕方が無いので任せたが、想像以上に盛大で、芹歌はただただ花嫁人形になって笑顔で座り続けていた時間だったと、後になって思う。
だが、真田はとても素敵だった。
いつも素敵だとは思うが、この時は最高の男ぶりで、彼の姿を見る度にポォっとなって、長い時間、正視できずにいたのだった。
芹歌自身も真田が選んだドレスに身を包み、彼の傍にいられる事が最高に幸せだった。
これからもこうしてずっと、一緒にいられるのだ。
披露宴も終わり、二人は疲れた体を近くのホテルで休め、翌日はディズニーランドへ出かけた。初めてのデートだ。
二人ともに、訪れるのは初めてだったので、勝手が全く分からずに何度も迷った。
音楽から離れて、純粋に恋人と楽しむ時間も幸せなんだな、と実感する。
そんな時間を2日に渡って楽しんだ後、旅立ちの日となった。
芹歌にとって、日本を離れるのは久しぶりだ。
真田の国際コンクールの時に一緒に渡欧したが、あの時はコンクールの為だけだったし、終わればすぐに帰国したので観光らしい観光もしていない。
それにあの時は、ソリストと伴奏者の関係でしかなかった。お互いに心はコンクールの事で一杯だったのだ。
だが今は違う。
音楽の為に渡欧するが、それは自分だけの為ではなく、共に奏で合う為だった。
二人で広い世界に挑戦する。それが嬉しくもあり、怖くもあった。
皆の見送りを受けた後、二人で手を繋いで搭乗ゲートをくぐる。
「芹歌……」
「はい……」
「やっと一緒に歩いていけるけど」
「そうですね」
「いいことばかりじゃ、無いと思う」
「ん……」
確かにそうだろう。今はとても幸せだが、この先の事は分からない。
「だけど……、何があっても、信じ合おう。他の誰も信じられなくなっても、俺は芹歌だけは信じてる。だから、芹歌も俺だけは信じつづけて欲しい」
「そうする。信じつづける。だけど私、おニブだから」
わざとそう言うと、真田は笑った。
「あはは、そうだな。でも大丈夫。それはよく分かってる。ちゃんと通じるように、言葉を尽くすよ。それでも駄目だったら、音楽だな。この最終兵器があれば、大丈夫だろ?」
「そうだね」
芹歌は真田の手を強く握りながら、笑った。
そう。最終兵器があれば、大丈夫。
音楽があれば、必ず通じ合える。今までもそうだった。
飛行機に乗り込む時、神永が歌うセレナーデが聞えて来た気がした。
随分と聴かされて、ウンザリもしたが、今は耳に心地良く蘇って来る。
――芹歌さんの幸せを祈ってます。
そう歌ってくれているようだった。
「芹歌……」
真田が手を伸ばす。
その手を取って飛行機へと向かう。
これから共に奏でる音を、世界が待ってくれているような気がして、芹歌の心は躍った。
The End.